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第一章 09
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ブラウニルの隠れ家から王宮があるサイラスの街までは、かなりの距離があった。早馬で掛けても、2時間は身を切る様な寒さに堪えて走り続けなくてはならない。だが、馬鹿になってしまった頭を冷やすには調度良かった。いっその事、凍った川の中にでも飛び込みたかったが、そんな余裕はない。
凍った風に晒されて、沸き立った感情が完全に冷静さを取り戻すと、今度は全身から悲鳴が上がってきた。
ただでさえ至る所に切り傷や打撲が刻まれ、疲労も大分蓄積していた所へ、冷気と振動の二重苦が襲って来るのだ。鍛え上げた体だとしても、文句の一つも言いたくなるだろう。
自分のものとは思えない程重い体や治まらない痛みが、戦いの障害になるのは明らかだったが、無理を押してでも闇夜を駆けるのには、クライスなりの理由があった。
ルードリッヒを生かすにしろ殺すにしろ、今は好機なのだ。
相手からして見れば、ゼノンの森での一件は大成功と言えるだろう。何しろ殆どの不穏分子を排除したのだ。戦果を受けたルードリッヒやその部下が、大それた計画の緊張感から開放され、気が抜けている可能性は大いにある。加えて、街に付く頃には夜明けが近い。人間の警戒が最も緩みがちになる時間帯であれば、潜入するには好都合だった。
どう動けばあの少女が守れるのか。馬の背に揺られながら、幾つかのシナリオが浮かんでは露の様に消えていった。
無数の細い糸から正解を手繰り寄せようと言うのに、掴もうとする糸は余りにも少なかく、脆かった。
その脆さの要因の一つは、思い浮かべたシナリオの中で、『ブラウニルの援護を待つ』という選択が一切無い点にあった。
ブラウニルを裏切るつもりはなかったが、これはあくまでも私的な行動だった。本来の任務の事も考えてはいない。だから、連絡係へ判断を仰ぐこともしてはいなかった。
汚名を被るのもつけ狙われるのも、たった一人で良いのだ。例え王族を殺す事になったとしても、それはこの国と利害関係のある者の行動ではなく、第三者の手によって処理されなくてはならない。そうでなければ、争いの連鎖を断ち切ることは出来ない。
また、仮にブラウニルの援護があった所で、その戦力は不明であった。ブラウニルにどれほど人脈があろうと、ルードリッヒと拮抗するだけのは物量が見込めない以上、事態を全て制御出来るとも思えない。むしろ、不確定要素の方が多いこの状況下において、どれほど論理的に行動した所で、周囲の人間がまったく意図していなかった方向へ事態を進めていく可能性も大いにあった。
アリストンに来てからというもの、まるで大きなうねりの中で流されているように、全てが後手に回っていた。気を付けていても、気付けば状況が悪化しているのだ。だから、少しでも好機があるのであれば、逃したくはなかった。
逃せば最悪の流れから抜け出せない、確信染みた予感がクライスの背中を押していた。
そしてもう一つ、綱渡りの状況下でも無茶な選択をする理由があった。単純な話、クライスは一人でルードリッヒを仕留めるだけの自信があったのだ。
元々、内部に侵入して情報活動をする事を目的にしていた為、事前に城の内部設計や人員配置、戦力等の内部情報は、内通者から詳細に知らされていた。
戦力の比較が出来るだけで安心感は大分違うものだが、最大の理由は、自分の能力が暗殺向きだという事を熟知しているからだ。
常人を遥かに上回る脚力と、夜に紛れ人を操る魔導は、単独での拠点攻略において最高の力を発揮する。例え状況は違っても、やるべき事が過去に幾度となくこなして来た仕事と大差無く感じられている事こそ、確信の源であった。
ただ、ブラウニルの言うように、ルードリッヒを殺す事が果たしてあの少女を守る事になるのか、それが判断が出来なかった。
例えどんなに強力な力を持っていたとしても、一人の人間に出来る事は限られている。自分だけでは、化物は倒せても一人の人間すら守れないのだ。真新しい苦味が消えない今、誰よりもその現実を理解していた。
そして、その現実というやつは、常に人の予想を上回る厳しさを突き付ける。今行動する事で、何もかも失ってしまうかも知れない。死ぬよりも辛く、惨めな思いを抱えて生きなくてはならないかも知れない。
経験が執拗に忠告した。それでもクライスは前に進む事を選んだ。
体はまだ動く、思考も働いている、何より確たる意思がある。それだけで過酷な選択を強いるのに十分な理由になった。
例えこの行動が最悪の結末を迎えたとしても、流されるまま何かを失いたくはなかった。
自分の力で立ち向かい、掴み取る。多くのモノを失い続けて来た者にとって、それが『生きる』という事に他ならなかった。
「死んだ者の願いを叶える事に意味など無い。そして本来の任務からも逸脱している……だが、俺には守らなくてはならないものがある……!」
そう呟いたクライスが後に目にした光景は、予想を遥か超えたものであった。
それは異様な光景だった。
無数の炎が列を成し、うねりながら城へと伸びていた。炎の列は、後ろから前へと蠕動しており、一匹の蛇の如く振舞っていた。
列の最後尾は街を囲うように作られた外壁の外まで続いており、何処からともなく小さな炎が一つ、また一つと集まっては、巨大な尾に飲み込まれて行く。
巨大な炎蛇の正体は、サイラスの街の住人だった。松明を掲げた群集によって、街の主要な街路は埋め尽くされていた。
篝火の一つ一つは小さくとも、通りの建物の輪郭をはっきりと映し出す程巨大な炎となり、今や一個の生き物を模るまでに至っている。
そして、異様なのは光景だけではなかった。
風向きが変わると、人々の声が地を這うように響いて来た。その幾重にも重なった声色は、言葉という形を成さない。怒り、嘆き、悲しみ、不安、不満、そして狂気と、あらゆる負の感情が入り混じって出来た音の濁流だった。
驚いた事に、その音はゼノンの森でクライスの頭の中に響いたあの声と似ていた。脳裏に響く声ならざる声、その底知れぬ存在を連想してしまったが、直ぐに頭を振って眼前の出来事に目を向ける。
「何が起こっている……」
クライスは辺りより僅かに小高い丘から、サイラスの街全体を眺めていた。
虐げられて来た人々が、武器を手に体制に反旗を翻す。それ自体は、長い歴史の中で幾度と無く繰り返されて来た現象と何ら変わる事はない、ありふれた過程だ。逆に、このアリストンの状況で、今まで起きなかった事の方が奇跡だったようにも思える。
しかし、単なる偶然の産物としては、段取りが出来過ぎている。森での事件から此処にいたるまで、次から次へと事態が動き過ぎるのだ。
(何故、民衆は今、動いている?夜も明けない内から伝わるには早過ぎる……それに、貴族達が一掃されたからといって民衆が一斉に動く理由は何だ?)
