 |
   |
|
|
第一章 08
|
どれだけ離れる事が出来ただろうか。
トリスは狩りの時に眺めていた地図の記憶と、星の位置からおおよその方向は分かっていた。後は勘を頼りに、黙々と森を進んでいた。
月明かりは進むべき道を青白く照らしていたが、木々の密度はあいも変わらず、何処まで進んでも一向に拓けて来る様子が無い。
加えて、これまで長々と走ってくれた馬の疲れもピークを迎え、走る事を拒否していた。足が止まらないだけマシとも言えたが、奥深い森を脱出するには不安を拭い切れなかった。
まるで迷路へ迷い込んだかのように繰り返される暗闇と密林、そして何層にも積み重なって硬く凍った氷雪。
あたかも同じ場所を永遠と回り続けている錯覚に、意識が溺れそうになる。
集中力が削れて呆けかけた時、突然、周囲が何かに照らされて明るくなった。
背に受けた光を確かめるべく振り返えると、この森の遥か上空から満月の光を凌ぐ光量が降り注いでいた。今日は非日常の連続だったが、これは極め付けだろう。目を見張った親子は唖然として空を見上げていた。
何の兆候も無く浮かび上がった異質な物体。満月と並んで頭上に輝くその球体は、小さな太陽と呼んでも過言では無い。
そして、光の球はゆっくりと回転し出すと、みるみるその体積を膨張させていった。
比例するように、唯でさえ闇夜に眩し過ぎる光の放射が勢いを増した。夜の帳を暴くように一帯が照らされ、森中が昼の明るさを取り戻す。
「お父様、あれは一体……」
「何と言う事だ……」
このまま膨らみ続けて、本当に昼になってしまうのではないかと想像していた矢先、外部への膨張に耐え切れなくなった球体の、その外縁部から亀裂が走った。
一筋の細い亀裂が走ったと思いきや、追従する様にいたる所で大小の亀裂が走り、見る間もなく内部へ広がると、ついに崩壊する。
花火の様にバラバラに砕けた小太陽。その欠片は空で燃え尽きる事なく、流星の様に大地へ降り注ごうとしていた。
距離が遠くゆっくりと落ちるように見えていた流星は、瞬く間に森へ吸い込まれていく。
赤や白の破片が突き刺さる度、遠く離れた大地から地鳴りの様な悲鳴が聞こえて来た。
静寂に包まれていた筈のゼノンの森が混沌に沸く様を眺めながら、トリスは愕然とした。
――――その方角は、クライスと別れた場所ではないか。
慄きながら星の位置を確かめるが、何度計算しても、頭の中で情報が符合してしまう。
背の高い木々に視界が塞がれていた為、確かな事は分からない。だが、あの突然現れた恐ろしい数の流星が落ちて来て無事で済むはずが無い、確信を持って言える事などそれ位だった。
「お父様……クライスは、クライスは無事、ですよね……?」
背中にしがみ付いたロザリアが、震えた声で尋ねて来た。
トリスは、まだ年若い青年が『ストラヴァーダの聖騎士』という肩書きを持つだけでなく、その名に相応しい実力を備えている事を知っていた。
だが、それはあくまで人間に対しての話しであって、人間の領域を超えた悪魔的なものではなかったはずだ。そして今、眼前で繰り広げられている現象は、誰がどう見ても人智の域を超えている。
あれに巻き込まれて生き残れる人間が果たしているのか――
深い絶望と淡い希望が渦巻いて、確かな答えが出せなかった。
「分からん。だが、クライスは先に行けと言った。信じて進むしかあるまい」
ロザリアの頭の中には、クライスの言葉が響いていた。
――今の君に何が出来る?
(クライス……今の私に出来る事は、少しでも早くお父様と此処から抜け出す事だけ……本当にそれだけなの?)
