T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 11
 
 「何をしている!さっさと逃げろ!!」
 クライスが語気を荒げ、泰然としている少女へ向けて叫んだ。クライスにしては珍しく、苛立ちを露わにしていた。余裕など髪の毛の先程にもない、それほど切羽詰った事態だった。
 そんな焦燥を余所に、少女の空色の瞳は奇妙な静けさを秘めていた。自ら動く素振りすらみせず、まるで他人事である。だが、現実はそんな状況ではなかった。
 空に浮かんだあの鏃が落ちた時、間違いなくこの神殿は吹き飛ぶ。それ所か、この周囲全てが消えてなくなる可能性すらあった。何処に居ようが無関係に巻き込まれる、それが分からないはずがないのに、何故こんなにも平静を保っていられるのか。
 不意に、この人間離れした少女なら或いは――と、根拠のない予感を抱いた。だが、いちいち確かめている猶予はない。最早、その細腕を引き摺ってでも、この場を離れなくてはならない。そう決心したクライスは白い腕を掴み、強引に引き寄せる。
 しかし、少女はまるで地面に根を生やしたように、微動だにしなかった。信じられないことに、少女の腕が抜けるのではないかと心配になる程の力を込めても、半歩も動かせないでいた。
 「もう一度だけ聞く、それでお前はどうする?……いや、お前は……本当はどうしたい?」
 (俺がどうしたいか?そんな事は聞かれるまでもない。この場から一刻も早く立ち去りたい、それ以外に願うものなどあるはずが――)
 ふと、クライスの中にいる少女が、笑って、怒って、泣いて、驚いて、凛として――最後は、哀しい表情をしていた。感情と、向き合っていこうとしていた。
 大切なモノを何一つ――――約束一つ守れない、こんな自分と向き合ってくれた。
 ――ああ、そうだな。きっと彼女なら出来る。全てを受け入れて、立ち向かう事が出来る。新たな居場所でも明るく生きて、周りの人間を温かい気持ちにするのだろう。
 幸せを守る?未来を創る?それは俺の役目じゃない。俺に出来ることなんて、せいぜい信じることだけだ。そうだ、俺は信じることが出来る。それ以上、何を望むのか。
 「そういうことか……俺の願いは初めから――」
 体から、重荷が取れた気分だった。引き摺ることに慣れ過ぎて、いつ頃からか重さを感じれなくなっていた心が、雄弁に語り掛けているようだ。
 ――お願い、死なないで。
 意識の底から滲み出た言葉が、自分の生を全肯定する。
 体は相変わらず鉛のように重い。何も感じないはずの左手がジクジクと痛む。頭は未だに揺れている。吐き気が止めどなく押し寄せて来る。状態は最悪だった。
 けれど、心が軽かった。まだやれると叫んでいた。それに呼応するように、再び左手から闇が溢れ、踊るように揺らめいた。
 「ああ、そうだ。俺は死なない。こんな所で死ぬなんて許されない。それに……アイツを死なせる訳にはいかない。まだ、聞きたいことがあるからな」
 少女は小さな花が咲いたように笑う。まるで初めからその答えが分かっていたかのようだ。
 覚悟は決まったものの、肝心の問題は何も解決してはいない。あのシルファでさえ対抗しえなかった敵の攻撃が、今にも振って来ようとしていた。
 仮に、玉砕覚悟で上空へ飛び込んだとしても、距離が開きすぎている。相手に届く前に放たれれば一巻の終わりだ。それでは単なる分の悪い賭けでしかない。確実に生き残る為には、何か別のカードが必要だった。
 「お前には何か方法があるのか?この状況を変える方法が」
 首肯する少女の手には、いつのまにか一振りの長剣が握られていた。シルファでさえ使いこなせず、投げ捨ててしまった件の剣だ。
 「この剣を手に取り、我が名を呼んでおくれ。それが私とお前の契約だ。お前が私に力を与えるなら、私はお前の剣となりて、あらゆる敵を討ち滅ぼしてみせよう」
 その言葉に、一片の偽りも紛れてはいなかった。
 少女の手にした剣を改めて観察した。精巧な細工が施されているが、刻まれた銘はない。俗に言う魔剣のように禍々しい気配がする訳でもなければ、聖剣のように神性を秘めている様子もなかった。ともすれば、唯の変哲もない剣に見えてならなかった。
 だが、その認識は間違いでしかなかった。クライスが剣を受け取ろうとした瞬間、  「名前を……呼ぶ?それだけなのか?他には――」
 体中の毛穴が粟立った。触れた指先から理力が神経を駆け巡るような感覚に、寒気すら覚える程だ。剣の柄を握ると、その感覚は一層鋭利になった。これは『相性』などと言える類の問題ですらない。気を抜けば、意識を奪われかねない代物だ。こんなものと格闘してれば、誰だって自分の能力を発揮する暇も無いは当然のことだろう。
 「これを使って戦っていたというのか、アイツは……」
 ――自分は此処にいる!自分は此処にいる!自分は此処にいる!自分は此処にいる!
 唯の剣であるはずの存在が、引っ切り無しに叫んでいた。自分の存在に気付いてくれと、まるで迷子になった子どもが全力で、全霊で、訴えかけるようだ。
 「この子は、存在を固定する剣≪ザインゾルレン≫と言うらしい。少し騒がしいが――無口なお前にはちょうど良いだろう?」
 ――言うらしい?少し騒がしい?