アリストンでは、貴族が死んで悲しむのは、その飼い犬位だと言われていた。
その飼い犬が意味する所は、『飼っている犬とその手下だけ』である。両者の共通点は、餌を与えてくれる人間がいなくなると非常に困る事だ。転じて、本当の意味で悲しむ者は一人もいない、という辛らつな意味が込められてが、実際、貴族や王族の中には、富や権力を欲するあまり、家族の死を喜ぶ者がしばしば現れた。
程度はともかく、平民の中にも家族の死を厭わない者はいたはずだが、『貴族』という特権階級だけが槍玉に上がっている事からも、貴族と民衆の間には大きな隔たりがある事が伺える。
一般的な感覚であれば、貴族が十人死のうが百人死のうが何の変わりもない事なのだ。せいぜい、新たに領主となった貴族が過度な税を課す事のないように、と祈る位だろう。
にも関わらず、貴族達の虐殺を契機とし、刑罰も恐れず一個の意思となって進んでいるのだ。偶発的にしては、出来過ぎていた。何か別のベクトルが働いていると考えるのが自然だった。
――恐らく、トリスはこの国を根本から変えようとしていたからだ。
クライスは、ブラウニルの言葉を反芻していた。
最早、トリスの計画がどれだけ進行していたのか知る術はないが、もしかすると、これは彼の撒いた種が芽吹いているのかも知れない。森での出来事がなければ、この列の先頭にはトリスがいたかも知れないと思うと、皮肉な運命を笑うしかなかった。
「撒いた人間がこの世に居なくとも、残された種は育つ――か」
現時点では、粛々と行軍しているものの、いつ暴徒化してもおかしくない状態の民衆。そして、有力な貴族達を虐殺するという暴挙に出たルードリッヒ。沸点を超えた両者がぶつかるのは、火を見るより明らかだった。
この事態がルードリッヒの望んだ事か、それとも予期していなかった状況なのかは分からない。ただ一点だけ明確な事は、この混乱がルードリッヒを狙うのに好機であるという事だった。
クライスが軽く馬の腹を蹴ると、黒栗毛の馬は丘を一気に下った。長距離を走破した後だというのに、疲れを見せないその馬は、外門に向けて全速力で迫る。
しかし、外門には篝火を持った民衆が溢れ返っており、このまま進めば正面衝突は免れない状況だった。
「世話になったな、相棒。後は自分で走る」
言うや否や、クライスは馬を止める事なく鞍から飛び降りた。
普の人間であれば、全力で駆ける馬の背から降りようものなら、慣性の力に負けて地面に叩き付けられ、大怪我を負う羽目になるだろう。
そう、並みの人間であれば――
飛び降りたクライスの足が地に触れた瞬間、黒い皮のコートが弾かれるように、全力疾走中の馬の前に躍り出た。
薄闇の中を何かが迫る来る気配に気付いた者が、咄嗟に声を上げようとした時、視界から気配が消えて無くなる。
人々の遥か頭上――外門目掛け、クライスは跳躍していた。
その強靭な脚力によって、人々の目線を軽々と飛び越えるものの、それでも高さ8mはあろう外門は、余りにも高い壁だった。
勢い良く外壁に激突する直前、外壁に取り付けられたアリストンを象徴するオブジェ≪熊の像≫を蹴り付けた。
踏み付けられた像が脆くも落下するのと反対に、体は側面擦れ擦れを舞い上がる。そして外壁の縁に降り立ち、もう一度蹴り飛ばす事でサイラスの街へ侵入を果たす。
それは驚嘆に値する身体能力だった。片手が不自由な怪我人の動きと誰が信じるだろうか。
高い壁を軽々と超える瞬発力だけではない。重力を感じさせない軽やかな着地は、膝だけでなく身体全体で衝撃を殺さなければ成しえない。それに、あの高さから飛び降りた後にも関わらず、まるで無かったかのように走り出せるバネの強さは、人間離れしていた。
前を見やると、城へ至る道は人々によって埋め尽くされていた。老いも、若いも、男も、女ですら、その手に思い思いの武器を携え、ゆっくりと進んでいる。だが、疲れ果てた表情と呻きが支配する空気は、革命の時を迎えるというより、終焉の墓場へ向かう様相を呈していた。
(ここは流石に無理か……)
クライスが幾ら速く走れた所で、この生ける屍の群れを掻き分けて進むのは至難の業だった。
そこで、クライスは主要街路では無く、その脇道を選択する。
二周り以上細くなった脇道には、まばらに街の人間が歩いている程度だったが、街路に降った雪が両端に積み上がっていて、狭い道幅を更に狭めていた。どう見ても人がすれ違う位の幅しかない。
一人、二人はかわせても、いずれ衝突するか、人混みに捕まってしまう事は目に見えていた。城へ続く道という道は、全て埋まっているのだった。けれど、物理的に困難な状況でもクライスの足は止まらない。
確かに人の歩ける道は埋まっている。ならば人が歩けない道を進めば良いのだ。
道の脇に積み上げられた雪塊を駆け上がると、並列する二階建て建物に向けて跳躍した。屋根の縁を右手で掴むと、力技で一気に体を屋根の上まで持ち上げる。
クライスは人が歩く事の無い道――つまり建物の屋根の上を進もうというのだ。
当然だが、周囲を見渡した所で人の気配などない。そこには、薄く白化粧した屋根が綺麗に並んでいるだけであった。
しかし、誰もいないこの場が、走るのに適しているかと言えば、全く以てそんな事はない。
雪国に立てられる建造物は、屋根に雪が積もらないよう斜めに切り取った構造をしている為、平らな面など頂上の10cm程度しかなかった。しかも、そこに残された雪は凍り付いていて滑りやすくなっている。足を滑らせ踏み外そうものなら、10m下の地面へ叩き付けられる事が約束されているようなものだった。安全に進むには、一歩一歩足場を確かめながら、慎重に歩く以外手段が無かった。
だが、クライスは迷わず突き進む。
歩くだけなら、何もわざわざ屋根の上まで来る事はないのだ。大人しく下で肩を並べて歩けば良い。クライスの中に『走る』以外の選択肢等、初めから存在しなかった。
極端に狭くなった屋根の上を、クライスは全力で駆ける。
しかし、綺麗に舗装された道では無い。進行方向には早速、街路が隔てる足場の存在しない空間が待ち構えていた。
その距離、おおよそ6m。地上であっても大抵の人間には超える事の出来ない距離だ。しかも、着地点は片足程の幅しか存在しない屋根である。
限界線≪タイトロープ≫目掛け、黒いコートが翻った。
重圧を抱えて飛べば、虚空の見えざる手に掴まり墜落する。自棄になって飛べば、足場を外して屋根を転げ落ちる。だが、自分の体というものを知り尽くしてる銀髪の青年には、『自信』と言う名の翼が存在するのか――
欠けた月の下を軽やかに羽ばたく姿は、美しくすらあった。
そして寸分の狂いも無く目的地に舞い降り、再び駆け出す。何者も、その足止める事は出来なかった。
風を切って走り、幾度か空を舞うと、ついに目的の場所であった白亜の城を視界に納める。
耐久性を重視した煉瓦造りの城は、氷雪と同じ白色で塗り固められていた。一色に統一された美しい外観が月下に映えるが、その見た目とは反対に、この城は造形美よりも機能美を重視した設計がなされている事で知られていた。
一色に塗りつぶしてあるのは、雪を溶け込ませ、全体の形状を覚られないようにする為の工夫であった。また、城壁は水が流れる仕組みになっていて、侵略によって城壁が傷付いた所で、凍りついた水が一晩にしてその傷を埋めて、城の耐久性を上げる仕掛けが施されていた。
そして、城壁を囲うように張り巡らされた堀には、不純物を混ぜた凍らない水が張り巡らされており、簡単に城へ近寄らせなかった。
