T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 10
 
 ようやく階段を登りきった時、目にした光景に胸を鷲掴みにされた。
 白亜の祭壇に、一体の巨大な石像がそびえ立っていた。全長で10mはあろう巨像だ。
 前方に伸びた口、そこから伸びる鋭利な牙は狼の特徴が色濃い。だが、唯の獣とは異なり、二つ足で直立している姿は、お伽話の中に描かれる人狼の様でもあった。
 その精巧な造りには一切の妥協が存在せず、太い体毛の流れには、躍動感すら感じられる。今にも動き出して来そうな程、生命力に満ちた作品だった。名うての彫刻家であっても、此処まで見事な像は作れまい。まさに、神の創りし所在に相応しい逸品だった。
 これが非凡なる彫刻である事は、そのスケールの大きさからも容易に感じ取れる。しかし、この像が何を意味しているのか、理解出来る者は少ないだろう。何故なら、獣には自らの存在を否定する、巨大な4枚の翼が生えていた。
 鳥類の翼は普通、天使の象徴であり、正義や聖性を表現する為に用いられることが多かった。ところが、この像の胸には一振りの剣が突き刺さっていた。まるで、英雄譚の中で正義が悪を打ち倒した場面のように。
 視線を下ろすと、獣の足元には小さな台が一つあり、台の上に浮遊する二つの物体が、小さな光を放っていた。赤褐色の光を放つその物体こそ、あの薄暗い双眸に収まっていたはずのもの、それは――――
 それは、ルードリッヒの眼球だった。
 すかさず、クライスは眼球を浮かばせた台へ突進する。そして、有無を言わさず、その場にいた男の後ろ姿を殴り付けた。
 「シルファ=バーキン……!!」
 「やぁ、クライス。私の名を覚えていてくれたなんて、嬉しいよ。私を見るなり仕掛けて来るなんて、流石は歴戦の兵士。判断力に優れている」
 シルファと呼ばれた青年は振り向きざまに、クライスが放った渾身の右ストレートを、片手で受け切っていた。優しげな声が語る調子は、まるで古い友人に再会したかのようであった。
 クライスは、明るい金髪を肩口まで伸ばした碧眼の美丈夫を知っていた。確かアリストンの宮廷魔導士のはずだ。
 しかし、クライスは『知人』という程相手の事を知っているわけでは無かった。1ヶ月程前、トラブルに巻き込まれたロザリアを助けて貰った事があり、その時に、お互い一度だけ名乗り合っただけだった。知り合い、というより『以前に会った事がある』という程度の関係性でしかない。
 あの時は直接対峙した訳ではなかったが、底知れぬ力の一端は垣間見ていた。だが、唯の一度の攻防によって知り得た情報は、相手が自分の想像以上であると訴えていた。
 クライスは完全な死角から、音もなく襲いかかった。だが、仕留めることが出来なかった。それどころか、シルファは上半身を仰け反らせてはいたものの、体勢を崩さず勢いを完全に殺しきっていた。
 強靭な下半身と、柔軟な上半身、そして絶妙なバランス感覚が無ければ成し得ない神業だった。
 仕掛けたクライスは全力だった。それは、刹那の攻防が確かな命のやり取りであることを意味している。それでも、爽やかな笑顔を浮かべていられるこの男の底が知れなかった。
 「だが、全力で殴る時はちゃんと理力で保護しないと、君の拳の方が砕けてしまうよ?」
 「黙れ」
 素早く拳を引き、足払いを仕掛ける。その突然の変化を読んでいたシルファは、軽いバックステップでかわす。
 クライスは、読まれる事を前提にしていたように低い姿勢から軸足を変え、中段の後ろ回し蹴りを繰り出す。しなやかな蹴りが、後方に避けたシルファの脇を目掛けて喰らい付く。
 派手な衝突音がした――
 足同士がぶつかる音だ。だが、幾ら殺人的な破壊力を秘めた蹴りでも、まともに当たらなければ意味がない。その証拠に、未だにシルファの余裕の表情は崩れない。
 しかし、クライスの本命は蹴りの連携ではない。この後ろ回し蹴りをガードさせる事こそ、連携の目的だった。
 シルファの更なる死角を狙い、クライスの左手指先から、呪人形の鋼線カーズ パペット ワイヤーを放っていた。
 精神操作を専門とする暗殺者の自由すら奪った血線が、敵の四肢に向かって襲い掛かった。
 「残念。私に呪人形の鋼線これは、通じない」
 呪人形の鋼線カーズ パペット ワイヤーは、目標の神経に対して、擬似神経を潜り込ませる事で、初めて術として成立する。つまり、神経の通う場所ならば、何処からでも入り込む事が出来た。
 しかし、この宮廷魔導士の手に掛かると、その単純な理屈すら覆されてしまう。指先から放たれた血線は、全て絡め取られていた。あたかも、絹糸を紡ぐが如く。
 それどころか、思いっ切り引き寄せられると、がら空きとなった顔面へシルファの拳が吸い込まれていく。
 ――ハンマーで殴られたような衝撃が走った。
 まともに喰らったクライスは、神殿の壇上を転がっていた。素早く起き上がるが、その場で反撃に出れなかった。シルファの一撃は、それ程重いものだった。
 だが何より、『血線が掴まれる』という現実に打ちのめされていた。それは術の特性からして、到底考えられないことだ。
 何故なら、この血線は理力によって論理的に編み込んだものであり、物理的には血を固めたものと何ら変わりがない。つまり、衝撃に対する耐久力は塵に等しいのだ。
 擬似神経の侵食を抑えつつ、血線全体に対して何らかの物理的な補強を施さなければ、引っ張るなどという芸当は不可能だった。
 しかも、一連の流れの中で実行するなど、『器用』等というレベルにいない。紛れも無く、『天才』の領域だった。
 「結構、痛いな。やはり理力で覆うべきだよ」
 殴り付けた右手をプラプラさせながら、シルファは呑気に語り掛ける。
 「お前がトリスを殺させたのか!!」
 「そう捉えて貰っても構わない。厳密に言えば違うけどね。彼は……彼の死は、この国に取って必要不可欠なものだったんだ」
 クライスは先ほどのダメージを感じさせない力強さで、シルファへ突進する。
 剣を鞘から引き抜くと、一文字に薙いだ。丸腰の相手に向かって斬り付ければどうなるか、分からないクライスではない。
 迷いの無い剣線は、高速で空気を切り裂いた。あくまで、斬れたのは『空気』だけだった。
 シルファはその剣戟を飛び越え、ふわりと宙を舞っていた。そして、剣を切り返そうとするクライスに目掛け、鋭い飛び蹴りを繰り出す。
 切返した剣よりも、空中から襲い掛かる蹴りの方が早かった。爪先が剣を持つ手を打ち据えた。
 その強い衝撃に、クライスは握っていた剣を落とした。咄嗟に落下する剣に手を伸ばすが、右側面から迫る気配を感じ取り、反射的にしゃがむ。
 銀髪を掠める衝撃がした。シルファが空中で放った二発目の蹴りだった。
 首ごと刈り取られそうな左回し蹴りを、辛うじてかわしたクライスが視線を上げた時、シルファの右後ろ回し蹴りが、右から再度襲い掛かって来た。
 ――回避が、間に合わない。
 「ちっ!!」
 手首にダメージを負った右手でブロックすると、衝撃が全身に走った。屈んだ体勢では受けきれず、再び地面を転がる。受け止めた手からは、救いを求めるような鋭い痛みが伝わって来た。
 シルファは、地面を転がるクライスを追撃して来なかった。遠めに見えた表情は驚き、そして喜びだろうか。
 (骨は折れていない……あそこで気張って受けてたら、確実にイッてたな)