 色々と引っ掛かる言い方に、クライスが問い詰めようとした時、空の気配が急変した。鏃の光が一段と輝きを増し、薄青に染め上げていた。
 「クライス、早く逃げるんだ……!」
 遠目に、シルファが警告を発していた。先刻とは全く逆の立場にあったが、何の因果か、立ってみれば同じ選択をしているではないか。だが、既に覚悟は決まっていた。そして今更逃げることも出来ない。今は唯、この眼前の少女を信じるのみである。
 「それで、お前の名は何だ!?」
 クライスが問う。
 「……………………………………」
 少女は無言を通す。  「おいっ、何をしてる!フザケてる場合じゃないぞ!!」
 冗談ではない。もう信じると決めたのだ。生まれて初めて、全てを相手に委ねているのだ。会って間もない、まだあどけなさの残る少女に、自分の命を託したのだ。沈黙では何の回答にもならない。せめて一言でも何をするのか口にして貰わなくては、信頼を置くことすら出来なくなるというのに、対する少女は一言、
 「……………………………………忘れた」
 そう言ってのけた。
 「自分の名が分からん…………私は、誰だ?」
 だがそれもまた、偽りの無い言葉だった。クライスは一瞬、その意味が分からず、二の句が見つからなかった。正真正銘の絶句だ。怒声や罵声も、嘆声や叫声すら発せない。頭の中で目まぐるしく言葉が渦巻いていたが、全てどろどろに溶けて形にならない。背筋に冷たいものが走り、過去の強いイメージだけが頭の中を巡り巡っていた。
 やがて、運命の時は訪れる。天上から、神の鏃が下った。凍った空気を引き裂き、雷鳴が轟いた。まるで神の怒りを代弁するようだった。そして、全てを滅せんと、深紫の空を鏃が青い雷光となって降り注ぐ。
 後一言、声を上げれば全てが消えてなくろうというその時、クライスは少女を見た。
 最後の瞬間であっても、その瞳に――――揺らぎはない。
 何事にも動じないその姿に、クライスは混濁したイメージから一枚の絵を連想した。幼い頃に見た、どこかの聖堂に飾られた大きな一枚の絵画だ。悠然と地上を見つめた、戦いと愛の象徴たる女神、その名は――――
 「エリュクシオン!!!お前は、エリュクシオンだっ!!!!」
 そう叫んだ瞬間、少女の瞳が僅かに驚きの色を見せた気がした。だがそれも、クライスの見た幻であったかも知れない。少女が眼前から消えていたのだ。以前、城で見失った時のように。
 しかし、クライスには、ただ消えたのではない事が手に取るように理解出来た。見えずとも感じられた。存在を固定する剣≪ザインゾルレン≫を通して、明瞭に伝わって来るのだ。
 ――上だ!!
 少女は弾かれたように空へ飛び出していた。そして、青い巨大な鏃と激突しようかというその時、体軸を仰け反らせると、何と鏃の先端を思いっ切り蹴った。
 あろうことに、理力の塊である鏃を、素足で蹴り飛ばしていた。青い火花を散らし、鏃は軌道を逸らした。しかし、その勢いはそのままに、神殿の敷地を超え、雲の中へ落下していく。間を開けて、雲がカッと明るくなる様を見た。雲の割れ目から覗いたのは、聳え立つ山脈が光に包まれた所までだ。直ぐに厚い雲海に阻まれ、後の様子は見えなくなってしまう。
 想像の及ばない結果に、クライスは唯々、目を丸くするだけだった。確かに、少女を信じ、全てを託した。この場の全員が助かることを願った。だが、幾ら現実の出来事とはいえ、こうもあっさりと成就させてしまうと、にわかに信じ難いものがある。
 クライスが状況把握に努め出した時、少女は地面に向けて落下しているところだった。先程の一撃で力尽きてしまったのか、身動ぎ一つしない。気絶しているのか、それとも意図していての事か――どちらにしろ、人間なら叩き付けられて助かる高さではない。
 クライスは落下地点に向けて走り出していた。
 (間に合えっ!!)
 そして、少女と地面の間に割り込み、再びその名を叫ぶ。
 「エリュクシオン!!」
 空色の瞳が勢い良く見開かれた。同時に、少女は両腕を広げる。ところが、広がったのは腕だけではない。その両腕から巨大な翼が広がり、自由落下した体をピタリと宙で停止させた。驚くことに、その翼には見覚えがあった。周囲の闇より暗い、真の闇で出来た翼だ。
 (俺の他に、闇の魔導を使える奴がいたのか?)  それはクライスが独自に編み出した技だった。まるで空を従えたような感覚にすら陥る、超高速の飛翔技法――支配の漆黒翼《ルーリングダークネス》に酷似していた。いや、酷似しているどころの話ではない、支配の漆黒翼《ルーリングダークネス》そのものだ。
 それが一体、何故あの少女に使えるのか。それに、クライスが時間を掛けて練り上げても、片羽しか生成出来ない代物だが、それを少女は一瞬にして二つ、しかも、クライスが生み出すものよりも雄大な翼を作り上げていた。
 翼の形状は練り込まれた理力に比例する。より精度の高い姿をしていれば、より正確な制御が出来るし、より大きな形状をしているなら、より大きな出力が可能だ。
 エリュクシオンの翼は、空の王としての威厳すら備えていた。もし、これが本当に支配の漆黒翼《ルーリングダークネス》なら、『空を従えたような感覚』などではなく、本当に従える事が出来るはずだ。
 「……何故、お前がそれを使える?」
 その根本的な問いには、少女の変化が答えた。背中まで届く髪の色が、根元から変化し始めていた。鮮やかな空色が、艶やかな黒に染まっていく。そして、変化はそれだけに留まらない。同じ色をしていた瞳も漆黒に染まっていく。まるで、クライスの抱える闇が、少女を別人に造り変えているようだ。
 「これで契約は成された。クライス、お前の力を貸して貰うぞ」
 言うやいなや、クライスは脱力感に襲われる。凄まじい勢いで、何かが体中から抜けていった。それが誰の仕業か言わずと知れている。自分と少女の間に、何か見えない管のようなものが出来上がっており、一方的に、相手の方へ流れだしているのだ。
 存在を固定する剣≪ザインゾルレン≫の叫びが、精神に対する暴行だとするなら、こちらは死神による生命の強奪である。倒れ込みそうになる体を剣で支えた時、少女≪エリュクシオン≫の気勢が爆発した。漆黒の翼が、理力の奔流に狂喜乱舞する。
 そして一振り、エリュクシオンが羽ばたく鳥の素振りをして見せると、何の前触れもなく、地上に嵐が吹き荒れた。遅れて、パンッ!と空気の爆ぜる音が鼓膜を激しく打ち付けた。