これらの仕組みは、他国からの侵略を想定した設計であったが、今は状況が違った。皮肉な事に、城を半包囲しているのは他国の兵士ではなく、アリストンの住民であった。
場内への唯一の出入り口である吊り橋が跳ね上げられている為、足止めされていたものの、先陣を切るだけあって、街で死人の様に歩いていた者達とは気骨が違っていた。
城の前で炎をくべ、手に持った武器を鳴らし、城内へ向け罵声を浴びせる。敵を挑発して、ねぐらから誘い出そうというのだ。
アリストンの一般市民が、立派な野戦を仕掛けていた。それは、神をも恐れぬ蛮勇か。それとも、無能なる王を打倒する聖戦か――
恐らく、そのどちらもが人々の胸の中にあるに違いない。アリストンの王ルードリッヒⅡ世は、自らにたてつく者は、例え肉親であっても容赦が無い。それが一介の民衆ともなれば、百人だろうと千人だろうと、きっちり絞首台に送り届けるだろう。
その場にいる者達は、全てを覚悟した上で蜂起していた。これまで耐え忍ぶ事しか知らなかった者達が、その深い眠りから覚め、初めて怒りの咆哮を上げるのだった。
ただ、気勢を上げる場外とは対照的に、城内は不気味な位静まり返っていた。見張りの兵が右往左往するも、暴動を鎮圧しようという気配が感じれなかった。少なくとも、遠目からはそう見えた。
「闇より生まれし仮初めの命、呪いにより固められし漆黒の翼よ――」
クライスは顔を隠すように右手を掲げ、古の言葉を紡ぐ。
周囲の闇より深い闇が集まり出すと、まるで悪魔の羽のように、飛ぶ事を目的としていない骨ばった形状に変化していく。
その魔導は、以前に森で上空のガーゴイルを倒す為に使ったのと同じものだった。
城門が民衆に塞がれている以上、掻き分けて進むわけにもいかない。よって、空から城内に進入する――
その能力を持つ者ならば、当然の選択に思える。しかし、今回は以前と状況が異なっていた。
城という巨大な目標は何処からでも見えるから、闇に紛れたガーゴイルよりは遥かに捉え易い。だが、現在のクライスの位置と白亜の城との距離は、前回の十倍以上の開きがあった。半端な理力ではたどり着けない距離だ。
しかも、そびえ立つ城壁が内部を覆い隠していて、降り立つ目星すら付けられない。低ければ城壁に激突死、高ければ墜落死が待ち受けていた。
「我が体となりて、空を従えよ――」
詠唱は更に続く。正しい言霊で形作られる理力は、一言で端折った時とは比較ならない程、力強く練りこまれていった。
闇で作られた骨に薄く膜のようなものが伸びていくと、柔らかな膜が次第に、鳥の羽ように整えられていった。
すると、急速に周囲の空気を巻き上げ出した。嵐の中心には、右手に形成された巨大な闇の翼。以前に作られたものとはまったく別物の、大空を舞う為の真なる翼だった。
「支配の漆黒翼!!」
右手の翼が、目の前の空間を薙ぎ払う。だが、何も起こらない。それどころか、魔導で束ねていたはずの風が嘘の様に消滅してしまった。
風鳴りの残滓だけが辺りを彷徨う。
一瞬の静寂が訪れたその次の瞬間、クライスの姿がその場から消えた――
否、消えたのではない。飛んだのだ。低い放物線を描きながら、物凄い速度で空を飛翔していた。
自分が飛んでいるはずなのに、まるで空を従え、あちらが近付いて来るような感覚に圧倒される。
風が、凶悪な牙となって襲い掛かって来た。
立ちはだかる風圧に対し、身体を一直線にする事でダメージを最小限に抑えていたが、全身を包み込むように形状を変えた支配の漆黒翼は、更なる暴力を求めて加速していった。
(相変らず……この技は…… )
余りの圧力に体が千切れそうになる。負荷が高くなり、目を開ける事もままならないが、しっかりと前を見定めなくてはならない。
何せクライスには、自分が何処に辿り着くのか分かっていなかったからだ。
支配の漆黒翼は、短い距離なら何とか直進させる事が出来たのだが、強い理力で編んだり、長距離を飛んだ経験が殆どなかったのだ。制御を手放さなければ、速度や進行方法の微調整が出来る事は知っていたが、それ以上の事は良く分かっていなかった。
そもそも制御が難しく、一度使うと連続して使う事が出来ない技の為、自由の効かない空に向けて使う事など、稀だった。まして、障害物の多い地上など考えた事すら無かった。
次々と雑念が湧き上るが、捕らわれる暇も無かった。魔導が発動してから、ものの数秒だったが、眼下にはアリストン城が迫っていた。
(くっ、軌道が、高い……)
一本の矢と化したクライスが描く放物線は、城内に入るには高過ぎた。このままでは城内どころか、内部の建物を超え、遥か彼方へ吹っ飛んでしまう。
(下がれ……)
理力の制御を試みるが、方向を変える気配も、勢いを止める気配も無い。
従う事の無い『支配の漆黒翼』が、術者の無能を嘲笑うかの如く、狂喜の声を上げた。
「下がれぇ!!」
クライスが全理力を開放すると一転、今度は制御が効き過ぎた。軌道は緩やかに下がる所か、急降下を始めていた。更に『止める』事を意識するが、目前には見張り台の屋根が迫っていた。
クライスは回避を諦め、前方に身体を回転させると、両足から煉瓦造りの屋根に激突した。
薄っぺらい屋根をあっさりと突き破るが、勢いは止まらない。見張り台に備え付けられた銅製の警鐘に突っ込むと、支配の漆黒翼の運動エネルギーを一身に受けた鐘は、ゴン――という鈍い音と共に、城内へ落下していった。
クライスは鮮やかに見張り台に着地すると、警鐘の行く末を呆然と眺めていた見張り番の男に、回し蹴りを浴びせる。体重を乗せた重い蹴りが顔面に吸い込まれると、男は一瞬にして昏倒した。
「アリストン城北西の見張り台か」
素早く頭の中に城の設計図を展開し、目標地点との最短距離を弾き出す。目指すは、ルードリッヒが居る可能性の最も高い、王の執務室だった。
螺旋階段を駆け下り、かび臭い廊下を走り抜け、出くわした衛兵を薙ぎ倒す。完全に気配を殺したクライスにとって、障害となるものは何一つなかった。
驚いた事に、場内は不自然な程静かだった。民衆の熱気が何処にも存在しない場内は、まるで何事も無いように眠っているようだった。先の鐘が落下した際の轟音にも、まるで気付いた様子もない。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
突然、静寂を割って女の悲鳴が上がった。
進行方向左手にある部屋の中からだ。扉が開かれており、中から複数の人の気配がする。やはり、表面上は静かなものだが、恐らく、何らかの変化が場内でも起き始めているのだ。
(……俺には関係ない)
続いた叫び声は、聞き取り難かったが、助けを求めているようであった。だが、クライスは走り去る事を決めていた。
扉の前を過ぎ去った時、部屋の中から人が飛び出して来た。勢い良く飛び出したせいか、躓いて地面へ転がり込んでいた。
見なければ良かったと思う――
振り返ると、仕事着をボロボロにされた若い女性が横たわっていた。格好からして、どうやらこの城の使用人の様だった。
その女の後を追うように、アリストンの鎧を着た男が三人ゆっくりと出て来た。
余りにも分かり易い構図にうんざりだった。面倒は嫌いなのだ。
「逃げてもどうせ他の奴にヤられて、ぶっ殺されんだから、大人しく楽しんでろって。なぁ?」
先頭にいる鬚面の男が、卑しい笑みを浮かべ、倒れている女に覆いかぶさる。
「あん?何だおめぇら、いつからそこに居やがった?!」
クライスの存在に気付いたもう一人の男が、当たり前だが、おかしな事を言う。その事実を理解するまで、クライスは数秒を要した。
(……お前ら?)