苦い現実を噛み締めた少女の眼に、薄っすらと涙が滲んだ。
トリスは意を決して、未だ降り止まない流星に背を向ける。今は唯、前に進むしかなかった。
「トリス!」
何処からか突然名前を叫ばれ、トリスは反射的に身構えたが、直ぐにその声の主が誰だが分かると、恐怖が安堵へと変わった。
暗がりの中から姿を現したのは、途中で逸れてしまったブラウニルだった。
「ブラウニル公、良くぞご無事で!」
「探したぞ、心配掛けおってからに……二人とも怪我は無さそうだな……それで他の者はどうした?」
「20名程行動を共にしていまいたが、約半数は逸れ、半数は殺されました……それと、暗殺者の正体は宮廷魔導師でした。詳細は不明ですが、背後にはルードリッヒの影が見え隠れしています」
「……あの護衛の者は?」
「クライスは近くで敵と戦ってくれています」
「……そうか」
ブラウニルは一言だけ返すと、何事か思案するように口を噤んだ。幾ら宮廷内が権力の亡者に溢れているとは言え、実の甥子に命を狙われたとあれば、衝撃は小さくないだろう。しかも、ブラウニルの激情型の性格からすれば、何か皮肉の一つでもあってもおかしくはないはずだった。
トリスは一連の淡々としたやり取りに違和感を覚えるが、『王宮』という権力の巣窟を生きて来た老将の深さ等知る由も無い。そして今はそれを言及する時でもない。必要な情報を共有し、協力してこの危機を脱する事こそ、課せられた使命だった。
「ブラウニル公の方は、如何でしたか?」
「正直分からん。ワシも他の者とは直ぐに逸れてしまったからな。何とか逃げ果せていれば良いが……」
「そうですか……他の方々の行方も心配ですが、今は自分達の命を心配しましょう」
ブラウニルは当然の様に頷く。
「此処に来る途中に、騎士の風貌をした者がおったわ。あやつ等が敵で無いと断言出来ぬ以上、避けた方が良かろう」
二人は他に幾つかの状況の確認をすると、進むべき道が決まった。
「うむ。ならば少し遠回りにはなるが、あちらから行こう」
ブラウニルの後に付いて、トリスとロザリアも歩き出す。
けれどロザリアは、途中で気付いた疑問に考えあぐね、思わず尋ねた。
「あの、公爵様?」
「……何じゃ?」
先行している二人が振り返る。
「公爵様は、何処かお怪我をされていませんか?」
「いいや、この通りだが?」
両手を広げて、問題無いジェスチャーをする。それはトリスから見ても、何か問題があるようには感じられない。
それでも疑問の晴れない少女は、抱えていた感想を口にした。
「ならば良いのですが――いえ、お召し物は綺麗なのですが、血の匂いがしていますから、何処かお怪我でもされているのではと」
「!!」
(何故気付かなかった……?この漂う血の匂い、それに汚れ一つ無いコート。今日、初めて見た時のままではないか――)
「流石はアルバディヌ家の娘だ。幼くとも良い勘をしている」
その静かな声は老人のものから、低い中年男性のものへと変わっていた。
すると、ブラウニルはトリスに向かって、どんっ、と体当たりをした。何の予備動作も、その気配さえ見せない動き。とても年老いたブラウニルに出来る芸当ではない。
気配を見せない一連の所作、思い当たる人物はたった一人だった。
「貴様、まさか……」
密着したブラウニルの頭部を掴もうとするが、頭ではなく金属の冷たく重厚な感触が返って来た。
目の前の人物がブラウニルではなく別人である事実を理解すると、白髪の老人の姿はぐにゃりと溶けて、黒いローブを着た男の姿に変化した。
背丈が一回り大きくなったその男は、冷徹な暗殺者――バルドであった。
初めから、そこにブラウニルはいなかった。『催眠』の魔導により頭の中にあるブラウニルのイメージを利用され、そこにいると思い込まされていたのだった。
姿を表したバルドの右手は失われたままであったが、左手には銀の短剣がしっかりと握られていた。
そして、その短剣はトリスの腹部に深々と突き刺さっていた。
「お父様っ!!」
ロザリアは突然の凶行に叫ぶ。
「直ぐに、お前も父の元へ送ってやろう」
腹部から短剣を引き抜くと、その背中越しに、何の感情も見せずに言い放つ。
トリスは身体の力が急に抜け、膝から崩れた。身体を駆け巡る悪寒に、目の前で生き絶えたイズラエの最後が思い出された。
(毒、か……?)
バルドは蹲るトリスの横を抜けて、ロザリアに歩み寄った。
ロザリアは父親が刺された衝撃と自分も殺される恐怖に晒され、声も出せず呆然と立ち竦んでいた。
無抵抗な身に凶刃が襲い掛かろうとした時、後ろから猛烈な勢いでトリスが掴み掛かる。
「逃げろっ!ロザリア!!」
猛毒が回り始めている身体の何処にそんな力が残されていたのだろうか。羽交い絞めにされたバルドは、全く身動きが取れなかった。
思い掛けない反撃に焦ったバルドは形振り構わず、やたら滅多に身体を動かして暴れた。バルドにも余裕など無かったのだ。
急激に死へ近付いていたトリスには、それ以上押さえ付ける事が出来ず、ついに振り解かれてしまう。
トリスが雪の中に倒れ込んだ所へ、バルドが襲い掛かる。
「死ね!」
冷徹であった男が初めて気勢を立ち上げ、左手に握った短剣を振上げた。
無情にも振り下ろされる短剣。
「止めて!!」
その悲痛な叫び声より、殺意の込められた切っ先の方が早く迫った。
しかし、その切っ先以上に、甲高い金属音の届く方が更に早かった。森の中に木霊する独特な銃声。その射線をなぞって、虹色に輝く一本の線がバルドの頭部を貫いていた。
理力によって超音速に加速された弾道の残滓が、煙の様に歪んだ時、突き抜けた頭蓋の両穴から血液が勢いよく噴出した。
小さな出口を求めて暴れる血流によって高圧が掛かった為、流血が噴水の如く高らかに舞い上がる。
操り糸の切れた人形の様に支えを無くした男は、その暗い双眸を剥いたまま事切れた。
「トリス!」
弾丸を放った主が叫んだ。
元は純白であっただろう毛皮のコートを、水滴と土でクタクタにしたその姿は、紛れも無くブラウニルその本人だった。
「しっかりして!お父様っ!!」
「ロザリア……」
意識を確かめるが、今にも消え入りそうな返事が一言返って来ただけだった。
顔を愛娘へ向けるが、既に瞳の焦点が合っていない。凄惨な父親の姿を前に、少女の瞳から大粒の涙が溢れては、次から次へと滴り落ちていった。
息を切らして走って来たブラウニルは、信じられないモノを見たように目を見開く。
厚手のコートの外側へ滲むほどの大量の出血、顔面は蒼白となり、呼吸が浅く早く繰り返されていた。
そして、出血以上に身体を蝕んでいるものに気が付く。
(これは毒か……!)