 一撃目で滞空時間を稼ぎ、二撃目の空ぶった左足の反動を体軸の回転に利用し、三撃目の超高速の後ろ回し蹴りで仕留めに来た。目を奪うほど鮮やかな三連撃だった。
 身分は魔導士だという優男に、騎士の最高位である聖騎士のクライスが、完全に押されていた。けれど、そんな現実にもう驚く事もない。表に出て来るのは、苦笑いだけだった。
 クライスは思う。今日一日だけで出会った化物の中で、こいつは一体何番目だろうか。この男は宮廷魔導士のはずだが、大した魔導を使わずに互角以上だ。それでも、手も足も出なかったあの女に比べたら、まだマシなのかも知れない。
 そんな事を考えていると、少しだけ気が紛れた。
 「うん。やはり眼が良い。それに死角からの攻撃に対する感知能力は抜群だ。バランス感覚といい、とても片手と片目が使えない者とは思えないな……バルド達がやられるはずだ」
 「……そういう事か」
 森でクライス達を襲った者達は皆、魔導に長けた暗殺者だった。この国で高度な魔導の使い手は宮廷魔導士しか考えられなかったから、その背後にルードリッヒの存在を疑ったのだが、まさか同じ宮廷魔導士が、事件の発端になっているとは。
 「あの暗殺者達も、ルードリッヒも……恐らく街の人間も、お前が裏で操っていたのか」
 「そう言われると人聞きが悪いな。だがその解釈だと、トリス=フォン=アルバディヌを始めとする貴族達も、私が操っていた事になってしまう」
 驚いた事に、この男はこの国に関わる全ての者を動かしていたのだと、言ってのけた。
 「お前は、どれだけの人間を騙して来た……!」
 「ここ数カ月で37の工作を仕掛けたが、誰も騙してはいないさ。この結末は、皆が望んだ方向に進んだ結果に過ぎない」
 「何だと?」
 相手の奇妙な物言いに、クライスは訝しがった。
 「ルードリッヒはこの国の人間を恐れていた。身近にいる人間ほど強く、ね。そして、何か良からぬ事を企む貴族共を殺したいと願っていた。その結果がゼノンの森での結末だ。一方で、貴族の方は貴族の方で、ルードリッヒの存在を消したがっていた。そして、ルードリッヒは死んだ。それは大衆の願いでもある」
 「何故、トリスを狙った」
 「君の想像している通りだよ。彼は、引き金だ」
 あっさりとした調子でシルファは答えた。クライスの僅かな表情の移り変わりを見逃さず、当人が抱えているであろう疑問と解答を肯定した。
 「トリス=フォン=アルバディヌは逸材だった、能力的にも、人格的にもね。そして、この国と、この国に住まう人々を本気で憂う数少ない為政者だ。民衆からの信頼が厚く、貴族の中でも一際大きな影響力を持っている。この国を変える為には、そういった人が犠牲になる必要があった。
 彼が死ぬ事で、彼の死を悼んだ人々は初めて自分という存在の意味を考え、搾取され続ける事に対して疑問を持ち、やがて正しい怒りを知る事になる。熟成された怒りの矛先は特権階級へと向かい、国民はこの国を自らの手に取り戻す、そういう筋書きだよ」
 シルファはつらつらと、脚本≪シナリオ≫の解説をしてみせた。
 「彼にはこの国の人々の為ならば、自らの犠牲も厭わない覚悟があった。これは彼の願いの形でもある」「詭弁だ!」
 反射的に、クライスは独善的な解釈を叩き切った。
 「……お前の言っている事は結果論に過ぎない。トリスは信念の為に、死すら厭わなかったかも知れないが、自らの死を前提に物事を考えていた訳じゃない」
 「――かも知れないね。けれど、私が方向性を示した事により、多くの者が自らの意思で動き、望んだに結果なっている事も、また事実だ」
 「クライス、君ならどうする。死に逝く民と滅び行く国を救うにはどうしたら良い。星の数ほど存在する人の願いを、どうやって実現させる。一人も零さず、矛盾する願いも含めて叶える為にはどうしたら良い。神にでも祈るか?」
 クライスには眼前の男が、正義を成しているのか分からなかった。操っていたのではなく、導いたのだとしたら、それは悪なのか。貴族や王族といった特権階級が血を流し、『民衆』という未来永劫の犠牲者が救われることは、間違ったことなのか。
 そこに、答えはなかった。
 「……俺にはたった一人の人間も護る事が出来なかった。俺には、全ての人間を救う事なんか出来ない」
 「だが、それはお前も同じだ!どれだけ大義を振り翳しても、お前が救う者はお前の考えに従った者だけだ!」
 「……流石に、命題が悪かったな」
 シルファは苦笑いを浮かべる。  「クライス。正直に言うとね、私はこの国もそこに住まう人々も、あまり興味が無いんだ。大きな話をしてしまったが、実際の所、他の者がどうなろうと気にも止まらない。多くの人間の願望が、たまたま自分の目指した方向にあったから叶えてみた、それだけの話なんだ」
 クライスには相手の真意が見えなかった。傾国の策略が、あれだけの惨劇が、日常の一幕に過ぎないと言い放つ相手の神経が図り知れなかった。  「……お前の目的は一体何だ?何の為に、そんな事をして来た?」
 「一言で伝えるのは難しいな……誤解を恐れずに言うとしたら、『神を駆逐し、人間の手に人間の世界を取り戻す』、それこそが私の本懐だ」
 「……神を、駆逐する?」
 他の者が聞けば、誇大妄想家の戯言過ぎなかっただろう。だが、偶像の産物でしかないはずの、人智を超えるモノがこの世界には存在する。その事実を身をもって知っていたクライスには、別の解釈が出来た。
 どうしても、あの恐ろしい能力を持った異形の存在≪ヒューレ≫、そして聖典の天使≪ユーシア≫の事が頭に浮かぶのだ。アレと対峙する、その決意を暗に示しているように聞こえてならなかった。
 会話が進むうちに、次第に腕が回復して来た。痛みは引いていなかったが、戦闘には堪えられそうだ。右手の感触を確かめていると、唐突に、地面が震え出した。地鳴りが神殿全体に伝わり、腐食して脆くなっていた柱が倒れ出していた。地盤の安定しているアリストンにおいて、地震は滅多に起きない現象だった。
 「どうやら、口で説明している時間は無さそうだ……だがクライス、どうか君だけは知っておいてくれないか。私が何を目指し、何処へ行こうとしているのかを」
 シルファの方から一歩踏み出すと、まるで二人の間に存在する空間が削り取られたかのように、一瞬にしてクライスの眼前に現れる。
 その両手がクライスの顔面を掴むと、シルファは自らの額をクライスの額に密着させた。
 「――お互い、全てを曝け出そう」
 「くっ!!!」
 抵抗する間も無く、視界が白くなり、意識が遠ざかった。
 光が――、音が――、痛みが――、急速に失われていく。代わりに、『自分』だけが残されていた。何も感じないのに、そこに自分がいるのだと意識出来た。
 だが不思議な事に、自分と周囲との境界線があまりにも曖昧なのだ。『自分』を定める殻がないのに、『周り』があった。自分という意識が、他人の中に在るというのか。それともその逆だろうか。
 『他人』という存在を強く意識した瞬間、膨大な量の情報が降り注いで来た。
 これは記憶だ。記録された感覚や感情が、光の束となって突き抜けていく――
 ――シルファ……お前の名は、シルファだよ。
 優しげに語り掛ける中年女性の顔が見えた。白髪が目立つが、気品に溢れる顔立ちをしている。
 (私の母だよ――血の繋がりはないけどね)
 (シルファ=バーキン……?)