 爆音がエリュクシオンの耳朶に触れた時、当人は遥か上空にいるはずの巨狼と相対していた。空間を渡ったのでも、何か特別な術で因果を歪めたのでもない。あくまで、純粋な推進力によって、相対距離を零に等しくしていた。
 そのまるで、空を引き釣り下ろしたような感覚に、使った本人が感嘆の声を上げる。
 「闇の理力か……初めて使うが、やはり相性は良いようだ」
 翼をはためかせ、巨狼が咆哮を上げた。それは怒りの声であり、驚きの声であった。
 「目覚めたばかりだからな。間違って手を滑らせても恨むなよ」
 巨大な狼の狼狽ぶりを、エリュクシオンはやや嘆息気味に笑う。
 これより、神の座にいる者同士の戦いが始まろうとしていた。


 「これは、流石に無理があったかな……」
 空を駆ける光の軌跡を仰ぎ見るシルファが、珍しく悄然と呟いた。夜明けの近づいた群青色の空を、所々に明滅する光の正体は、あの四枚の羽を持つ巨狼と、闇の翼を従える少女≪エリュクシオン≫だった。
 時に激しく、時に微かな空の攻防は、過分に人の領域ではなかった。幾らシルファが人智を超えようと、未だ神域に一歩踏み込んだに過ぎない、そういうことだった。
 「この戦いの行く末が気になる所だが、既に大勢は決している、か。クライス、君はどう思う?」
 シルファが振り返ると、剣を杖替わりにしたクライスが近寄っていた。歩けているのが不思議な位憔悴していたが、一歩進む毎に明緑色の瞳には烈気をたぎらせ、その意思が少しも挫けていないことを示していた。
 「シルファ=バーキン……俺は、お前が妬ましい。神を超える力があれば、俺は多くのものを失わくて済んだ」
 (……私は、感情のまま、自由な生き方が出来る君の方こそ、羨ましく思うよ)
 心の声を噛み締め、凛とした視線を向けた。それが、シルファの考える、敵として相対する者の義務だった。
 「力とは切っ掛けに過ぎない。物事を成すのに必要なものは貫き通す意思であり、失われたものとはつまり、自分の心の置き方の問題だ。それはクライス、君も……いや君だからこそ理解しているはずだ」
 「……俺は、お前を、止める。お前のやり方では、無関係な人間が、大勢、犠牲になる」
 クライスは息も絶え絶えに語った。僅かに焦点が定まっていおらず、何もせずともこのまま倒れるそうだった。
 シルファは駆け寄ってその体を支えたくなる衝動を堪えた。瞑目し、不退転の決意を語る。
 「私がやらなくては、人は永遠に争いの螺旋から抜け出すことは出来ない。私は終わらせる為に、始めるんだ」
 クライスには未来が見えなかった。神がいない世界とは何か、何が変わるのか。何も変わらないのではないか。人々は殺し合わず、皆、平和に生きることが出来るのか。様々な疑問が浮かんでは消えた。
 「神を駆逐する……それで、世界は、平和になるのか?」
 故に、問うのだ。単純な問いをするしかない。朦朧とする頭が求めたのは、それだけだ。理屈も何もなかった。
 「人類の意思が、それを望めば手にすることが出来るはずだ。絶望するほど人は愚かではない――少なくとも、私はそう信じている」
 ――俺が信じれば、平和は手に入るのか?ロザリアは?他の人間は?それに――
 「――それでお前は、幸せになれるのか?」
 「…………」
 今度こそ本当に、シルファが驚きに瞳を見開いた。思いもよらない言葉に、心が揺らいだ。意思は変わることがないのに、その根本が揺さぶられた。
 そうか、とシルファが呟く。
 「クライス……クライス=デュー。私が何故、君に興味を持ったか、今はっきりと分かったよ」
 「君が、神に類する存在に近しかったからではない、自分に似ていると感じたのでもない……きっと、そんな君だからだ。そんな君だからこそ、私は君のことが好きになったんだ」
 シルファは今で見せた笑みの中で、最高に幸せそうな微笑を浮かべていた。晴れ晴れとしていて、それでいて誇らしげな顔だった。
 「私の人生の中で、君という理解者を得たこそ最大の幸せだよ」
 そして胸に手を当て、クライスの言葉を内に刻み付けた。誰が何と言おうと、世界中から否定されようとも、この想いだけは輝きを失うことがない。そう信じることが出来た。
 クライスは、一足で斬り付ける事が可能な間合いギリギリの所で足を止める。存在を固定する剣≪ザインゾルレン≫を握り締め、最速で斬ることだけに精神を研ぎ澄ませていく。シルファも半身を開き、軽く腰を落として応じる構えだ。
 両者共に息を浅く吐き、そして深く吸い込む。
 「シルファ……俺は、お前を止める」
 「クライス……私を、止めてみせてくれ」
」  一瞬にして、二人の理力が最大限まで爆発し、両者にぶつかり合う。漆黒の理力と、白銀の理力の衝突により、辺り一杯に激しい光を放った。
 この時点でシルファが優勢であった。理力の回復に努めていた為、一度なら全力でぶつけ合うことが出来る。一方のクライスは、エリュクシオンに力を吸い取られ続けていた。それだけで命を落としかねないが、限界を超えて理力を開放し続けた。
 ――グラリと、クライスの体が傾く。
 理力がないのに無理をするということはつまり、燃やすものがないのに、火力を高めようというのだ。理力という燃料がなければ、代わりとなるものを燃やす必要があった。この場合は当人の命である。それでも――
 ――生きる。生き残ってみせる。
 ――止める。必ず帰ってみせる。
 ――だから、命を賭ける。
 もう思考はない。何も考えず在るがまま、心のまま、力を求めた。そして、両者の視線がぶつかった時、
 「シルファぁぁぁ!!!!」
 「クライスッ!!!!!」
 二つの力が激突した。


 「あちらも決着が付きそうだな……こちらも、そろそろ終わりにしようか」
 地上から爆発的な理力の高まりを感じとったエリュクシオンは、そう呟いた。
 それよりも気掛かりなことがあったのだ。外側から感じる力は跳ね上がったものの、内側から流れる理力は反対に、今にも止まろうとしていた。恐らく、本人の理力が底をついているのだろう。今は、命を燃やして力を捻り出しているのだ。これ以上長引かせる訳にもいかなかった。
 どの道、もう終わらせるつもりであった。これ以上戦っていても、何ら得られるものは無いのだから――
 エリュクシオンが、眼前の敵に視線を向ける。そこにいたのは、地上にいた時と同じ存在とは思えない姿に変わり果てた巨狼だった。
 赤く染まった瞳は片目が潰れており、両手の爪はボロボロとなっていた。右足と尻尾が半分程になっており、全身に傷がない方を探す方が難しい状態だ。シルファと対峙した時の苛烈な怒気は、見る影もなくなっている。