「トリス、もう少し辛抱せい!アヤツが解毒剤を持っていないか調べて来る!」
一瞬で症状を看破すると、老練な将の行動は早かった。
ブラウニルは藁を掴む気持ちで、血の海に沈んだ遺体を漁りだす。
「ロザリア。お主はトリスに声を掛け続けなさい。此処に引き留めて置くのだ」
泣きじゃくりながら頭を振るロザリア。
――引き留めておく?それではまるで、お父様が何処かにいってしまうみたいではないか!
違う、お父様は何処にも行きはしない。私を残して何処へも行きはしない!
「ロザリア、我が娘よ……怪我は、無いか?」
「ありませんわ、お父様……」
「そうか、良かった……」
「これを……後は、ブラウ、ニル公を…頼りなさい」
懐から出した羊皮紙の封筒は、染み出した血によって黒ずんでいた。
震える父の手を力一杯握り締めると、その冷たさに怯えた。呼吸はいよいよ短くなり、最後の時が迫っている事を否が応でも伝えて来る。
「駄目よ、お父様……しっかり、しっかりになさって下さい!!」
もう、時間が無いと言うのに、顔をしっかり見たいのに、涙で視界がぼやけて見えない。愛していると伝えたいのに、気持ちばかりが溢れて言葉に出来ない。
――嫌だ、こんなの絶対、嫌だ。
「クライ、スには、済まない……と、伝えて、くれ……」
「嫌よ!そんなのご自分で言って下さいっ!」
――駄目よ、駄目。待って!行かないで!!
「ロザリア、愛してるよ」
最後の一言は、閊える事無く、宙を舞って少女の心に届いた。
トリスが大きく息を吐くと身体から力が抜け、瞬きが止まった。そして、そのまま再び瞼は開かれる事がなかった。
「お父様っ!お父様っ!……お父様ぁぁっ!!」
慟哭は、心に痛みを広げながら闇に吸い込まれていく。透明な涙が、いつまでも枯れる事無く溢れ出していた。
少女の心の中で、最後に伝える事が出来なかった言葉は、行き場を失くして震えていた。
深い、深い悲しみに凍える魂。
その悲痛な声は、もう父には届かない。
――そして、その想いも永遠に。
闇の中を駆ける足音が聞こえる。
その足音に、雪道を踏み付ける様な荒々しさは無い。消え入りそうな位軽やかな音が、闇の中を突き進んでいた。
静まり返った深い森の中で足音を響かせるのは、黒いコートを纏った銀髪の青年≪クライス≫だった。
その体は闇夜に溶け、輪郭だけが次々と幻の如く浮かんでは消えていった。
それは何も保護色となった衣服だけが理由では無い。煌々と光が差し込む日中であっても、鍛えられた眼が追いかけなければ、同じく幻に見えただろう。
凍った雪の積もる山道は、かなり足場が悪かったが、クライスは雪を押し潰す前に次の足を送り続け、眼にも止まらぬ速度で駆け抜けていた。
それは些細なミスが大参事に繋がり兼ねない、自殺にも等しい行為だった。だが、クライスはそれすら承知の上で、全力を傾けていた。
このゼノンの森に入ってから既に4、5時間が経過しようとしていた。長時間にわたり、肌を裂く様な空気に晒されたせいで、指先の感覚は失われていた。剥き出しとなっている顔面部は、最早、痛みしか訴えて来ない。
にも拘らず、胸の内では別の感情が渦巻き、頭の芯は焼けるように熱かった。
どうしても全身に纏わり付く嫌な感覚が振り払えず、不安が熱に薪をくべてクライスを駆り立てていた。
(現状、時間にして15分程度の距離しかあの親子と離れていないはずだ。地面に残された足跡を見失ってもいないから、進行方向も間違っていない。直ぐに追いつく……)
馬蹄は短い等間隔で残されており、周囲の樹木や積雪に荒らされた形跡も無い。走れてはいないが、何事も起きていないはずだった。
しかし、どれだけ憶測を集めても、その姿を見付けるまで安心してはならない。クライスは自分にそう言い聞かせていた。
――急げ!