 (これは私の記憶だよ。直接話すには時間が足り無すぎたから、多少強引ではあったが、精神を共有させて貰った)
 ――あらあら、急に泣き出して……一体どうしたの?急に抱き上げたから、驚いちゃったのかしら?
 視界には、何かを掴もうと伸びる手が見えた。赤子のぷっくりとした手だった。
 (生後半年頃の記憶だね。これは何が不満で泣いているのか、私にも分からない)
 イメージが急速に流れる。今度は、鏡に映った自分≪シルファ≫だった。顔の至る所に、痣や傷跡があった。
 (自分で言うのも何だが、私は昔から周りに比べて何でも良く出来る子供だった。なまじ出来過ぎたものだから、同世代からは不興を買ってね。生傷が絶えなかった時期があったんだ)
 これは『天才』という言葉で常にひと括りにされ、辟易していた頃の自分≪シルファ≫だ。周りの理解が得られず、苦しんでいた。そして、自分らしく振舞えば振舞う程、孤独になっていった。
 不思議な事に、事実だけでなく記憶に刻まれた感情まで伝わって来るのだ。血の味と、痛みと、寂しさとが、傷口から溢れ、曖昧な境界線を超えて、染み込んで来た。
 (一体、俺に何を見せたい)
 (――全て、さ)
 鮮明な記憶の虚像が、色彩を失って塵色になる。そして、瞬く間に砕けると、目の前には凍死している浮浪者と、その仲間らしき者達が映し出された。
 自分≪シルファ≫は、その者達の姿を、馬車の中から眺めていた。10歳の時の記憶だ。
 (幼い頃は不遇な時期もあったが、貴族の家に生まれ付いた私は、基本的に恵まれていた。食べ物に困った事もなかったし、病気らしい病気もした事がなかった。敬虔な信徒であった両親の教育の賜物で、日々与えられる糧に感謝して生きていたよ。何の疑いも無くね。
 だから、目の前で起きている出来事が何なのか、考えても考えても理解が出来なかった。
 頭では知っていたんだ。自分より恵まれずに生きている者が圧倒的多数だって事を。けれど、同じ国に生まれ、同じ時を生き、同じ祈りを捧げているのに、何故、こうも違う結果が与えられるのか。
 長い間、答えは出なかった。長い間、誰も現実に起こった以上の答えを持つ者はおらず、結局は『運命』と結論付けて、その根源には何があるのか、知ろうとはしなかった。
 だがある日、私は運命の切れ端を掴むことになる。
 ――君に託すとしよう。これは無限思考≪インフィニティ≫、君の求めるあらゆる可能性と、包含された唯一無二の理りを導く道具だ。
 (貴方は、一体何者なんですか?)
 ――神への反逆者。
 男は自分の事をそう言い放ち、そのまま何処かへ消え去ってしまう。赤い宝石に似た形をした無限思考≪インフィニティ≫だけが、自分≪シルファ≫の手の中に残されていた。
 (詳細な仕組みは省くが、無限思考≪インフィニティ≫はあらゆる事象を超高速で演算する事が出来る道具だった。その速度は、全人類が束になっても叶わない。あらゆる事象の演算出来るという事が何を意味するか分かるかい?)
 (さあな。明日の天気でも分かるのか)
 子供のような明るい笑い声が聞こえる。
 (今の私達は精神が共有されている。隠し事は出来ないんだよ)
 ――なら、いちいち聞くな。
 感覚的に理解していた事に対して改め指摘され、無性に腹が立った。心を覗かれるというのは、気持ちの良いものでは無いが、他人の心を知るという事もまた同様だった。
 (済まない。でも、君が想像している通りだよ。私は、全ての事象に対して『未来』を見る事が出来るようになった。実際、外で進行している計画も、無限思考≪インフィニティ≫の助けられた部分は大きい)
 クライス≪シルファ≫の周囲には、無数の窓が散らばっていた。窓の一つ一つに、異なる映像が映っている。そこに映されたのは、宮廷内の貴族と思しき人物や、道々の人々まで多様であった。
 (此処にあるのは、現在に結ばれた過去と未来の予測図。今まで起こった事象から過去と未来の更なる時間軸を生み出した結果だ。良く見て貰うと分かるんだが、過去に起こった歴史的な一幕の中で、どう考えても辻褄が合わない部分がある。無限思考≪インフィニティ≫の予測に対して、結果が外れ過ぎているんだ)
 (それがどうした。その無限思考≪インフィニティ≫とやらが完璧じゃないって事だろう)
 (確かにこれは唯の道具だ。未来を創り出している訳じゃない。使い手にも問題があるかも知れない。故に、間違った結果を映し出している可能性は否めない。正直、私はこの疑問に、とても長い間、頭を悩ませていた)
 今度は、周囲の景観がぐにゃりと歪んだ。
 ――手足が伸び盛りの頃、俺≪シルファ≫は他人との違いを自覚した。
 無限思考≪インフィニティ≫の研究に明け暮れていた中で、遅めの思春期を迎えた俺≪シルファ≫は、恋をした。
 相手は神学校の同級生で、明るい笑顔と可愛らしい顔が印象的な貴族の『少年』だった。
 気の合う仲間以上の感情が芽生えている事に対して、何も疑問を抱かなかった。単純に『恋愛』なるものに対して疎かっただけなのか、それとも無意識でその現実を否定していたのかも知れない。どちらにしても、無自覚なまま相手に気持ちを伝えてしまったのだ。
 ――おいおい、冗談だろ?…………マジかよお前、気持ち悪ぃ。
 もう少し後から知った事だったが、男子だけを集めた学園では割とある事だったようだ。だが、神の教えでは、同性愛は禁忌だ。だから、忌むべき存在≪俺≫に対して、罰が下されるはずだった。だが、実際に罰せられたのは、彼の方だった。
 普段から素行の良く無かった少年と、周囲から学園創設以来の天才と持て囃されていた私≪俺≫、二人が何と言おうと、社会がどちらを信用しただろうか。
 やがて、少年は自殺した。遺書と謝罪の言葉を残し、『自殺させられた』。
 差し向けた犯人は、学園の教師だった。俺≪シルファ≫を守る為、と釈明したが、報酬として体を求めて来た事からも、意図は明白だった。
 ――俺≪シルファ≫は、初めて人を殺めた。
 (その事に対しては何の感情も沸かなかった。むしろ死んだ彼の事を想い涙した。何故、こうも世界は不完全なのか。神は、其処におわすのか、とね)
 私は、不完全な存在として生まれた事に対して不満を抱いているんじゃない。神を恨んでもいない。だが、こんな事の為に死んだ者がいる事が、どうしても許せなかった。そして、もし運命を操る神とやらがいるなら殺してやる、そんな事ばかり考えていた。
 それから長い歳月が過ぎた。長い間、心の蟠りを抱いていた私≪クライス≫の目の前に、『神』と、それに『抗う者』が現われた)
 (まさか……)
 ――そう、クライス≪シルファ≫。君≪私≫だ。
 いつまでも組み上がらなかったパズルの、最後のピースがやっと見つかった気分だったよ。歴史に埋もれた不可思議な歪みの正体を垣間見たのだから。それから、私はこの国に存在する書庫という書庫を調べ上げ、王家が継承する仕掛けを発見した。
 ――天上への扉≪セレスティアルゲート≫、この世界に打ち込まれた魂の楔。
 外で見ただろう?あの神殿の事だよ。あれは今も稼働し、神と呼ばれる者の為、何かを行っている。恐らく、人の世界に大掛かりな干渉する為の装置なんだよ、あれは。
 ヒューレとは全く異なる存在が、この世界にはいる。そして、弱き人間の世界を弄んでいる。その事実をしった私は、居ても立ってもいられなくなって計画を立て、実行した。
 ――お前なら犠牲を出さずにこの国を変えられたはずだ……何故、命を弄ぶ!お前の行いと、神の存在の何処が違う!