 「グワォォォォォォ!!」
 巨狼は大きく息を吸い込み、溜め込んだ理力と吸気を吐き出した。竜種の吐息≪ドラゴンブレス≫と同種の攻撃がエリュクシオンに襲いかかる。しかし、
 「それはさっき見た」
 つまらなそうに言うと、闇の翼を縦にぶつけて理力の奔流を両断し、あっさりと凌いでみせた。
 次の手に逡巡する巨狼を見たエリュクシオンは、絶好の機会にも関わらず、反撃をしない。そこどころか、あろうことに闇の翼を消してみせた。
 「奥の手は無いのか?ほら、こちらはもう限界だぞ?」
 一瞬だけ空に浮き、まるで何かのスイッチが切れたように地面に向けて落下していく少女。巨狼は僅かに罠である可能性を考えた。だが、敵に残された理力が激減していると分かると、好機と判断したのか、嬉々としてエリュクシオン目がけて襲い掛かった。
 ボロボロになった爪が、少女を貫こうと上方から襲い掛かる。闇の翼が失われた今、エリュクシオンに、空中で避ける術はなかった。少女の薄い体が、紙切れのように空に散ろうという時、瞬間的に、小さな、本当に小さな闇の翼が広がった。
 それでも、急降下をしていた体を、一瞬だけ空に縫い止めるには十分だった。体を捻り、大きな爪をすり抜けると、がら空きとなった獣の顎へ強烈な蹴りを見舞う。クロスカウンターで命中した蹴りは、牙と顎骨を粉砕し、頭部を仰け反らせた。
 そして、少女の手刀から闇の剣が伸びると、以前は存在を固定する剣≪ザインゾルレン≫が刺さっていた位置へ、今度は実体を持たない漆黒の剣が突き刺さった。
 瞬間、エリュクシオンと巨狼の視線が絡み合った。
 「――――――――――――――――」
 すると、驚いたことに、人語ではない別の言葉で巨狼が何かを語りかけた。轟々と下から突風が叩き付ける中、エリュクシオンは至って平然と答える。
 「これから消えるお前には関係ないことだろう?」
 巨狼は抵抗らしい抵抗を見せることなく、最後の言葉であるように低く喉を鳴らす。そこに込められた感情があるとするなら、無念といったところだろうか。
 やがて、半身がなくなっても死することなかった巨狼の体から、光の礫が洪水のように溢れ出していた時、  「……我が名はエリュクシオン。我が契約者の剣となりて、お前たちを打ち滅ぼす者だ」
 エリュクシオンは消え行く存在に対し、高らかに宣言するのだった。


 群青の空に、流れ星のように光を放ちながら落ちていく様子を、シルファは眺めていた。
 あれだけ激しくぶつかり合った理力の嵐は消えてなくなり、辺りは静けさを取り戻していた。代わりに、シルファの服は所々裂けており、そこから覗く肌が火傷の後のように黒ずんでいた。闇に侵食された跡だった。一方のクライスは、地面に倒れており、微動だにしなかった。
 そこへ、空からエリュクシオンが落ちて来た。着地の衝撃で石畳が砕け、地面が大きく陥没した。衝撃は余波となって地面を伝い、クライスの体を地面から浮かせ、そして叩き付けた。
 ――ゴン、と頭を打つ鈍い音がしたが、クライスの動く気配は全くなかった。
 「やぁ、お疲れ様。安心してくれて良い。クライスは生きているよ」
 シルファは疲れた様子でクライスの状態を告げた。その口調には、神域の存在を倒したエリュクシオンに対して、気負いも気兼ねもないが、少しだけ悔しさが混じっていた。だからだろうか、
 「……もしかすると、今ので死んだかも知れないけど」  笑えない冗談を言った。受けるエリュクシオンは失笑すらしない。真面目な性格というより、冗談だと分かっていないようだ。
 「死んではいないさ、クライスが死ぬときは私も消える。だから死んでない」
 そう付け加えると、クライスに近寄り、様子を確かめた。
 「暫くは動かさない方が良い。出来れば可能な限り安静にしていた方が良いけど、彼は直ぐに動こうとするだろうね。その時は、君が止めてくれないか?」
 エリュクシオンが黙って小さく首肯する様子を見ると、シルファも黙って踵を返した。
 「それで、お前はどうする?」
 その背に向けて、エリュクシオンが問う。
 「私の意思は変わらない。神を駆逐し、人間の手に人間の世界を取り戻す……それだけさ」
 例え届かなかったとしても、そこに臆した様子や諦めた様子もない。シルファは毅然とした足取りで歩む。
 「……ああ、それから。クライスには、早く追って来てくれ、と伝えておいてくれないか?」
 言うやいなや、返事を待たずしてシルファの気配が辺りから消えた。
 日の出が近くなり、辺りはにわかに明るさを増していた。見渡せば、美しい神殿は破壊の限りを尽くし、瓦礫の山がそこらかしこに出来上がっていた。吹き抜ける凍えた空気が、戦いが終わったことを物語っていた。
 残されたクライスとエリュクシオンは、時の流れるまま、その場に取り残されていた。



 誰かに呼ばれた気がして、クライスは目を覚ました。
 瞼を開いた時、逆さに映る少女の顔がロザリアに見えたが、直ぐに別の少女であることに気が付く。空色の長い髪に、同じ色の大きな瞳をした少女≪エリュクシオン≫だ。黒く染まったはずの姿は、すっかり元に戻っていた。それにどういう訳か、じっと覗き込まれていた。
 直ぐに居心地が悪くなり、起き上がろうとしたが、どうにも指一本動かせない。意識は徐々に冴えて来ていたが、体が言うことを聞かなかった。
 ふと気付けば、後頭部には柔らかな感触があった。確かめようもないが、察するに膝枕をされているらしい。覗き込んだ顔が逆さになっているのは、そのせいだった。幾ら激闘の後とは言え、これ程の醜態を晒すとは我乍ら情けない限りだ。
 「青かったり、黒かったり……カメレオンみたいな奴だな、お前は」
 「カメレオン?何だそれは?」
 以前に聞いた事があった、環境に合わせて自分の体の色を変えるという珍獣の話を引き合いに出してみるが通じない。トリスやロザリアを見習って、口で人を言い包める修行でもしておけば良かったと、神妙な雰囲気の中で思った。
 「アイツは……シルファはどうした?」
 「此処にはもう居ない。何処かに行った。お前に早く追って来て欲しいそうだ」
 エリュクシオンはぶつ切りに、事実を立てて並べて見せた。余りに端的過ぎる表現が、まだあどけなさの残る顔とアンバランスで、少しだけ可笑しかった。
 思えば、この少女の顔をこんな落ち着いた気持ちで眺めるのは初めてだ。まじまじと眺めていると、その透き通った瞳に吸い込まれそうになる。
 相手もまた、こちらを見つめていた。だが、何か印象がだいぶ違った。