自分が走っていた廊下には、自分一人しかいなかったはずだ。だから、走り去る事を選択したのだ。だが自分の隣りに、いつの間にか人が立っていた。
人相の悪い男が「お前ら」と表現したのは当然である。間違いではない。全くもって正しい。だが、その正しさが、クライスには理解出来なかった。
「お前は一体……」
突如湧いて出た人物を見やると、どうやら女性のようだった。背を向けている為、顔は分らなかったが、髪が腰まで届く程長く、見たことのない空色をしていた。
また、廊下にある僅かな灯りからは分かり難かったが、女は体にぴったりと張り付いた肌の様な服を着ていた。そのせいで、華奢だが胸や腰周りの女性らしい豊かなラインが嫌でも目に入って来るのだ。
煽情的なのは、なにも強調された身体のラインだけではない。余りにも薄い生地のせいで、何も纏っていないようにも見えた。奇妙な服で強調された身体が、男達の想像力を余計に刺激していた。
これだけの条件が揃えば、女性としか見ようがないだろう。しかし、クライスにはその人物が女とは思えなかった。
その女に威圧感はない。それどころか、粗野な男達に捕まれば、折れてしまいそうな程華奢なのだ。にも関わらず、女に対する違和感が拭えない。女性的な外見よりも、疑問の方が大き過ぎた。
一体、いつからそこに居たのか。奇しくも、蛮行を働いている男達の最初の疑問に捉われていた。
「何だこの女?変な格好しやがって。俺達にやられたいってか?」
最後に部屋から出て来た鷲鼻が特徴的な男が、空色の髪をした女に向けて近付く。
「おいおい、あんまりオイタが過ぎると、後でリーダーにどやされるぞ」
鷲鼻の男は、本気で止める気の無い言葉を無視しして、女の肩を掴もうと手を伸ばす。
「止めろっ!!」
――何だ??
おかしな事を口走っていた。反射的に出た制止の言葉は、鷲鼻の男に向けたものではない。空色の髪をした女を止める為のものだった。
だが、クライスの制止が届くより早く、男の体は石壁に激突した。
「お前は違う……」
決して大柄ではなかったが、鉄製の鎧に身を包んだ男が、2mは離れた壁まで、一直線に吹き飛んでいた。激突の衝撃を殺し切れず、石壁にぶつかった体は、反作用で床に激突して止まった。
そして、地面に伏せた鷲鼻の男はそのまま身動ぎ一つしない。即死だった。
「な、何しやがった!てめぇ!!」
「おい、バズ!大丈夫か、おいっ!!」
一体何が起きたのか――
クライスには辛うじて、どうやって男が瞬殺されたのか見えていた。
それは魔導でも、特別な技でもない。信じられない事に、単なる裏拳だった。
恐ろしく早い拳が男の顔面を捉え、男の体は玩具のように吹っ飛んだのだ。まるで悪い夢を見ているようだった。
慌てふためく男達を余所に、今度は女の方から男達に一歩近寄る。
何が起こったのかまったく理解していなかった人相の悪い男が、女に向けて手を伸ばしていた。
――今度は蹴りだった。
不用意に近寄った男の脇腹に、女の回し蹴りが浴びせられていた。だが、果たして『女の蹴り』と称するのは、正しい表現だろうか。
その一撃を喰らった男は、一人目と同様に、反対側の壁まで吹き飛んでいた。鉄製の鎧が溶けた飴細工のようにひしゃげ、胴体が有らぬ角度で二つ折になっていた。誰がどう見ても即死だった。
「お前も違う……」
城の使用人を組み伏せていた男も、流石に何が原因で二人が死んだのか察し、降ろしたズボンをそのままに逃げ出そうとした。
逃げる獲物を捕まる為か、女が初めて構えらしい構えを見せたその時――
「止めろ……」
背後からクライスの長剣が、女の首筋伸びていた。
その事に気付いているのか、いないのか。女はすっと振り返る。
小さな明かりの下に、髪と同じ空色の瞳をした少女の顔が浮かんでいた。その表情には、二人の男を瞬殺した事に対して、何の感情もない。そして、銀の刃が首筋に触れそうになっている事さえ気にも留めていない。
唯、青空のように透き通った瞳がそこにあった。
ロザリアに勝るとも劣らない大きな瞳と、端正な顔立ちの少女には華があり、あの人間離れした攻撃を繰り出した張本人とは思えない。
だが、この少女が二人を葬り去ったのは紛れも無い事実だった。
その証拠に、剣を突き出して優位に立っているはずのクライスの方が、緊張感に縛り付けられていた。無防備なはずの相手を前に、全身の神経が張り詰め、心臓の鼓動が早まる。余りの重圧に、いっそ斬り付けてしまいたかった。
「お前が……私を呼んだのか?」
「……?」
言葉の意味が分からなかった。当然の事ながら、クライスは呼んだ覚えがない。そもそも初対面のはずだった。初対面のはずだが、またも違和感が頭を掠めていた。先ほどの違和感とは違う、どちらかというと既視感に近い感覚だった。
しかし、一瞬でも気を逸らせば、殺されるのは自分の方だ――その恐怖が思考を縛って、柔軟な発想を奪っていた。
(……何処かで、会った事があるのか?いや、違う。どこも似てなどいない……)
――ねぇ貴方、名前は何て言うの?
不意に、遠い昔の記憶が蘇る。星の瞬きよりも速く駆け抜ける思い出達。
「お前の名は、何と言う?」
凛とした声が響くと、その記憶をなぞる様に、その言葉が胸の内に広がった。
どう答えるべきか考える前に、『あの時』何と答えたか考えていた。記憶の砂底に埋もれた痛みが、忘れたはずの痛みが、胸の内にぶり返していた。
「……クライス=デュー」
「クライス……?」
クライスは、何時かの出会いと同じ様に自分の名を告げた。対する少女は、その名を不思議そうに呟いた。
長い前髪の間から除く双眸が、泰然とクライスの表情を眺めていた。長い睫毛を瞬かせ、白い吐息が宙に消える。何かを考えている仕草は、何処か幼い子供のようだった。
突然、少女が一歩前に出た。
――――くっ!
気配の無い動きに意表を突かれ、クライスは慌てて剣を逸らす。剣を引かなければ、首の皮どころか肉まで裂けそうな位、不用意な動作だった。
予想だにしない動きによって生まれた一瞬の隙。その刹那に、二人の間は零距離となっていた。
(何っ!?)
少女はクライスのように人間離れした速さで動いた訳ではない。『虚』を衝く事によって、クライスが反応するよりも速く動いたに過ぎない。だがクライスには、信じられない速度で動いたように感じられた。恐ろしいまでに無駄の無い身のこなし、そして絶妙な間の取り方。共に最高域の『技』が、そう見せたのだった。
決してその可憐な外見に油断していた訳ではない。奇妙な気配に対して十分な警戒をしていたのだ。これが卓越した暗殺者だとしても、これ程容易に接近を許したりしないだろう。
しかし、器の中に秘めた能力が別次元のものだと、誰が予想出来ただろうか。クライスの腕が未熟なのでは無い。唯、相手が悪かったのだ。
(化物、め……)
互いの息遣いが聞こえそうな距離で、二人の視線が再度交錯する。
この距離では長剣が振り回せないだけでなく、左手が使えない分、手数でも劣る。反対に、一回り小柄な相手にとっては、やや密着し過ぎているが、必殺の膂力を振るうのに優位な位置であった。
最悪の結末が頭の中を一色に染め上げると、頭から血の気が一瞬にして何処かへ押しやられた。きつく胸を締め付ける心臓を取り外してしまいたかった。
――動けない。動けば殺される。だが、動かなくても殺される。
頭と心が雁字搦めに縛られ、頭の中が真っ白になっていた。唯一、兵士として本能だけが、生き残る為の答えを出していた。
――――――前へ!前へ!前へ!前へ!
当身で押し飛ばせ!距離を取れ!そのまま振り切って逃げろ!