 (最初に言っただろう?私はこの国の出来事に関心がないんだ。それに、幾ら無限思考≪インフィニティ≫があった所で、所詮、在り得る未来を垣間見るだけだ、全ての人間を救う事など出来ない……人より僅かに力があったとしても、私は其処まで傲慢じゃない。
 だがもし、私の計画に巻き込まれて失われた命があり、帰らぬその魂に対して私に出来る事があるとすれば、この世界から神の存在を消し去る事だけだ。人の手の中で起こった事を全て人の手で受け入れる、それが私の望む世界だ)
 シルファには全てを超える覚悟があった。人の死も、想いも、何があろうとも己の行動を貫き通す意思があった。この心の繋がっている場所では、その絶対的な強さが理解出来た。
 この天才にして、救える者は限られているのだと言う。だが、それは当然の言葉だ。人が人である限り、出来る事には範囲がある。けれど、その言葉は、クライスにとって少なからず衝撃的であった。
 (俺は……俺の目に映る全ての人を救いたいと思っていた)
 ――――突如、世界が失われた。
 深く暗い闇の中に、クライス≪シルファ≫は独りぼっちだった。光など何もない。自分の体さえ知覚出来ない常闇に、裸の魂が晒されていた。
 (これは……)
 シルファは驚愕となった。流れ込んで来る世界が、余りにも自分≪クライス≫と違い過ぎた。
 それはクライスの理想、その一つの在り方だった。
 ――誰も傷付かない世界。それは、誰もいない世界。孤独ならば誰も傷付かない。傷付ける事もない。全ての人を救えないのなら、誰も救わない。それが、クライス≪シルファ≫の選択した世界だった。
 (俺は、人を殺す事でしか生きられない。守る力なんて持ってやしない。だから、どんなに願っても、叶わないと分かっていた)
 景色が移り変わる――――そこは、戦場だった。
 金属のぶつかり合う、甲高いが芯のある音と、男達の絶叫とが全方位から響いた。大勢の兵士達が争い、大地へ平伏せていく。見渡す限り死の匂いで満ちた戦場の中で、今より少し若い、少年のクライスが駆けていた。刀身の短い剣≪スティンガー≫を携え、敵将を討つ為に、敵陣の隙を突いて隊の奥深くへ潜り込もうとしていた。
 戦場においては若く体の小さなクライスは、『死神の刺』と呼ばれていた。それは唯の刺ではない。刺した者を目覚める事の無い、永久の眠りへと誘う猛毒の棘だった。敵を斬らず、最小の動きで急所を刺すスタイルから、いつしかそう呼ばれることになった。
 一人刺し、二人刺すが、状況は何も変わらない。十人刺し、二十人刺しても、争いは何処までも続いていった。人々の悲鳴が、まるで終わりの無い鎮魂歌のように人の死を歌い続ける。一歩ずつ願いが遠ざかり、絶望するまでそれ程時間は掛からなかった。
 (家族だと思えた人達を守りたかった!……ただアイツを、守ってやりたかっただけなんだ……!!)
 (クライス……君は……)
 そして炎が、全てを焼き付くした。目に映る物は全てだ。家も、木々も、空気も、人も、ありとあらゆる存在を、踊り狂う炎が飲み込んでいた。
 その中心で、クライス≪シルファ≫の小さな手には、息絶えた幼い少女が抱かれていた。叶わぬ想いを寄せた少女は、もう永遠に目覚める事がない。そして、炎に焼かれて自分も死ぬ。逃れられぬ死の恐怖に、体の震えが止まらなかった。
 だが、徐々に体の震えは別の意味を持ち出す。
 ――怒りだった。
 腹の底から湧き上がる、感情が全てを塗り潰した。唇が切れる程強く噛みしめ、強く握り締めた左手から血が滴る。吹き出た感情の揺れに合わせ、全身が戦慄いていた。大切な者を奪われた、純粋な怒りだった。
 ――何だ?
 炎がクライスの肌を焦がし始めた時、その周囲に変化が訪れる。どれだけ時間が経っても、クライスの体に炎は燃え移る事なく、肌を焦がす事もない。足元から吹き上げる黒煙に視界を奪われても、苦しそうな素振りすら見せなかった。
 そして、立ち込める黒煙の色が深みを増した。黒色や濃塵色の混ざり合う煙が、次第に闇色に染め上げられていく。濁りの無い純粋な黒。それは光すら貪欲に飲み込む闇、或いは、あらゆる存在を拒絶した虚無だ。
 いつの間にかクライス≪シルファ≫の体を包み、今やその輪郭しか見えなくなっていた。無限の密度を造り上げる闇は、更に触手を伸ばし、炎を、地面を、周囲の建物を飲み込んだ。
 ((――うわぁぁぁぁ!!!!!))