 「クライス……お前の髪に、触れても……いいか?」
 戦いの場では毅然と構え、神域の存在を前にして躊躇を見せなかった少女が、遠慮がちに、許可を得ようと葛藤していた。見た目相応といえばそれまでだが、ころころと変わる雰囲気に、どうにも付いていけなかった。クライスはあっさりと考えることを止め、静かに目を閉じた。
 「……好きにすればいい。俺は今、指一本動かせない」
 普段であれば、絶対に受け入れられない要求を拒否しなかったのは、本人なりの感謝の現れだった。
 ほっそりとした指先が、やや躊躇いがちに、クライスの銀髪を梳いた。エリュクシオンは不思議そう表情を浮かべ、それでいて何が不思議なのか分からないまま、髪を梳いていた。
 ふと、クライスが思い出したように目を開いた。
 「……そう言えばまだ礼を言ってなかったな。お陰で助かった。感謝している」
 「礼には及ばない。お前は私の名を呼んでくれた。それで十分だ」
 両者とも、同じ位ぶっきらぼうな受け答えだ。多く語らず、熱弁を振るう訳でもない。淡々としたやり取りであったが、契約とやらの影響なのだろうか、それだけで心が通じている気がした。
 「確か、自分が何者か分からないと言っていたな。それでお前はどうする?望むなら、お前の過去を探る手伝いをしてやるぞ。他に手段があれば――――」
 唇をそっと指が塞ぐと、ひんやりした感触が伝わって来る。
 「私はエリュクシオン……お前が私の名を呼ぶ限り、お前の剣となる者だ。私には、それで十分だよ」  そうか、とクライスは答えるに留めた。本当は聞きたい事が山ほどあったが、今は敢えて問うこともなかった。どうも長い付き合いになりそうな予感がしてならないのだ。いずれ、確認する機会も来ることだろう。
 間もなく、一筋の光が空の境界から差し込んで来ると、空がにわかに変化した。
 力強い金色の光が広がり、眼下に広がる雲海を橙に染め上げていた。色付いた雲は風と共に流れ、遥か彼方から、世界がこちらに向けて迫ってくるようだった。
 クライスは自然の偉大な姿に目を奪われていた。生まれて初めて見るその景色は、困難の闇が払われ、やがて希望の訪れた世界そのものだった。
 世界は止まることなく、刻一刻と表情を変えていく。深淵の群青が押しやられ、鮮やかな空色が広がっていった。透き通る空の色、それはエリュクシオンの色だった。クライスが思い出したように見上げると、少女も同じく流れゆく景色に目を奪われ、じっと空の先を見つめていた。
 ふと、クライスは少女の柔らかな頬を伝う雫を見た。
 「……何故、泣く?」
 「泣いている……?ああ、そうだな。私は泣いている」
 少女≪エリュクシオン≫は、指摘されて初めて、自分が涙していることに気が付いた。
 「この世界には、色があるのだな…………暗がりでは良く見えなかった」
 当然のことがさも当然ではないように、エリュクシオンは語る。
 「お前の知る世界は色が無いのか?」
 エリュクシオンは少しだけ考え、そして頭を振った。分からないのだ。自分の知る世界というものがどんなものだったか。覚えているのは、ただ闇があった事。そこでずっと眠り続けていた事。そして、一つの響きだけだ。
 ――クライス
 少女が、か細い声で何かを呟いた。余りにも小さな声だったので、最初こそ何を言っているのか分からなかったが、やがて、繰り返しているうちに気が付いた。自分の名を、呼んでいるのだ。
 二人の視線が合った後も、何かを確かめるように何度も消えそうな声で呼び続けた。まるで、何かを振り払うように、此処にいる事を確かめるように。
 少女の唇が、小さく震えていた。化物か何かに思えてならなかった少女が、急に小さく、幼い子供のように見えた。何もしなければ、このまま消えて無くなりそうな、そんな気さえした。
 エリュクシオンの涙は止まらなかった。それどころか、別の意味に変わりそうな気配さえした。それはクライスの苦手とする状況だ。いつも、何も言えなくなってしまうのだ。心が凍り付いて、声を掛けることすら出来なくなる。
 ――黙ってないで、どうにかして見せろ。
 心の中で、誰かの叱咤する声が聞こえた。だが、そんな事が出来るならとっくにやってる。自分に出来ることなんて何もない、そう否定しかけた時、
 (……そうだ、俺に出来ることなんて大したことじゃない)
 在るがままの自分を受け入れた。弱い自分が、誰かの為に出来ることなど知れているのだ。今出来る事と言えば――、
 「エリュクシオン」
 名前を呼ぶこと位だ。後はもう考えず、思い付くままに声を掛けるのだった。
 「いいか、泣いてないで良く見ろ。俺は此処にいる……お前の目の前にいるぞ。お前も……俺の目の前にいる。だからもう、泣くな」
 少女は僅かに目を見開き、代わりに口を閉ざす。しかし、それでも少女は涙した。それどころか、流れる涙の勢いが幾分か増したように思えた
 エリュクシオンは思う。この世界には、目に映ることのない美しさが、色鮮やかな世界の見せる姿とは異なる美しさがあるのだと。
 何故そう感じるのだろうか。理由は分からない、だが今は胸が高鳴り、心が内震えていた。だからなのか――――涙が、止まらなかった。止める方法が分からない。けれど、今はそれで良いような気がした。このまま、自分が感じるままで良い。そんな気持ちが、どこからか伝わって来る。それだけで心が暖かくなる、満たされていく。
 エリュクシオンは視線を空の彼方に戻し、素直な気持ちを告げた。
 「クライス……この世界は、美しいな」
 そう告げた。そこには綺麗な涙を流す少女の顔があった。恐ろしさも弱さもどこかへ消えて、真っ直ぐな瞳の少女がいた。エリュクシオンの中に、人の、美しい在り様を見た。
 「……ああ、捨てたもんじゃない」
 この世界は苦しみに満ちている。誰もが傷つき、抱いた想いは人知れず消えていく。誰も皆、争いを止める術を知らず、過ちを繰返してしまう。
 しかし、そんな世界でも多分、自分が思うより悪くないと思った。この世界には、美しいものがあり、守りたいものがある。だから、まだ捨てたものではない――そう思えた。




 あの決着の時から一週間過ぎた。言葉にすれば、たったのそれだけの時間だ。だが俺は、その一週間でこの国は大きく様変わりを果たす様を見た。
 革命は王制及び貴族階級の廃止に始まり、一部の民衆の特権剥奪、廃止対象となった支配階級からの財産没収、税制の改変、張り巡らされた規制撤廃等、新たな法令の施行と公布された制度によって、アリストンという国そのものが生まれ変わろうとしている。