本能が導くまま、反射的に行動に出た。膝を曲げながら重心を倒して一歩踏み出すと、左肩に全体重を乗せ、小柄な体に激突させた。
当身をした場合、普通は体重の勝る方が相手を動かす事になる。ほぼ零距離ではあるものの、強靭な下半身のバネによって生み出された加速により、飛躍的に威力を高めた当身。まともに喰らった細身の少女は、軽々と吹き飛ぶ――はずだった。
だが実際は、まるで地面に根を生やしているかの如く、微動だにしていない。その鮮やかな空色の髪を揺らすに過ぎなかった。
気付けば、目と鼻の先に大きな空色の瞳が飛び込んで来た。潤んだように輝く瞳には、情けない程目を見開いた自分の顔が映し出されていた。
「クライス……クライス=デュー」
薄桃色に色付いた唇から、僅かに白い歯がこぼれる。笑顔と呼ぶには小さ過ぎる変化だった。
互いの身体を密着させ、鼻の先が当たりそうな距離で小さく咲く美しい表情に、流石のクライスも戸惑いを隠せない。
「……お前は一体、何者だ!!」
「私は、私以外の何者でもない……お前が見る私、それが私の全てだ」
「ふざけるなっ!!」
相手の底が見えない恐怖に駆られ、逡巡する事なく右膝で少女のわき腹を狙う。そのまま食い込めば、間違いなく粉砕された肋骨が内臓に突き刺さって即死だ。
しかし、その全力の膝蹴りでさえ、容易く脛でブロックされる。受けた骨ごと砕く勢いだったが、衝撃を完全に殺されていた。
(砂でも詰まっているのか、この女は!)
我を忘れ、剣の柄で頭部を砕きにいくが、今度は相手に届きもしなかった。
何と、振り下ろす前に腕を掴まれていたのだ。どれ程力を入れてもそこから先へ動かす事が出来ない。振り解こうと顔を歪ませるも、ピクリともしない。
一方の少女は、涼しげな表情を揺らす事なく、しげしげとクライスの顔を眺めている。まるで子供扱いだった。
(こいつ……舐めるなよ!!)
クライスの右腕へ理力が急激に集約されると、指先から腕に至るまで、表皮の血管が紅く輝き出した。
次の瞬間、微動だにしなかったはずの右腕が、徐々に相手の膂力を上回って動き出した。
理力を筋繊維に溶け込ませ、本来人間が眠らせている力を強制的に開放する魔導『負力発動』は、呪人形の鋼線を自身に応用した魔導だ。
理力によって引き出された膂力が、小さな頭をカチ割ろうと殺意を剥き出しにする。
少女の細腕が徐々に下がり始めると、寂しそうに空色の瞳が細められる。
「クライス……私が憎いのか?」
――まるで頭を鈍器で思いっきり殴られたような気がした。
遠目からは分からない程の変化だったが、微かに揺れる瞳が訴えかける悲しみと、受け入れられない事に対する失望。微かな表情の変化に過ぎないのに、冷や水を浴びせられたように客観的事実が突き抜けていった。
目の前いるこの少女は一体何なのか――
人なのか、それとも別の何かなのか――
倒すべきなのか、引くべきなのか――
何より、状況に流されたまま、少女をぶち殺そうと必死になっている自分は何なのか――
相変らず答えなどなく、こうなるとクライスにも訳が分からなった。そもそも、初めから何も分かっていないのだ。考えるだけ無駄だと気付くと、初めて本心を吐露するのだった。
「俺は、お前が恐ろしいだけだ……」
恥も外聞も無い独白だったが、受け止めた少女が嘲る事はなかった。ただ、理解の色が広がっていったのだった。
「私はお前を傷付けはしない……私は、お前を――」
少女が何かを伝えようとした時、その身体が突然、蜃気楼のように歪む。
すると、拮抗していた腕が、触れ合っていた身体が、すり抜けてしまった。
クライスはバランスを崩しながらも素早く辺りを見渡すと、背後に空色の長い髪を見つける。少女は自分の掌を見詰めていた。
「まだ、不完全なのか……」
「もう一度聞く。お前は一体、何者だ」
「クライス、早く此処から離れたが良い。そして可能な限り遠くへ向かえ。此処は直ぐに無へ還る……」
問いを無視して告げた言葉は、クライスの想像力の範疇を遠く飛び越え、まるで引っ掛かりもしなかった。漠然とした警告の理解に苦しむクライスを横目に、少女は踵を返し、長い髪が翻った。
自然と、優雅に描く曲線を目で追いかけていた。
しかし、舞い上がった空色の髪が、ゆっくりと流れ落ちようとした時、何の前触れも無く、その姿が消滅した。
高速移動した気配も、何かの魔導が発動した気配もない。あたかも、その存在自体が無かったように消えてなくなる様は、まさに消滅という言葉が相応しかった。
「なっ……」
呆気に取られ、再度辺りの気配を探るものの、女の気配は何処にもなかった。
唐突に現れた存在。長い髪。自分の能力がまるで通じない化物。艶かしい格好。死の恐怖。空色の瞳。美しい女。悲しそうな顔。消えそうな微笑。唐突に消えた存在。残された警告。再会の予感。
散在する記憶をかき集めながら、クライスはしばし呆然と立ち尽くす。緊張感から解放されたはずだが、見えない鎖で縛られているように、その場から動けなかった。
進む先にあんな化け物がいると思えば、誰だって立ち止まるだろう。背を向けて走り出さないだけで、勇敢だとも言える。だが、クライスは自分の不甲斐無さを呪わんばかりの表情で、手近にあった壁を力一杯殴り付けた。
「うおぉぉ!!」
雄たけびと共に、負力発動で開放されていた膂力が、岩石で出来た壁を砂塊の如く粉砕する。
「ひぃっ!!!!」
足元から情けない声が届く。逃げ損ねた使用人の若い女だった。
こちらを見上げていたが、今の自分は酷く情けない面をしているに違いないので、顔も向けずに話し掛けた。
「此処は危険だ、早く逃げろ。直ぐに街の人間が雪崩込んで来るぞ」
「い、い、一体どうしたら良いのでございますか~?騎士様……」
こんな状況だと言うのに、やけに間の抜けた喋り方をする女だった。本人に悪気はないのだろうが、唯でさえ苛立っている気分が下がる一方だ。
「俺は騎士なんかじゃ――」
違う。今はそんな事など、どうでも良かった。今はこの先に進む事が最優先なのだ。何とか溜飲を下げると、自分を落ち着けながら話し出す。
「……まずはその格好を何とかしろ。襲ってくれと言っているようなものだ。それと、着替えは街の者が着ているものにした方が良い」
コーデリアと名乗る使用人の女が部屋の隅で着替えている間、クライスは外の様子を伺っていた。耳を澄ませると、遠くから人々の叫び声や雑音が聞こえて来た。城内で別の騒ぎが起きているのだ。
外の群集が侵入を果たしたのか、それとも内部で工作員が暗躍しているのか、どちらにしても事態は切迫している事に違いはない。
この勢いのまま、ルードリッヒが失脚すればそれに越した事はないが、最悪なのは、取り逃がしたり、反撃にあって悪政が続く事だ。
ルードリッヒの王権が長く続く可能性は低い。しかし、その間にロザリアが狙われないとも限らない。その時、自分が守り切る自信も無かった。やはり、現段階で最良の方法は、自の手で片を付ける事だろう。
改めて目的の整理が出来た所で先に進みたかったが、着替えを待つ約束をしてしまった為、足止めをくらっていた。城に入るまでどんな障害も乗り切ったが、こんな所で止まる事になるとは想定外だった。
成り行きとは言え、助けた本人を前に切り捨てる事が出来なかった。構っている時間などないというのに、その弱さがフラストレーションとなって返って来る。病気もしたことが無い胃が、ちくりと痛んだ。
「あの~騎士様……」
「だから俺は騎士なんかじゃ――」
話しかけて来たコーデリアの方を向いて、クライスは絶句する。あろう事か、破れた服の代替としてレースのカーテンを体に巻き付け、ドレス調に仕立てたうら若き乙女がいた。