 記憶の内に眠っていたはずの『記録』が目の前を駆ける。クライス≪シルファ≫の絶叫が、同じタイミングで少年≪クライス≫から放たれた叫喚と重なった。
 意識が闇に飲み込まれる直前、世界に一筋の光が降り注ぐ。強烈な閃光が視界を覆い、そして全身を満たすと、唐突に意識が現実へ引き戻された。
 「ッ――――何だ、今の闇は……」
 シルファは地面に伏せたままの銀髪の青年≪クライス≫を、驚愕の目で見ていた。ガクガクと全身を震わせているのは、強制的に意識を引き摺り回された影響だけではない。
 一つになった精神を安全に開放する手続きを素っ飛ばして切り離してしまったせいで、深刻なダメージを与えていたのだ。例えるなら、崖っぷちで繋がれた二つの手を切り離すようなものだった。下手をすれば、一瞬で廃人となる可能性もある危険な方法だった。
 だが、そうでもしなければ、アレに喰われていたのは確実にシルファの方だった。
 「……クライス、君は一体どれ程の闇を抱えている?」
 その呟きはクライスに届かない。音は聞こえていたが、キンキン鳴り響く耳鳴りや、こめかみを通る血流の脈動がグチャグチャに混ざっていて、何を言っているか分からなかった。
 近くにいたはずのシルファが離れていく気配が伝わって来たが、視界が渦を巻いて何処に向かったのかも分からなかった。
 どうにか立ち上がろうとしたが、途端に体から力が抜けていった。意思とは反対に、力めば力む程何かが芯をすり抜け、意識が遠くなっていくのが分かった。
 (シル、ファ…………)
 そして、最後まで抵抗し続けた意識は、完全に闇に飲み込まれていった。


 「何故そいつを殺さない/何で殺さないの」
 その時、異口同音で発せられた二つの音色が、空から降り注いだ。
 少女のソプラノと青年のバスとが奏でる二重奏――空気を伝わらない美しい響きは、シルファに向けられたものだった。
 薄闇の帳から忽然と姿を現したのは、ゼノンの森で大破壊と共に姿を消した聖典の天使≪ユーシア≫だった。光を放つ金髪と、四枚の美しい羽が天使のようであったが、双眸に埋まった底なしの闇が、決して神の使いではないことを物語っている。
 だが、シルファに特別に驚いた様子はない。その姿を見ても、人の言葉で話し掛けて来たことに対しても、何の疑問も抱いてはいない。むしろ、聞き覚えのあるその声が、状況を雄弁に語っているような気さえしていた。
 「ああ、君達か。その姿、奴らと同化したのかい?」
 瞬間、聖典の天使≪ユーシア≫の、仮面のように凹凸の少ない顔が歪んだ気がした。
 「君のせいでバルド様が死んだ/お前のせいで体を失ってしまった」
 二つの声が同時に聞き取った場合、普通はどちらも不鮮明となるものだが、双子の声はどちらも明瞭聞こえる。いや、聞こえるというよりは『伝わって来る』といった方が正しいだろう。
 相手の意思を直接汲み取っているような感覚だった。音を言語という枠で変換することなく、怨嗟と、憤怒と、殺意とが肌から吸い込まれて来る。
 「バルドの敵討ちに来たのか。残念だが、彼は殺さない。生きてこの世界の行く末を見ていて貰うつもりだ」
 「この国。なん、関係ない?ある/自由、だ……。羽、空、が。落ちる」
 何か様子がおかしかった。突然、二つの意識が不鮮明となり、意味も直接受け取ることが出来なくなっていた。
 その様子を眺めていたシルファが、静かに笑った。
 「君達がどう考えたかは分からないが、仮にも、相手は『神』と呼ばれる類の存在だよ?人間が一人や二人同化しようと、ものともしないだろう。実際、取り込まれたのは君達の方だ」
 「我、々は…#…$%&’>!=)」
 その一言に端を発し、聖典の天使は叫んだ。二つの声の判別が必要なくなる程の絶叫が、神殿全体を揺らし、空気が一変させた。大気が震えだし、聖典の天使≪ユーシア≫に向けて理力が急速に集まり出した。
 その気配を、クライスは地に伏せながら感じ取っていた。
 ――ここで、またアレをしようというのか。
 忘れようと思っても忘れられない記憶があった。例え、あの降り注ぐ光の輝きを忘れようとも、体が覚えている。この左腕の記憶は、褪せることはないだろう。自分のものが自分のものでない実感が、想像以上に己を縛り付ける呪縛となっていた。
 今は動く気配のないこの左腕が、何時、勝手に振舞うやも知れない。その時、あの闇に飲み込まれるのは誰か。明滅する意識の中で、この場にいない少女の顔がチラついた。
 「逃げろ……そいつは、人間のかなう相手じゃ、ない」
 体を起こしながら振り絞る声が、自分のものとは思えない程弱々しかった。とても遠く離れたシルファに届くものではなかった。それに、シルファ自身は全く逃げる様子がない。仮に忠告が届いていたとしても、それは同じ事であろう。
 (また、俺のせいで、巻き添えを出すのか……)
 聖典の天使≪ユーシア≫は自分を狙っていた。ならば、自分が相手をしなければならない。殺されるのなら、それは自分以外の誰でもないはずだ。相手が誰であろうと、それがロザリアの仇だとしても、殺させる訳にはいかなかった。
 「お前は、アレと戦ったことがあるようだな」
 唐突に、頭上から女の声がした。
 ギョッとしたクライスが、その声のする方向に目を向けると、いつの間にかそこに、一人の少女がいた。人目を惹く鮮やかな空色の髪が特徴的で、髪と同じ色をした大きな瞳に、整った目鼻立ちが美しい少女だ。
 忘れようもない。城の回廊に突然現れ、音もなく消えてなくなったあの少女だった。
 少女はその華奢な体にピタリと密着した、肌のような黒い衣服を纏っていた。メリハリのある女性的なラインが見れば見るほど艶めかしい格好であったが、クライスの意識はそんな所へは全く向かなかった。
 まるで巨大な獣か得体の知れない何かが、小さな体に押し込まれて立っているような、そんな重圧があった。『見た目に騙されるな』と警告されるまでもなく、直感が危険信号を全開で点灯させている。
 「その経験は得がたい教訓かも知れんが、相手をよく見て判断することも、等しく大切なことだ」
 「お前は……一体、どこから」
 少女が指し示す先には、臨戦態勢に入った聖典の天使≪ユーシア≫がいた。
 「クライス、お前は相手の中を感じ取れるか?ならば探ってみるといい、アイツの中身が空っぽなことに気付くはずだ」
 だが、その指摘の真偽を確かめる前に、全ては終わっていた。
 ――少女が話し出した時、シルファは獣の像に突き刺さった剣を引き抜いていた。
 ――クライスが疑問を抱いた時、シルファは聖典の天使≪ユーシア≫の背後に現れていた。
 そして、シルファは手にした剣を目にも留まらぬ速度で一閃した。縦に鋭く入る剣線、全てはそれで終わっていた。だが、それで終わらせない。
 瞬間的な間を置いた後は、横薙ぎに一閃、袈裟切りに一閃、そして、縦横無尽に一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃、一閃。
 計20本の線が体中に刻まれ、聖典の天使≪ユーシア≫の体は、足先から翼の先端に至るまで、バラバラになっていた。その隙間から、掌を突き出して構えるシルファが見えた時、
 「焼き尽くせ、紅蓮の業火」