 国民は改革に酔いしれていた。国政の中心都市であるサイラスは、ところ構わずのお祭り騒ぎであり、街全体が熱病に掛かったかの如く、おびただしい熱量を放っている。
 皆が口を揃え、ルードリッヒの死と特権階級の淘汰という快挙を肯定し、自分たちの行動により歴史を動かしたのだという自負をも感じさせた。
 国民の一斉蜂起という事態を起こしたにも関わらず、殆どの者が悲嘆に暮れた様子もない。それは国民性の成せる業ではなく、自分達に犠牲が殆どなかったことがその背景にはあるだろう。
 それは、奇跡と呼べる偶然が連続した結果だと、人々は口を揃えて言った。
 第一に、革命の主導が、実質的に国政を機能させていた評議会によって行われたことにある。評議会の議員は貴族と市民からの代表の混成組織であったが、水面下で王制と貴族階級の廃止を訴え、王宮の打倒後は、率先して特権を放棄するという手段によって民衆からの圧倒的支持を獲得し、大小の暴走を防いで見せた。
 無論、それだけは混乱は避けられない。本来ならば権力闘争が内乱を呼び、そこへ諸外国の思惑が加わることで、長きに渡る動乱の日々に陥ったはずだ。
 しかし偶然にも、反対勢力の中心となるはずだった貴族の者々は、蜂起の直前に国王ルードリッヒⅡ世により忙殺されており、そのルードリッヒⅡ世自身も、蜂起の際に評議会の中心人物であるトリス=フォン=アルバディヌによって処断された。そして事後処理として、死んだ貴族達の血縁を遠方への流刑とすることで、民衆は、ほぼ無血で革命を成す運びとなっていた。
 奇跡な状況ばかりに目が奪われがちとなるが、混乱を避けることに一役を買ったのは、何も偶然の産物だけではない。革命の中心人物だったトリス=フォン=アルバディヌが革命の前後で見せた活躍が、人々の支えになったことは間違いないだろう。
 革命の道中で命を落とす事となったが、故人の書き残したとされる資料に、革命後の状況を予見していたかの如く対応が詳細に記されていた点も、国を一つに纏め上げる過程に大きな役割を果たしている。
 元々民衆から支持のあったトリスだが、死してその功績は輝きを増し、稀代の英雄として彼の偉大さを民衆は称えた。
 民衆による革命と、その革命に殉じた英雄、英雄の遺志となったドラスティックな改革。それが、このアリストンで起きた出来事のあらましであり、人々の認識だ。真実は、与えられた現実の前に失われた。
 俺自身、どこからどこまでが真実で、どこまでがアイツによって造られたものなのか分からずにいた。ただ一つだけ確かなのは、この結果が、人々が望んで止まない理想を叶えたという事だけだ。
 多くの犠牲があった。無為に死んだ者もいるはずだ。しかし、それが皆が望んだ結果だとするなら、結果的にそれは正しいことだと言えるだろうか。
 (トリス……もし、あんたが生きていたら、どんな顔でこの街を見ていた?この結果に、満足していたのか?)
 「俺は――――」



 ――扉を、ノックする音がした。
 でも無視をした。今は誰とも話す気分になれなかった。アルバディヌ家の屋敷に戻って来てから、私はマリー以外の人と会うことを避けていた。
 クライスが、ブラウニル様の隠れ家から出ていったあの日、アリストンでは民衆による革命が起きた。お父様の計画が、実行されたのだ。
 結果として王侯貴族の特権は失われ、貴族の者々は国外へ追放された。それでも、私達はまだこの屋敷で暮らしていた。革命の中心人物だったお父様の功績が讃えられ、特別に財産を没収される事無く生活することを許された。
 世間では、父が革命計画の推進と一斉蜂起を主導し、そしてアリストンの国王を処断するものの、国王派の手に掛かり殉じた――話しを聞く限り、どうやら世間としてはそういう事になっているようだった。
 父の真実が歪められ、偶像崇拝の如く扱われていることが不憫でならなかったけど、もうそんな事はどうでもよかった。私一人喚いた所で、父が帰って来る訳でもないのだから。皆が納得しているなら、きっとそれでいいはずだ。
 何より、その父のお陰でこの屋敷で臥せっていられるのだ。市民の自警団によって軟禁状態となっていることでさえ、クライスがやって来る以前と然程変わりなかった。他の貴族の血筋であったら、一体どんな扱いを受けたか知れたものではないから、格段に恵まれている。それは分かってる。でも私は――――
 「怖いよ…………クライス」
 大切なものを失って、自由を無くし、為す術も無く私はベッドの上で膝を抱えていた。そうして日がな一日、時間が過ぎていくのを待っていた。
 何かしなければならないのに何も出来ない、そんな自分が歯痒くて、無力で、呪わずにはいられなかった。誰かが何かしてくれるのを待つしか無い、それが悔しかった。
 思えば、いつも誰かに守られて、我侭ばかりで迷惑を掛けて、与えられてばかりだった。
 クライスのように戦う力があれば、父のように人を動かす力があれば――そんなことばかり考えていた。
 ――――再び扉をノックする音が聞こえたが、それも無視した。
 長い静寂が訪れ、扉の外で待っていた者も諦めた、そう思った時――――
 バンッ!と轟音が響き、扉が勢い良く開かれた。内側から掛けていた鍵がはじけ飛び、扉は壁にぶつかった衝撃で外れ掛けていた。
 呆然と扉の方を眺めていた。でもそれだけで、涙が溢れそうになった。あんなに固く閉じていたはずの心が、扉と同じように一瞬にしてこじ開けられていた。
 「…………貴方って人は、本当に……本当に、いつも私を驚かせてばっかり」
 「……ノックはしたぞ」
 久しぶりに気遣うでも哀れむでもない言葉を聞いたような気がした。素知らぬ顔の、素っ気ないやり取りなのに、不思議なくらい安心出来た。
 ただ、その後ろにいたマリーの様子は少し違った。扉と同じように、口が開きっぱなしだった。そういえば、マリーは彼の暴挙を見るのは初めて、だったろうか?でも、その反応は至極当然だと思う。
 「お……お嬢様、もうお伝えする必要もありませんが……クライス様がいらっしゃいました。それと、この屋敷に仕えたいと申す者がおりまして――」「私、コーデリアと申します~クライス様にご紹介頂けたのは、これも何かの縁だと思いして~是非是非、この屋敷で雇って頂けないでしょうか~?」
 ずん、と見知らぬ女性が前のめりに乗り出して来た。
 切羽詰った雰囲気に飲まれて二つ返事をしそうになったが、事と次第によっては、自分の方がこの屋敷から追い出される可能性すらある身分だ。責任の持てないことを易々と受ける訳にはいかず、返答に困ってしまう。