右肩から掛けるように流れる生地に合わせ、結んでいた茶色の髪を前に流した姿は、まるで花嫁姿だ。ゆったりと着付けているせいか、胸元がやけに開きっぱなしになっている。おまけに、両手を組み合わせた姿勢をしていた為、豊かな谷間が更に強調されていた。
「私にとって~貴方様は、立っ派な騎士様です。助けて頂きありがとうございました~。この御恩は一生……一生、忘れは致しません~」
「大袈裟だ。大した事じゃない……」
コーデリアは垂れた茶色の瞳を潤ませ、心の底から感謝を告げるのだが、クライスは見てはいけない予感がしてそっぽを向きながら答える。
「いえいえ~大した事です~」
クライスの向いた方へサササっと移動すると、再び決まったように強調のポーズを取る。クライスは、更に別の方向を向くが、コーデリアの更なる追撃と決め技に、回避を諦めた。
「……………………」
「……………………」
盛大な沈黙が、二人の間に流れた。
このおっとりした女は、どういう神経をしているのだろうか。あろう事に、生き残る事よりも洒落込む事を選択し、あまつさえ、クライスの苛立ちに塗れた顔を前にして、ニコニコと穏やかな笑顔を浮かべていた。
何かを期待して待っているように見えるのは、果たして気のせいだろうか。
「俺はこの先に用があるから、アンタは一人で城の外へ逃げろ」
面倒事が増える前に、クライスは非情な先制攻撃を仕掛ける。
「ご、御無体な~この格好で何処に行けというのですか、襲われてしまいますわ~?!そ、そ、それに私は、何の力もない女で御座いますのよよよぉ??」
(よよよぉ??…………)
その格好はお前が選んだのだろう――と、クライスは突っ込まなかった。
全てはこの女なりの、生き残る為の策なのだ。見た目に寄らず、あざとい方法に出たのも、見知らぬ男達に襲われた恐怖を味わったからだろう。弱い者は、どんなときだって誰かに精一杯すがるしかないのだ。やや演技掛かったオーバーリアクションも生きる為なら、と理解も出来た。女の方が、一枚も二枚も上手だったのだ。
それでも、やや願望染みた想像がクライスの中に湧き上がる。
――――どうか天然でありませんように、と。
「…………」
「…………」
クライスが今後の方針を決めかねた為、痛々しい沈黙が再び流れる。
「で、では特別出血大サービスですわ~!騎士様に守って頂けるのなら、私、喜んで一肌脱がせて頂きます~」
(もう駄目だ。これ以上相手にしていたら、何をしに来たのか分からなくなる……)
何故か嬉しそうに脱ぎだそうとするコーデリアの姿を見て、クライスの心は一気に固まった。
この女の図太さがあれば、きっと生き残れるだろう。そうに違いない――
何の根拠も無い推察に対して不思議な程納得すると、あれだけ後ろ髪引かれていた心が、晴れ渡る空のようにすっきりしていた。
クライスは何の心置きも無く踵を返し、走り出した。
コーデリアはパタパタと足音を立てながら、クライスに付いて来ようとした。しかし、本気で走っているのだろうか。
その余りにも遅すぎる、子供のような足取りでクライスの速度に付いてこれるはずもなく、一瞬にして引き離されていた。
何かを叫んでいるようにも聞こえたが、多分、空耳だろう。
クライスは、王の執務室を目指して走る。その足取りは嘘のように軽かった。心の底に溜まっていた重りが、幾分か軽くなっていた。
理由は分かっている。それが、コーデリアのお陰だと言う事を。
回廊を走りぬけ十字路に差し掛かった時、進行方法とは反対の位置に人の気配がした。姿も見られていない今なら、十分無視する事が出来た。
――面倒は嫌いだ。
「……だが、後悔するよりはマシだ」
ぼそっと呟くと、クライスは本来の進路とは反対方向に向け、疾走した。
コーデリアを置き去りにして数分後、記憶している城の設計図を頼りに、王の執務室入り口に辿り着こうとしていた。
(ここを曲がれば、ルードリッヒまで一直線か)
クライスは壁に背を預けながら、最後の戦いに備えて素早く呼吸を整える。
(資料の上では、出入り口は一箇所しかない。物量が物を言う本来の戦争ならチェックメイトだが、現状の戦力は俺だけだ。待ち受けられてしまえば中で袋叩き、どうする?)
先刻までのクライスならば、感情に任せて奇襲を仕掛けたに違いないが、コーデリアの影響もあってか、大分冷静になっていた。これまでの状況を踏まえ、これからの展開を予測する余裕が生まれていた。
(執務室は奇襲を想定した造りだ、玉座までの距離がやたらと長いから、仕掛けた所で目標に手が届くまで最低でも数人は相手にする可能性がある。ルードリッヒの周りが人で固められるとやっかいだ……最悪、無関係の奴等も纏めて殺さなくてはなら無いか)
クライスは利き腕で剣を持てなくなってからこれまで、人を殺した事がなかった。誰も殺すつもりなんてなかった。誰も殺さなくても良いと喜んでいた。
当然、森に入る前に覚悟していたはずだった。けれど、森の中では敵を殺す事が出来なかった。相手が子供だったからじゃない。単純に、人を殺す事が怖かったのだ。
一度外れた心の楔が、元に戻る事は無いと知っていた。そして、人殺しの中で再び自分を見失っていく事を恐れていた。
だが何より、その行いの果てに、遠ざかる理想が本当に砕け散ってしまう気がしたのだ。
――――誰も傷付かない世界。
罪に塗れた自分は、その理想を掴む資格などない。
過去は消す事が出来ない。どれだけ願っても、奪って来た命は戻らない。
剣を持つ手を変えた程度で、何かが変わる訳ではない。
それでも、諦め切れなかった。自分で自分の夢を壊す事が出来なかった。
その甘さが、未だ剣に縋り付いているにも関わらず、『誰の命も奪わない』などという矛盾を作り上げた。
そして、そのお粗末な覚悟の代償がトリスの『命』であり、ロザリアの『幸せ』だった。
失い続けて、恐れ、躊躇い、また失敗を繰り返した。
もう、迷う事は許されない――
頭の中で戦況の流れを素早く展開させると、後は自分ら仕掛けるか、状況が分かるまで待つべきか、二択に絞り込まれた。
クライスの決断は、『様子見』だった。
中の状況も分からず飛び込むのはリスクが高過ぎる。運が良ければ、城内の騒ぎが飛び火して隙が生じるかも知れないのだ。飛び込む直前迄、情報収集に努める事が最善だった。
一抹の不安があるとすれば、中に敵が待ち構えている事ではない。ルードリッヒが騒ぎを聞き付けていて、既に城外へ逃走しているケースだ。
可能性は十分にあった。何故なら、城に入ってから此処まで、城内の混乱が少な過ぎるのだ。
出会う兵達は皆、何が起きているのか把握している様子がなかった。状況の変化に対応する為の警戒すらしていなかったのだ。
そうなると、ルードリッヒにも外部の情報は伝わっていない可能性が高いのだが、考えようによっては、掴んだ情報を敢えて知らせず、城内の人間を餌にしたのやも知れない。
民衆が束になって襲い掛かって来た時、反撃せよ、と命令されて無辜の民を虐殺しにいく兵士が、今のアリストンにどれだけいるだろうか。下手な命令を出して兵士や側近に裏切られる可能性があるなら、時間稼ぎに使った方が、ルードリッヒとしては安心だろう。
他にも幾つかの可能性が考えられたが、全ては可能性の範疇でしかない。今大切な事は、いち早く正確な情報を掴む事だ。
背にした壁の際から様子を伺うと、クライスを誘うような橙色の光が、奥の扉から漏れていた。
その光を見た瞬間、クライスは最悪のケースが的中してしまった事を覚る。しかも、見張りの兵すらいないとなると、恐らくあの中にルードリッヒはいないだろう。