 瞬時に、大魔導が炸裂した。強烈な炎が放たれ、細分化した部品を丸呑みにした。その勢いは凄まじく、部品は消し炭を通り越し、塵となって舞い落ちた。
 そして、光の礫がその後を追うように、静かに落ちていく。風に流されることなく、その場を下る様子は、まるで静かな湖面を沈む宝石のようだ。
 そして、剣を肩に担いだシルファが光の中を降りていく。塵よりも早く、光の礫よりもゆっくりと。
 「君達の師に教えた技だ。これ位しか私には出来ないが、せめてもの餞だよ」
 その余りにも呆気の無い幕切れに、クライスは唖然とするしかなかった。幾ら力を使い果たしていようと、相手は聖典の天使≪ユーシア≫なのだ、あんなにあっさりと仕留められるはずがない。とても眼前の出来事を信じる気になれなかった。
 だが、心にあったのはそれだけでない。自分以外に聖典の天使≪ユーシア≫に対抗出来る者なんていない、そう信じたかったのだ。
 一人でも生きていける、神にすら対抗出来る。それが、独りで生きると決めた道なのだ。換言すれば、それは積み上げた力であり、矜持であった。
 だが、その想いは一瞬にして砕けた。あっさりと砕かれてしまった。どれだけちっぽけな幻想であったか暴かれ、自分の力などその程度のものでしかないと思い知らされ、打ちのめされ、そして、
 「クライス、呆けている暇はないぞ」
 凛とした少女の言葉によって我に返った。すると、聖典の天使≪ユーシア≫の震わせていた空気が、今度は別の現象によって気配を変えようとしていることに気付く。
 ――獣の石像が、震え出していた。
 「あれは、まさか……!!」
 「恐らく、もう人には止めることは出来ないだろう」
 石像の表層に一筋のひびが入ると、一瞬にして全身に広がり、破片を撒き散らした。
 「人の世界の終わりだ」
 生命力に溢れた見事な像、それもそのはずである。崩れ落ちた表層の奥から、金色の体毛が顔を覗かしていた。薄紫色の眼球がギョロリと動き、下顎が表層を突き破って大きく開かれた。
 「グオァァァァァァァァ!!!!」
 完全に石の皮膚を脱ぎ捨てると、二本足で立つ金色の獣が現れた。鋭い爪と牙、そして前方に伸びる鼻先が狼を彷彿させるが、いかんせん、その巨躯は人を遥かに超えていた。それに、想像を超えているのは外見だけではない。あの聖典の天使と同様、いやそれ以上の眩い光が全身から放たれているのは、その有り余る理力を放出し続けていることに他ならない。
 金色の獣は、地上に存在するどの獣より大きな咆哮を上げた。長い眠りから醒めた獣が放つ、怒りの叫びだった。
 それは、クライスにとって絶望を知らしめる叫びであった。そして、シルファにとって戦いを告げる叫びであった。
 まず金色の獣の方が戦端の口火を切った。眼下のシルファを引き裂かんと、無造作に金属の爪を振り下ろした。その巨体に似合わぬ、スピードのある攻撃だ。
 まともに受ければ、どんな生物でも死を免れない破壊力に、直撃した石畳が捲れ上がった。早々かわせる勢いでなかったが、シルファは懐に入り込み、難なくかわしていた。
 今度はシルファが、必殺の間で剣戟を振るった。丁度、敵の股間に向けて逆斬りに剣線を走らせる。
 聖典の天使を真っ二つにした一撃であったが、今度は巨獣の肉を幾ばくか斬り付けたに過ぎない。金色の体毛が邪魔をして、切り裂くことが出来なかった。
 「ちぃっ、硬いな!」
 金色の体毛は、言わば理力の鎧であった。どんな魔導を使っている訳でもないが、体毛の本来の目的である『体を外的要素から守る』という機能が極限まで高められている為、物理的な攻撃を始め、魔導による攻撃すら受け付けない状態にあった。
 仮に理力の鎧を無効化出来たして、シルファと比べれば、優に5倍以上の体格を誇る相手である。厚い筋肉が邪魔をして、生半可な攻撃では致命傷に至らないだろう。
 シルファは駆け抜けながら、金色の獣の背に攻撃を浴びせると、固執せず、その場から瞬時に距離をとった。
 遅れてシルファの居た場所が薙ぎ払われる。尻尾が無造作に払い飛ばしただけだが、その威力が桁違いである。爪での攻撃と同様、その勢いで石畳が捲れ上がり、空へ舞った。
 空振りした尻尾へ、真空波が襲い掛かった。風の魔導によって生み出された、空気を切り裂いて出来た斬撃は、金色の獣の背後にあった柱をバターのように切り裂いたが、尻尾自体は筋肉を抉ったに過ぎない。
 シルファの攻撃をものともせず、巨狼の熾烈な攻撃が続いた。しかし、シルファの変幻自在の戦い方に付いていけていけず、その度反撃をくらっていた。
 状況はシルファが終始支配していた。このまま押し切るかのように思えたが、クライスは深長な面持ちで戦いを見ていた。両者の様子を眺めていた少女が、クライスの推察を代弁するように、
 「あの男は上手くやっている。だが、このままでは蓄積された力の差で敗北することになるだろう」
 予言者の如く断言した。シルファに後どれ程の余力と切り札が残されているのか分からないが、勝てる予感がしない理由がクライスにはあった。
 何故なら、シルファは出会い頭の決定的場面でも致命傷を与えられていない。力が拮抗している相手なら、決着が付いている可能性がある好機であったにも関わらずだ。
 何より、相手はまだ理力を形にしてもいない。敵はまだ単純な力のぶつけ合いで遅れをとっているだけだ。あの聖典の天使≪ユーシア≫が全力を費やした時、森は一瞬にして消滅した。それ以上の力を秘める存在が本気を出した時、一体何が起きるのか、想像も出来なかった。
 「それにしても――」
 不意に、少女の言葉が続き、
 「あの剣とは、とことん相性が良くないようだ。力を与えるどころか、互いに相殺されている」
 ――瞬間、我が耳を疑った。
 力が相殺されている?そんなことがあるはずない。相手を倒せないのは、あくまで、あの瀑布の如き理力に阻まれているからだ。どんな名剣を使おうと、大魔導を使おうと、あの障壁を貫く事は容易ではない。
 何より、あの剣の切れ味は既に証明されているではないか。あの聖典の天使≪ユーシア≫を微塵切りにした、十分過ぎる実績がある。一体、他にどんな事実が必要だろうか。
 「……お前は一体、何を言っている?」
 「言った通りの意味だ。それ以上でも、それ以下でもない。あの者は、剣に邪魔をされている」
 その言葉が真実であることを、クライスは直ぐに知ることになる。
 ここに来て初めて、シルファが表情を曇らせていた。敵から距離を取り、手にした剣をじっと眺め――あろうことか、その場へ放り投げてしまった。ガラクタと化した道具を捨てるかの如く。
 戦場で自らの武器を手放すことが如何なることか、痛い程理解している者にとって、その行為は衝撃以外の何ものでもなかった。武器がない、とは間合いが狭まるとか、相手に与えるダメージが小さくなるとか、そんな直接的な意味を持つだけではない。
 武器がないとは、自分の命を守るものが無い、ということだ。あの掠りでもすれば、身に付けた防具ごと肉を引き裂くであろう一撃を受ける手段がないなど、想像するだけで恐ろしい。
 クライスは完全に打ちのめされた。ここにいる奴らは化物だ。全てが規格外過ぎた。自分が、端にでも引っ掛かっているつもりだったが、それは唯の勘違いに過ぎないのだ。
 「……やはり、剣術は得意じゃないな。魔導師になっていて良かった」
 シルファは薄く笑い、前へ足を進めた。