 キラキラと子供のような寄せる視線が少しだけ痛かったが、ただ黙っている訳にもいかない。何か役に立てる方法がないものか考えを巡らせる。
 クライスはそれを見越していたのか、『迷惑なら断って貰って構わない』と補足すると、
 「ご、御無体な~……王宮も無くなって、わたくしっ、もう行く場所がありませんっ!」
 眉をハの字にして困惑した様子だ。
 恐らく、年齢はクライスより少し年上なのだろうか?垂れた目とゆったりとしゃべり方のせいで見た目以上に幼い雰囲気だ。ところが、ふと目線を下げた途端、それが大いなる油断であったことを思い知らされた。
 ある意味、認めたくない衝撃的な事実だ。クライスが、どうやってこの人と知り合ったのか、聞きくたなくなってしまう。
 コーデリアは雪降る時節だというのに、胸元の開けた服を着ていた。それはいい。問題は、そこから出し惜しみなく披露される谷間の深さだ。コルセットで締め上げているとか、両手で寄せているとか、そんな小技の入る余地のない見事な質量なのだ。加えて双丘に掛かる胡桃色の髪が、同性であるにも関わらず蠱惑的に見えて仕方がない。ソレに秘められた破壊力が如何程のものか、想像を巡らせるだけ恐ろしかった。
 「……俺はそこまで責任を持てない」
 「な、ならもう一度、脱がせて頂きますわ!そ、そりゃもう一肌でも二肌でも!!」
 冷たくあしらわれることには慣れているのか、それでもめげないコーデリアは服の前ボタンを外し始めた。その手馴れた感のある言動に、胸の内で黒い気持ちが疼きだした。
 頭ではクライスが何かするはずがないと分かっているのだが、どうしても抑えられなかった。
 「もう一度?……クライス、一体貴方はここ数日の間、何処で何をしていたのかしら?」
 「……違う。大いに君の勘違いだ」
 敢えて冷たく問い詰めると、クライスの表情が段々と暗く沈んでいった。おせっかいなどするものではないと、言いたそうな顔だ。
 少しだけ冗談が過ぎた。でも、クライスが何をしていたかは聞いておかなければならない。予想はついているが、確かめておかなければならない。
 「ふふ、冗談。これは私を待たせた罰――――」
 釣られたクライスが緊張を解こうとした時、
 「――――人助け、してたんでしょ?」
 その一言に、クライスは驚きで答えた。
 「……違う、そんなんじゃない。俺は誰も助けてなんていない。誰も、助けられなかった」
 そして目を逸らし、少しだけ滲む苦しみを吐き出した。
 「私、ブラウニル様の件は聞いてるの……あれはクライスのせいじゃない。そして、誰のせいでもない……きっと仕方のないことよ」
 慰めにならない慰めを言うしか無い自分が情けなかった。でも言葉の一つ一つが重くて、口にするだけで精一杯だった。
 「……この国が本当の意味で生まれ変わるには、代償が必要だった。貴族という代償が……」
 それは望まれた犠牲だった。多くの人々が願った結果だった。
 「私は多分、この命があるだけで……満足しなくちゃいけない、この命が、ある、だけで……」
 それは多分、正しいことで、価値のあることなのだ。だけど――――
 (――――ヒック)
 「喜ばなくちゃ……いけないのに…………」
 (――――ヒック)
 「何で、涙なんか…………」
 空気が重くのしかかって、皆押し黙った。
 ボヤけた視界の端で、マリーがコーデリアを連れて部屋の外へ出ていくのが見えた。
 部屋から人の気配が減ると、また置いてきぼりの気分になる。私を置いて、大切な人が一人、また一人と消えていくのだ。
 ブラウニル様は自ら処断されることを選んだのだ。そうすることで、王権復活という芽を断つ必要があったからだ。『この国の正義の為、自ら行動する事』という、父の残した手紙にあった信念を貫いた結果だった。
 あの時も、今も、寂しくて悲しくて、叫ぶことも出来ず、ただ泣いているだけだった。ずっと、涙を流し続けた。
 「俺は――――ブラウニル卿を救出し、後見人を頼むつもりだった。だが、あの人は君に迷惑が掛ける可能性があると言って断った。名は明かさなかったが、別の人間が後見人になる手筈は整えてあるらしい」
 「ブラウニル様に……会えたの?」
 「ああ……最後は、笑ってた」
 「笑って…………あの方らしいわ」
 その言葉に、少しだけ救われた。
 だから、今の自分に出来る精一杯の笑顔を作って見せた。きっとクシャクシャで不細工な笑顔だったと思う。それでもクライスは嘲ずに微笑んでくれた。今まで見せた表情の中で、一番優しい顔だった。
 その微笑に、私はまた少し救われる。
 生きていても良いのだと、何かを願っても良いのだと思えた。自分という存在が許される気がして、もっと強くなれる気がした。
 「もう、大丈夫そうだな」
 クライスは色々な感情が少しずつ入り混じった顔をした。
 それで何も言わなくても分かった。きっと、ここに来た目的を果たしたのだ。
 「…………行って、しまうの?」
 「……ああ。これ以上、此処にいては君たちに迷惑が掛かる」
 皆同じことを言って去っていってしまう。けれど行かないで、など言えなかった。
 クライスはこの国の人間ではないのだ。ストラヴァーダの斥候として来ている以上、素性を知られる訳にはいかない。何より、きっと任務以上の感情を此処に残してはいないだろう。父を守っていたのも、自分を守ってくれたのも任務の為の手段に過ぎないのだから。
 この国が一つの方向性を見出した以上、後に、和平を結ぶか戦争になるか分からないが、これ以上は個人でどうこう出来るレベルを超えているはずだ。
 だからもう、この国に留まる理由がなかった。自分では、その理由になり得なかった。恐らく、これが最後の別れになるのだ。
 そう思うと、此処に残しておく言葉など要らなかった。全て持っていって貰うのだ。何も出来ないから、せめてこの想いだけでも贈らねばならない。
 「私ね……貴方に出会えて良かったと思ってる。貴方が空から振って来てから、私は驚きの連続だったわ」
 「色々、迷惑を掛けたな」
 「ええ、とっても。信じられないくらい」
 「悪かった」
 「でもね、そう……信じられないくらい、毎日が楽しかった。クライスがいて、私がいて、お父様やマリーがいる。驚いたり、怒ったり、泣いたり、喚いたり……毎日が新鮮で、楽しかった。こんな時がずっとずっと続けば良いって、そう思ってた。