当てが外れてしまった為、次の潜伏場所を予測していると、凍った風に乗って嗅ぎ慣れた臭いが漂って来た――血の臭いだ。
思い掛けない情報に、先ほどの予感が反転する。開きかけていた重い扉を押しやると、中から咽かえるような血の臭いが、襲い掛かって来た。
広い部屋の中に立ち込める強い血臭が鼻腔に広がると、嗅ぎ慣れていたはずなのに、思わず嘔吐しそうになった。漂う臭いの密度が桁違いなのだ。
ダンスパーティーが開ける程広い空間には、四本の支柱が備え付けれていた。その巨大な支柱を初めとし、至る所に金や銀の細工で豪奢に飾り付けがされた部屋は、社交場としても立派に機能しそうな位、立派なものであった。
だが、その華美な装飾が霞んで見える大量の血痕。大理石の床だけではない。壁にもべったりと付着しており、部屋に真っ赤な花を添えていた。
血の海とは、正にこの事だろう。これだけ大量の血が何処にあったのか、そう思わせる光景だが、床に転がるその源を見れば、納得せざるを得ない。
大理石の床には均等に配置された元人間の、悪趣味なオブジェが転がっていた。全身を覆う銀色の甲冑を赤と黒に染め上げた不気味なオブジェ。その正体は、アリストンの騎士達だった。
皆、巨大な刃物で貫かれたように、鎧ごと身体を切断されていた。ある者は頸部を、またある者は、胴部や大腿部を引き裂かれていた。一様に殺されたのではなく、一人一人で異なる貫かれ方をしていたのだ。
その切り口といい、配置といい、一体どうすればこんな死体の山が出来上がるのだろうか。
地獄絵に目を奪われていたクライスが、部屋の奥、周囲より数段高くなった玉座に目をやると、そこには予想外の人物が座していた。
玉座には、天蓋から光が降り注いでいた。絵画等で神や天使が描かれる際の効果として後光が多用されるが、それを現実に応用し、支配者としての権威を演出をする為の仕組みだった。
未だ夜が明けていないにも関わらず、神々しく照らされたその絶対権力の座には、予想外の人物≪ルードリッヒ≫が座っていた。
空間の異常振りも合間って、ルードリッヒを見た瞬間、クライスは思わず剣を構えていた。
その様子をルードリッヒは、俯き加減に笑っていた。
天蓋から照らす光によって影が濃くなっていた為、表情は見えず、その笑みにどんな意味が含まれているのかは伺い知れない。だが、この状況下でも笑っていられるのだ。この惨劇の元凶が誰なのか、問うまでも無かった。
よって、クライスは用件だけを手短に告げる。
「ルードリッヒ、お前を殺しに来た」
小声ではあったが、静寂に包まれた部屋の中では、十分に端まで伝わった。
クライスの凛とした声には、本物の殺意が込められていた。身を護る兵士のいない状況下で冗談には聞こえないはずだったが、何処にそんな余裕があるのか、ルードリッヒはその薄ら笑いを止めない。
(……この空間に存在するものを皆殺しにする魔導でも用意しているのか?それとも別の人間がいるのか?だが――)
クライスは、相手の言葉を待たない。瞬時に右手の支柱まで移動し、回り込みながら壁際を駆ける。今までと変わらない所ではない、これまでで最高の速さを叩き出す。
視界に納めるもの困難な速度でルードリッヒへ肉迫するクライス。ルードリッヒはその動きにまるで反応していない。
ルードリッヒがどれだけの罠を仕掛けようと、目標を見定めずに作動させる訳にも行かない。圧倒的速度で先を取り、相手の選択肢を封じたのだ。
クライスはその前傾姿勢から壇上のルードリッヒ目掛け、神速の突きを繰り出す。
目標へ目掛けた最速の動作に最短距離の技、目にも留まらぬ早業を防げる者など、いるはずがない。神速剣がルードリッヒの心臓を突き破る――はずだったが、銀の刃はルードリッヒの心臓から外れてしまった。それどころか、体にも触れてもいなかった。
『突き』の姿勢を保ったまま、クライスは驚愕の表情を浮かべていた。
驚くべきは、自分の剣がルードリッヒに届かなかった事に対してではない。
――ルードリッヒが、既に死んでいる事に対してだった。
剣が狙いを逸れたのは、技を繰り出す瞬間にその事実に気付き、咄嗟に外した為だった。
天蓋から当たった強い光によって、細かな様子が掴めなくなっていた事も一因だろう。近寄っていても、その口元だけを見ると、薄ら笑うルードリッヒが、生きているのか死んでいるのか分からなかった。
しかし、ルードリッヒは確実に息絶えていた。
胸には後ろの景色が見える位、巨大な傷口がばっくり口を開け、纏った白い上着には、赤一色に染め上げる大量の血痕が残されていた。どう見ても即死だった。
ぐらり、とルードリッヒの体がよろめくと、全身が背もたれから雪崩れ落ち、膝から地面へ着地していた。
「何、だと……?」
ゴトリ、という音と共に、頭部が玉座へ座っていた。その血の気の無い顔には、以前に森で見た薄暗い双眸は無い。その代わり、真っ黒な空洞が出来上がっていた。そこに在るはずのものが、無いのだ。
――――二つの眼球が、無くなっていた。
無くなっていたものはそれだけではなかった。他にも右手の手首より先が、綺麗に切り取られている。残忍、残虐を通り越した狂気の所業というしかなかった。一体、誰がこんな真似をしたのか――
――――お前も、死神だ
深い闇を湛えた眼窩がこちらを見詰め、語り掛けて来るような気がした。
「……ルードリッヒ、お前が黒幕じゃないのか?」
クライスは物言わぬ死体に向けて呟くが、返事は無い。
「騎士様~どこに~いらっしゃいますのですか~?」
緊張感の欠けた独特な声色が、遠くから聞こえて来た。コーデリアの声だった。
調度良い、この惨劇を目撃すれば少しは大人しくなるだろう――とは、流石のクライスも思わなかった。戦場に慣れ親しんだクライスでさえ、一秒でも早くこの場から離れたかった。一般の者が目にするには、些か刺激が強過ぎるだろう。
「騎士様ぁ~あら??」
「だから、俺は騎士じゃないと言っているだろう」
コーデリアが灯りに誘惑される虫の如く部屋の中に入ろうとした時、クライスの手がその視界を塞いだ。
「では何とお呼びすれば~よろしいのでしょうか~?」
極端に鈍いのか、それとも大物なのか。突然、視界を塞がれてなおコーデリアの調子は変わらなかった。
「クライス、でいい」
「では、クライス様~そろそろこの手をどけて頂けないでしょうか~?何だか血生臭くて、口を塞ぎたいのですが~?」
「塞げばいいだろう。アンタの手は空いている」
あら、と納得するとコーデリアは、両手で鼻と口を覆い隠す。
「……くはぃすしゃま、へのひょうふぁほけふぇくまふぇんもふぇすは?」
何と言っているのかまったく分からないが、何を言いたいのか分かってしまう自分が恨めしかった。この空気に頭が毒され無い内に、コーデリアを部屋の外へ連れ出す事にした。
「そうですか~王様が……」
「もう此処には用は無い。アンタを外に連れて出してやる」
拍子抜けする事態だったが、クライスの目的はルードリッヒとの因縁を断ち切る事にあった。その本人が、何者かに殺されていたとしても、それは別の問題だ。
一体何が起こったか気になる所ではあったが、時代の変革が決定的となった今では、特に言及するつもりも無かった。
「本当ですか~助かりました!……でも意外でした~。王様の事ですから、秘密の部屋に~お逃げになるかと思いましたのに~」
「……何だと?」
思い掛けない一言にクライスの足がピタリと止まる。
「さぁ、では参りましょう~この場に居たら、臭いが服に移ってしまいます~さぁさぁさぁ~」
「今、何と言った?」