 その足取りは、まるで重りを脱ぎ捨てたように軽く、自信さえ充ち溢れていた。
 「さぁ行くぞ、第二ラウンドだ」
 前に進む足の運びが次第に早くなる。徐々に加速し、直ぐにトップスピードに乗り、遂にはその姿が霞む。
 「――炎よ」
 主のその言葉を待っていたかのように、両手から勢い良く炎が飛び出した。だが、普通の炎ではない。火柱の上がらない円形の炎だ。外へ向かう炎の触手が内側へ循環し、内圧を高めていた。理力を糧とし、極限まで高めた空気がプラズマ化し、激しい輝き放つ。
 「踊れ!!」
 二つの光の玉が、螺旋を描きながら襲いかかった。しかし、その攻撃は完全に読まれていた。放たれた時、黄金の獣はシルファの左側面へ向け、その巨体を移動させていた。
 両者の間合いが危険な位置まで近付き、逆襲を喰らおうかというまさにその時、黄金の毛皮に光の玉が命中する。
 命中するはずのない玉が、慣性の法則を歪め、その軌道を直角に曲げて獣の腹部に喰らいついた。一発目が命中すると、間髪入れず二発目も体内に吸い込まれた。だが、何の変化も起きない。あたかも、理力の海に吸収されたように見えたその時――
 瞬間的に、空間が、音と、光と、衝撃を抱え込んで真っ赤な風船のように膨れ上がり、瞬きをする間もなく、大爆発を引き起こした。
 爆発は周囲の酸素を一瞬にして飲み込み、真っ黒な空気を空へ吐き出した。距離の空いたクライス達をも焼き殺し兼ねない凶悪な放射熱に、肺が焼かれそうになった。
 だが、それよりも直撃を受けた方が遥かに酷い有様だった。金色の獣がいた付近の石畳は、飴細工のようにドロリと溶けて、原型を留めていない。水蒸気爆発を起こした中心部は、大きな陥没が出来上がっていた。抉られた地面から立ち上る煙と暴風に巻かれ姿こそ見えないが、このまま、あの巨体が消滅していても何ら不思議ではない威力だ。
 目の当たりにした力の巨大さに、クライスは戦慄していた。それは、純粋な恐怖心だった。
 幾つかの国を渡り歩き、数多くの戦場を経験して来た。その中に、魔導を扱う者は数え切れない程いた。魔導師とも、幾度か殺し合いをしたことがあった。だが、これ程魔導の扱いに長けた者は見たことも聞いたこともない。伝説に残る魔導師の荒唐無稽な逸話など歯牙にも掛けない、本物の『大魔導師』が実在したのだ。畏敬を抱いたとしても無理からぬ話だ。
 「……仕留めたのか?」
 「「まだだ」」
 クライスが辛うじて口に出来た疑問に、少女とシルファが二人揃って同じ台詞を口にした。示し合わせたでもないが、そこには違わぬ共通認識があった。
 「我≪シルファ=バーキン≫が振るうは破天の力――七つ罪の剣≪ディクトレス≫、罰下しの剣≪ルドラリオ≫、断罪の剣≪ニナ・エクスキューション≫、我が刃となりて敵を……討てっ!」
 詠唱が終わると、けたたましい音を立て、金色の獣の身体から3本の巨大な刃が生えた。しかし、突き出した赤と、緑と、青の刃は、対象に備わった器官ではない。
 正真正銘の異物である巨大な3本の刃が、足から胴体にかけて串刺しにして、金色の獣を地面に縫い止めていた。
 怒りの咆哮が、神殿全体を震撼させた。
 金色の獣は、四肢の力を振り絞り抜け出そうとするが、体を縫い止めた3本の剣はその場から揺るぎもせず、反対に、より一層深く食い込んでいった。
 その時、大暴れをしていた獣がピタリと動きを止める。何かの気配を察し、視線を空へ向けていた。
 雲ひとつとない空。その色は、夜の黒から、明けの濃い紫へ変えていた。この神殿自体がかなり高所にあるのか、一面に浮かぶ星の輝きは、地上から見たものとは比べものにならない強さだ。
 その中に、一際と力強い光を放つ存在があった。だが、星ではない。光の正体は、白銀に煌きを放つ一振りの巨大な槍だった。
 「神さびた槍≪クラウ・ボルガ≫…………穿てっ!!!」
 獣に突き刺さった3本の剣をも凌駕する巨大な槍が、上空から、猛烈な速度で堕ちて来た。芸術的なハーケン構造の理力が生み出す破壊力に、加速エネルギーを加えた、正に神を滅する為の魔槍だった。
 そこで、今まで垂れ流していただけの獣の理力が、初めて方向性を持った。
 槍と金色の獣の間に、六層の魔導障壁が一瞬にして出来上がっていた。一つ一つがあらゆる攻撃を無効化する魔導で編み込まれた盾。それが六層にもなって立ちはだかった。
 ――刹那、槍と盾が激突した。
 一層目を紙の如く、二層目を易々と、三層目をもろともせず、四層目は留めるに能わず、五層目にして勢いを殺し、六層目を切り裂いて、金色の獣に辿り着いた。
 その時、世界が真っ白に塗変わる。ありとあらゆるモノが全方位から放たれる光に包まれ、影を消し去った。音が失われ、衝撃すら光の中に飲み込まれていった。
 しかし、それも瞬く間に元の世界へ引き戻される。そこは、何も変わりない世界のはずだった。眼前には、光の毛皮を纏った巨狼の姿があった。いや、あったように見えた。
 それが、網膜に焼き付いた虚像だと気付くのに、如何ほどの時間を要しただろうか。
 巨狼の実体は、左肩から背骨に沿って左足、そして尻尾までがごっそりと消えてなくなり、そこからこんこんと湧き出る光の礫が、濃紫色の空へ舞い上がっては消えていった。
 「やった、かな……?」
 苦しげに息を荒げ、極度の疲労を見せるシルファだが、それでも口元に笑みを絶やす事はない。
 巨大な、天使の姿に似せた狼が、四つん這いの姿勢のまま、神殿の石畳へゆっくりと沈んでいく。
 ドンッ――、という音が響き渡り、言い知れぬ静寂が、辺りを包んだ。
 『神を駆逐し、人間の手に人間の世界を取り戻す』
 シルファの口にした言葉がクライスの頭の中を駆け巡り、その重みが胸の内に染み込んでいくようだった。
 自分の呪われた紛い物とは比べ物にならない、本物の力――
 この世界を変える可能性を秘めた、自分が求めて止まなかったモノを持つ男――
 ――そして、何も持たざる惨めな自分。
 一体、何を比べれば、慰めになるのだろうか。心の端から、シルファに対する羨望と嫉妬心、自身に対する失望と猜疑心が押し寄せようとしていた。
 「クライス、それでお前はどうする?」
 その暗澹とした思いを断ち切るように、空色の髪をした少女が尋ねた。
 「俺は――」
 もうこの世にルードリッヒはいない。黒幕であるシルファは、これ以上、この国に干渉する気が無い。そして、民衆による革命が成功するのは既定の事実だ。後は、貴族であるロザリアが、民衆からどう扱われるか……娼館へ売り飛ばされるか、それとも贖罪の羊≪スケープ・ゴート≫として断頭台に送られるのか末路か。いいや、亡命を望めばきっと生き長らえる事は出来る。後は、本人がこの現実を受けれることが出来るかどうかだ……
 だが、それがどうした。それはロザリアの問題であって、自分の問題ではない。自分がどうしたいか、という質問の答えにはなっていない。
 ――俺はこのまま何も出来ず、何の意味も無く幕を下ろすのか?
 そんなのは慣れたものだ。戦いが本の中の物語のように、常に勝利と敗北に彩られるとは限らない。戦場の端で戦う者にとって、勝ち負けを見失った戦いなんて珍しくもない。後は、虚しさが心を満たして、また次の戦場に出向く。そうして争いが続いていく。唯、それだけだ。
 ――それで、俺はまた人殺しを続けるのか?