 それにね、貴方がいてくれなかったら、父はもっと早く死んでいたと思う。私も、きっとこの世にいなかった」
 そして、あの時言えなかった言葉を思い出した。
 「父は――――」
 あの森で大切なものを失った時、伝えなくてはならなかった一言が、まだ胸の内にあった。
 「トリス=フォン=アルバディヌは、最後にクライスに『済まないと伝えて欲しい』、そう言ってたわ」
 「……そうか」
 「クライス……私はアルバディヌ家の代表として、貴方にお礼を申し上げます――――今まで、ありがとうございました」
 すっと頭を下げると、長い髪が首筋を流れた。
 「俺は、感謝されることなんて何もしていない。俺の方こそ……君の父親を、守れなくて済まない。何も償えなくて、済まない……」
 私は思わず頭を振った。振らずにはいられなかった。初めて出会った時から、誰よりも近くでその戦う様を見て来たのだから。
 何の為とか、誰の為だとかは関係ない。自分は幾度となく助けて貰った、それだけは誰にも否定出来ない事実だった。それを思うと、気持ちが溢れて止まなかった。
 「ねぇクライス、私が森で貴方に言った事を、『誰より光の祝福が似合う』、そう言ったのを覚えている?……その気持ちは今も変わっていないの。貴方にはね、皆から祝福を受けて、表の世界で生きて欲しい」
 「私は貴方がどうして自分を責めるのか分からない。私達は違い過ぎるから、過去を聞いたとしても、やっぱり理解し合えないことだってあると思う。でもね、」
 ――――強く、言葉を紡いだ。
 「罪は許される。どんな人でも、人が人である限り許される……だから、貴方も許されるの」
 それは私がいつか言ったことのある言葉だ。そしてクライスが否定した言葉でもある。
 「俺の罪が、許される……?そんな、はずがない……俺は唯の」「――――私は、貴方を許すわ」
 最後まで言わせなかった。今は言わせる訳にはいかなかった。自分の想いを伝えなくてはならない、例え身勝手だと言われようとも。
 「初めから貴方に罪などないのだから、許すというのもおかしな話しだけれど……仮に貴方が何か罪の意識を負っているのだとしたら、私は貴方を許す。私は――」
 その時、ふと自分の感情の正体を知った。
 ――――私は、この人を許したい。
 それは、これから始まる全ての感情の出発点だった。
 「貴方の罪がどれほど大きなものでも許される。ううん……大きければ大きな罪ほど許される。もしかしたら、一生掛かるかも知れないけど、償うことは出来るわ」
 こじれてしまった心があった時、人はどうやったら本当の気持に出会えるだろうか。
 「私は何も出来ないけど、貴方を信じ、貴方の為に祈る。ええ、貴方の罪が少しでも軽くなるように毎日祈るわ。貴方の罪が重くてどうしようもないのなら、私が半分背負う。だから――――」
 暗がりで見えなくなった気持ちがあった時、人はどうやったら光を取り戻せるだろうか。
 「――――貴方も、自分を許してあげて」
 その時は、自分の胸に手を当てて、何度も問うしかない。無限に湧いて来る答えから目を逸らさず受け止める。そうやって繰り返し問い続けることでしか、本当の答えに辿り着けないのだから。
 私達には多分、失いかけた言葉が一杯あるのだ。迷って、否定して、偽って、奥底にしまい込んでいた言葉は今、本当の気持ちと共に溢れんばかりだった。
 「俺は…………許され、たいのか?」
 そっと、疑問と答えが同時に溢れた。ほんの一刻、クライスは自分の頬を伝う雫に気付かない。
 明緑色の瞳から流れる一筋の涙を、美しいと思った。初めて見た時と同じ輝きを放つ瞳を、美しいと思った。けれど、この澄んだ瞳は、人々の光を受けてもっと輝くはずだ。
 「今はまだ……気持ちの整理が付かなくて、上手く笑えないけど…………私は、もう一度会いたい…………クライス、貴方にもう一度会いたいの」
 「ああ……そう、だな。いつか、もう一度…………」
 この想いをどうしたらもっと上手に伝えることが出来るだろうか。気持ちで一杯になかった心では、良い方法が思い付かなかった。考えれば考える程、深みにはまっていくようだ。
 その時、震えるクライスの手を見た。それで、考えることを止めた。今はただ思うようにしたいから。
 そして、私はクライスをぎゅっと抱きしめた。全ての祈りを込めて、強く強く。
 今は、これ位しか出来ない。だから、例え拒絶されても絶対に離さない。
 「私ね……貴方のことが――――――ー」
 消え入りそうな声で、私は本当の気持を打ち明けた。
 温かな想いが溢れた。
 返す言葉がなくとも、触れ合う体の温かさが、心に降り積もった雪を溶かしていくようだった。



 クライスは新たな歴史の一幕を静かに見ていた。サイラスの街を囲う城壁から離れ、小高くなった丘から人々の望んだという世界を眺めていた。
 この数日のうちに、サイラスの街にも何度か雪が降り、街を白く染め上げていた。吐く息もまた白く染まっている。見渡す景色の全てが白く染まる中で、一点だけ別の色があった。
 雪原に佇む一人の少女がいた。人間では有り得ない、見るも鮮やかな空色の髪と同じ色の瞳をした少女≪エリュシオン≫。あの戦いの後も、クライスの後を付いて来るという話しだった。
 「そんなにこの景色が珍しいのか?いい加減、見慣れただろう?」
 「そうかも知れない……だが景色は一つ一つ違うものだ。見てて飽きることはないさ」
 エリュシオンは降り積もった粉雪を無造作にすくって、パラパラと落として見せる。
 「……そろそろ行くぞ」
 クライスが踵を返した時、ふと思い出したようにエリュシオンが問い掛けた。
 「お前の国の、ストラヴァーダだったか?そこに向かうのか?」
 「ああ。もしお前の言うことが真実なら……あの天上への扉≪セレスティアルゲート≫とかいう装置が、この世界中に存在するなら――」
 クライスは空の彼方を睨み付ける。
 「――俺の国≪ストラヴァーダ≫にも存在する可能性がある」
 今後、シルファが神を駆逐する為に行動を起こすなら、あの装置が目標になる可能性は高い。その時、果たしてアイツを止める事が出来るだろうか。
 だが、やらなければならない。出来なければ、また同じ悲劇が繰り返されるだけだ。
 (聖騎士団≪あそこ≫でやることがもう一つ増えた……まったく面倒な話しだ)
 「――――だが約束は果たす。ロザリア……俺は、同じ過ちを繰り返さない」
 新たな決意を胸に、クライスは次の一歩を踏み出した。



            ~Fin~



 ©Gelcy