鼻歌でも歌い出しそうな位上機嫌のコーデリアだったが、はっとした表情で口を噤む。その顔には、『私~余計な事を言ってしまいましたわ~』と、書いてあった。
「何の事でございますか~?私、この先に秘密の部屋が有るなんて、一言もお伝えしていませんが~??」
「…………」
――――此処で相手の調子に合わせてはいけない。
歴戦の兵士であったクライスは、短いやり取りの中で、相手の常套手段を分析し終わっていた。敵の戦略は見抜いているのだ。
恐らく、わざと墓穴を掘って何かとてつもなく、あくどい罠へ誘い込もうという魂胆だろう。こちらが攻めれば攻める程、相手は逆撃に出やすくなる。咄嗟に出そうとした追撃を止め、待ちを選択した。
クライスの明緑色の瞳が、真っ直ぐにコーデリアを見詰める。全てを受け入れる覚悟を決めた真剣な瞳だった。一方のコーデリアといえば、茶色の瞳が右へいったと思えば、今度は反対方向へと忙しなく泳いでいた。
時折、恥ずかしそうに目を伏せたり、僅かに頬を赤く染める仕草に違和感を覚えつつも、クライスはコーデリアの回答を待った。
だがこの場合、待ってしまった、と言うべきだろう。迂闊な銀髪の青年は、先刻の過ちを繰り返そうとしていた。
女は、外見と中身が別次元である可能性がある――
その事実を忘れ、ひたすら待ちを続けてしまったのだ。彼女の中で、大規模な論理の歪曲が起きた上に、屈折現象を経て、相転移し、別次元の解釈に辿り着いていたとも知らずに。
クライスは、頭の中を真っ白に、いや桃色に染めた乙女の力を軽んじていたのだ。
瞳を潤ませ、息を荒げるコーデリア。その姿は最早、無垢なる乙女などでなく、妄執に取りつかれた狂信者であった。
「こここ、こ、こんな時に……ク、クライス、様~。責任を、取って頂けるので御座いましょうね~??」
「?……ああ、正直に言ってくれ、何があっても俺が責任を持つ。この命に代えてもだ」
あくまで真剣なクライスの言葉に堪え切れなかったコーデリアは、ふゅ~、という空気が抜けるような声を出して地面に倒れ込んでしまった。
「おい、どうした!しっかりしろ!」
気を失いかけて唸るコーデリアを片手で抱き上げ、器用に頬を軽く叩く。熱が出たのか、顔が真っ赤になっていた。
「おいっ!寝るのはアンタの自由だが、秘密の部屋とやらが何処にあるか話してからにしてくれ!」
「く、クライス~…………様ぁ。玉座の、後ろ……壁が消え……奥、に~……」
「……その奥に?」
コーデリアは更に息を荒げ、甘い吐息を吐き出す。苦悶の表情を浮かべながらも、そこには恍惚の色が隠しきれず滲み出していた。
断片的な言葉には、一体どんな過去が秘められているのだろうか。そもそも、何故そんな事を知っているのか。謎めいた台詞に、聞き手の方にも思わず力が入る。
「――――私達の……新居が~……ふふふふ」
寝ぼけているのか、笑いながら口をモゴモゴさせる様は、実に不気味だった。
絶句したクライスは思わず、抱き上げた手を解きそうになる。だが、急病人を床に叩き付ける訳にも行かず、そのまま持ち上げて、血の臭いの充満する部屋の済みに置いた。
「殺されるよりはマシだろう」
部屋の外で見付かるよりも、部屋の中で死体に紛れていれば、生き残る可能性は高くなる、そう見込んでの処置だった。
だが目覚めた時、天国から地獄へ突き落とされた亡者が、英断を下したクライスに感謝するかどうかは、蓋を開けてみなければ分からない顛末だった。
コーデリアの言葉を鵜呑みにする訳ではなかったが、今はそれ以外の情報が無い為、取り合えず調べるだけ調べる事にした。
まずは、玉座の後ろ調べたものの、取りたてて何か重大な仕組みがあるようには見えなかった。至る所に触れてみるが、何の反応も示さない。
「理力に反応する仕組みか?」
手に理力を集めて触れてみる。だが、玉座は何の反応も示さなかった。
本当にそんな仕掛けがあるのか疑わしくなった瞬間、コーデリアの、あの何とも言えない不気味な表情が、焦げ付いた記憶のように鮮烈に蘇った。
すると、クライスは何かがとり憑いた様に立ち上がり、反転して奥の壁に向き直った。今度は二つ目のキーワードである『壁』を調べようというのか。
そして一歩前に左足を運ぶと、右足を軸にして膝を回転させる。同時に腰を捻り、流れる様に左上半身を開くと、最後に左足を玉座に向けて真っ直ぐに伸ばす。
――要は、クライスの後ろ回し蹴りが、玉座を強襲した。
かわす事の出来ない玉座は、その常人離れした蹴りをまともに受けて、一直線に吹き飛んだ。
おまけに、寄り掛かっていたルードリッヒの遺体がそのとばっちりを受け、前方の血の池へ着水していた。
「良し。体は錆びてないな」
クライスは、分かりきっている自身の状態を改めて口する。ずっと曇りがちだった気分が、少しだけ晴れ間を見せていた。
すると、その心象と同調するように、奥の壁の一部が競り上がっていった。
コーデリアの言の真相は定かではないが、隠し扉は実際に存在したのだった。
「…………」
少しだけ複雑な心境となったクライスは、改めて気を引き締める。
隠し部屋が存在するにも関わらず、利用する事なくこの世を去ったアリストンの王。それが一体何を意味するのか、薄暗い回廊を歩きながら考えを巡らせていた。
だがその道は、思いの他短かった為、答えを導き出す前に行き止まりとなってしまった。
「……転送魔導か」
回廊に比べ、僅かに空間の開けた部屋の中は、複雑に絡み合う幾何学的な文様と古代の文字で埋め尽くされ、薄紫色の光の粒が舞い踊っていた。
部屋全体に溢れる光は、理力がこの空間で飽和している事を意味していた。術者が居なくとも、魔導要素で構成されたこの部屋自体が、魔導を発動しているのだ。
光の乱舞に目を奪われるが、部屋の中央に浮かぶ物体を見つけると、これまでバラバラだったパズルのピースが、一挙に埋まっていった。
何故、ルードリッヒがこのタイミングで殺されたのか、その理由をつぶさに覚った。
中央に設置された金属板に男の腕が張り付いていた。血の付いた白い袖は、ルードリッヒの着ていたものと同じものだ。
一連の騒動を動かしていた人物は、この先に用があり、この部屋を起動させる為には、王の体の一部が必要だったのだ。恐らく、目を奪ったのは何か別の理由があるはずだ。
光の渦の中へ、クライスは足を進める。部屋の中央に立つと、光は更に溢れ、ついに目を明けてられなくなった。
徐々に光量が減少していくと、クライスは視覚より先に肌を斬り付けるような痛みで、状況の変化を捉えていた。そして、瞑った目を開いてみると――――
――――――そこは、薄暗い城の中ではなかった。
辺りには雲が立ち込め視界を覆っていたが、夜の帳が薄紫に色付いていた為、周囲の様子を見る事が出来た。どうやら、夜明けが近いらしい。
やがて風の向きが変わると、次第に景観の全域が見渡せるようになって来た。驚いた事に、此処は神殿の様だった。それも大規模な部類に属するものだ。
大きな神殿自体は、各国に最低でも一つないし二つは存在する。その存在は、この世界における信仰の象徴の為、誰しも一度は訪れる位、極めて身近だった。
クライスには信仰心がなかったものの、幾度が訪れた事があった。だが、此処まで大きな神殿は見た事も聞いた事も無かった。
突然の変化に、呆気に取られるクライスだったが、まるで何かに導かれるように、その足が進んでいく。
――――アイツがいる。
姿が見えなくとも、そんな予感がした。直感がそう告げるのだ。
神殿の中央に向けて階段を登る。一歩踏みしめる毎に、予感は確信めいていった。
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