 アイツはこれからも、こうやって神への反逆を繰り返す。その存在を駆逐するまで、或いはその生命が消えるまで。その先に何があるのか、本当の平和があるのか、そんなもの想像も付かない。だが仮に、『与えられる平和』があるのなら、それも悪くはないはずだ。人殺しをしなくて済むならそれも――
 クライスは、シルファの進む道が正しいのか、それとも間違っているのか分からなくなっていた。ただそこに平和があるなら、信じてみる価値はあるはずだ。
 心の天秤が傾き掛けたその時、突然、触覚を無くしているはずの左手が痛んだ。痺れる痛みと、突き刺す痛みが、奥からジクジクと神経をえぐっていた。
 「ぐぅっ!!」
 余りの激痛に、クライスは顔を歪ませた。そして、その痛みが、忘れ得ぬ記憶を呼び醒ました。
 深い闇と見知らぬ土地に抱かれ、目も当てられぬ程に変わり果てた貴族達を思い出す。両目を抉られ、物言わぬルードリッヒを思い出す。まるで脊髄を、稲妻が突き抜けるような感覚だった。
 何も同情する余地の無い奴らだった。それどころか、民衆の視点から眺めれば、当然の結末だった。天罰だと、人は言うかも知れない。それも理解出来る。だが――
 納得は出来ない。出来るはずがない。そうだろう?
 押し寄せる流れの中で、守れなかった命があった。いとも容易く消えた命があったのだ。腐った奴らの巻き添えをくって、無為に死んだ者がいる、それが自分の現実だ。
 ――必要な犠牲?そんな言い訳で納得出来るはずがない。誰かの為に誰かが犠牲になるなんて、許せるはずがない。
 「そうだ……俺は、『誰も傷つかない世界』が欲しいんだ」
 呟きと同時に、巨大な影がそびえ立った。全身の体毛が光り輝いていた時の、あの悠然な姿とは様子が違い、凄愴な表情をした巨狼がそこにいた。
 消滅したはずの半身は元通りに復元し、薄紫の眼を輝く血の色に染め上げ、鋭い牙を剥き出しにして、殺意を全開にする。
 迫力だけなら以前の何倍もあったが、その姿を見たシルファは不敵に笑う。
 「半身の緊急復元……神域の存在であっても、流石に理力を大量消費するらしい」
 奇跡的な防御力を誇った黄金の毛皮は既に失われている。巨狼の全身は、地の色と覚しき白色に変わり果てていた。その色は、疲れ切った老人のようでもある。
 今や、その防御力は聖典の天使≪ユーシア≫を遥かに下回るレベルへ落ちていた。仕留めるのに大魔導など必要としない。この状態ならば、シルファでなくとも倒せるはずだった。
 「これが最終ラウンドだ」
 再びシルファが突撃した。此処に観衆というものがいれば、以前と同じ、一方的な展開を想像しただろう。絶対的な防御が無くなった今ならば、より呆気無い顛末かも知れない。だが、観衆は常に裏切られるものだ。
 呼応するように前進するかと思われた巨狼が急停止し、その場で意外な行動に出た。
 「――――――――」
 人に似た姿をした狼が、人語ではない発音で、何事か言い放ったのだ。
 「何っ?!」
 シルファが咄嗟に距離を取ろうしたが、一瞬だけ反応が遅かった。地面から、あたり一帯を全て巻き込んだ突風が生まれていた。
 ただの風ではない、纏わり付くような厚みのある風だった。水の中に放り込まれたように身体の自由を奪い、更に空へ向けて投げ付けられた。
 シルファは上空で体勢をすぐさま立て直し、目を開けるのも困難な嵐の中で、同じように飛ばされ、恐ろしい速度で突っ込んで来る大理石の柱を叩き割った。
 だが、極端に悪くなった視界のせいで、またも反応が僅かに遅れる。背後には、空飛ぶ凶器に紛れて空を舞った獣の巨躯があった。
 巨大な爪が、鉄槌の如く打ち下ろされた。それは、ただ大きく鋭いだけではない。
 凶悪なシルエットの流れ落ちる軌跡を、赤色に輝く残像がなぞらえた。その超自然現象は、魔導による強化が施されているからに他ならない。先程と同様、巨狼は巧みに魔導を操っていた。
 シルファは、ハエ叩きの要領で地面へ叩き付けられる。激突した石畳は砕け、周囲に亀裂を走らせた。
 蹲るシルファが体を起こした時、今度は、地面を抉りながら繰り出される巨狼の前蹴りが襲い掛かった。回避不能なタイミングで叩き込まれ、細身の体が砲弾のように吹き飛んだ。神殿の円柱を突き破り、奥に転がった。それでも怒りの収まらない巨狼は、全身の体毛を逆巻かせ、更なる追い打ちを掛けた。
 まるで、鼠を玩具に遊ぶ猫のようであった。相手が逃げようが、息絶えようが、お構いなしに小突き回し、執拗になぶり続ける。神域に存在する獣にしてみれば、人間など鼠に過ぎなかった。
 そして、留めとばかりに、狼の顎がシルファの体を喰らいつく。
 ――グシャリと、肉を切り裂く音がした。
 しかし、弄ばれる鼠も、唯の鼠≪人間≫ではなかった。
 巨大な牙によって穴が開いたのは、シルファではなく巨狼の方だ。二本の氷柱を牙のように突き立て、狼の口を縦に貫いていた。
 大きさこそ見事なものだが、即席で生成した氷柱に敵を害するだけの勢いはなかった。だが、無防備な体内である事と、口の閉じる勢いを逆に利用する事で、費やした力以上の結果をもたらしたのだった。
 流石の巨狼も、想定外のダメージを負った事で後方へ大きく飛び退った。
 一方のシルファは、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。途中、軽く咳き込むと、それだけで浅黒い血を大量に吐き出し、足元に血溜まりを作った。その大きさが、蓄積しているダメージの大きさを物語り、積み上げた優位性が一瞬にして崩れたことを証明していた。
 「あまり、人間を……舐めるなよ!!」
 闘気を漲らせ立ち上がろうとした時、白き獣が翼を大きく羽ばたかせると、一陣の風と共にその巨体をゆっくりと舞い上がらさせた。
 悠々と昇っていく姿を静観していたシルファだったが、直ぐに相手の意図を悟った。そして、それが自分の敗北に繋がることも。
 「もうこちらに遠距離からの攻撃はないと踏んだのか、なかなか賢い奴だな」
 神域の存在に対して、皮肉を零した。
 どれだけ距離が離れても、致命傷を与えられるだけの魔導はある。問題は残された理力だ。そして、それは相手も似たり寄ったりの状況である――が、根本的に理力の総量が違う。残り少ないとした所で、この神殿ごと破壊するだけなら、さしたる問題ではないらしい。
 空に浮かんだ白き獣が、芥子粒程になった所で、再び金色の輝きが放たれた。
 ただし、光っているのは体ではなく、その前方に築かれた鏃(やじり)のような形状をした理力の塊だった。周囲には見たことのない文字が帯状に展開され、人の使う魔導とは別の技法であることが分かった。
 「失われし魔導≪ロストソーサリー≫か……流石に、あれを防ぐのは無理かな」
 片膝をついたシルファが、目を伏せて静かに微笑んでいた。



 ©Gelcy