心臓がその熱を原動力に、早鐘を鳴らし続けてる。
青白い月明かりが、背の高い木々の間を抜けて地面に差し込んでいた。その光の筋を追い掛けるように、黒いコートが闇の中で翻っては消えていった。
「どこだ……」
焦りが形となって口から漏れた時、ついに視界の先に人影を捉えた。
そこはちょうど樹木がぽっかりと空いて、星空が見えていた。周囲に比べて少し小高くなった場所に光が集まり、深い闇と作り上げるコントラストが、小さな舞台を連想させた。
小さな人影を見つけ、クライスは僅かに胸を撫で下ろす。
緩やかに走るペースを落とし、自分は何とか間に合ったのだと安堵を迎えようとした時、月光を浴びて静かに輝く金髪を見つけ、何故か愕然とする。
詳細な状況を把握する前に、体がそこに辿り付く前に、現実が恐ろしい速度で頭を突き抜けていった。
舞台に佇む少女の姿は、あまりにも儚かった。
(ロザリア――何故、そんなところで座っている……)
理由など聞かなくても分かっている。過去に、幾度となく見て来たのだから。
それは慣れた感情だった。当の昔に凍て付いた心を揺らすには、この程度では足りない。
だが、それでも問わずにはいられない。
(何を、抱えている……)
少女の影からはみ出して横たえた足が、僅かに見えていた。
クライスの駆ける速度に変化はない。多少緩めはしたが、それでも常人が見れば驚異的な速さである事に変わりないだろう。
だから、視界に捉えてからものの数秒で、少女の元に辿り着くはずだった。
しかし、その足は一歩前に進める度に、鉛の様に重くなっていく。何か目に見えない重さがのし掛かり、全身の動きが奪われていった
――反対に、全身の感覚は鋭敏になっていた。
全力で走り続けて乱れた呼吸が、胸を締め付けている。凍った空気を吸い込んだ鼻腔が痛い。気付けば、傷の無い箇所を探す方が難しい位、体中が裂傷や打撲だらけになっていた。ヒューレ、暗殺者、聖典の天使≪ユーシア≫と立て続けの戦闘で負った傷が、今更、ジクジクと痛み出していた。
そして、悲劇の舞台上に辿り着いた時、クライスの体は、戒めの鎖に繋がれたかの如く、完全に動かせなくなってしまった。
冷たくなった父親を抱えた金髪の少女が、そこにいた。
亡骸に手を添える後姿が、小柄な少女を更に小さく見せていた。その傍らで佇むブラウニルは、瞑目したまま何も語らない。
観客が退場した後の静寂に包まれた舞台では、沈黙だけが重く、その場を支配していた。
「……」
クライスはここで何があったのか、ロザリアに問いただす事が出来なかった。小さく震える肩に手を添える事も出来ず、慰めの言葉を掛ける事も出来ない。
ただ、その姿を見つめる事しか出来なかった。
「私……、ね」
消え入りそうな小声で、ロザリアが語り出す。
家の中でさえ、聞こえるかどうかという囁きであったが、無音の舞台では、掻き消される事なく役者達の元へ届くのだった。
「最後に、伝えられなかった……毎日、伝えていたはずなのに、最後の最後は、伝えられなかった……」
「――ロザリアは……こんなにも、お父様を愛しています、って……」
「……」
「ねぇ、クライス……」
少女は雪の上に座ったまま、顔を上げる。その顔は泣き腫らしてくしゃくしゃになっていた。それでも枯れる事の無い涙が瞳に溜まり、今にも溢れそうになっている。
「教えて……何故、お父様は……死ななければならなかったの?何故……お父様の事を、守ってくれなかったの?」
少女には、受け入れる事の出来ない現実に対して、納得するだけの理由が必要だった。クライスには応える事の出来ない疑問を、ロザリアは容赦なくぶつける。
仮にクライスが真実を知っていて、それを知らせた所で、少女には決して納得など出来るはずもなかった。
それでもやり場の無い感情が心の奥から溢れ、残酷な言葉となってクライスを切り付けていく。
「……ねぇ、何故?」
ロザリアの言葉は、重ねる毎に語気が強くなっていった。
「応えて、クライス!!何故!?何でなの!」
クライスは、虚ろな顔つきで感情を爆発させる少女を見つめていた。ロザリアはその冷静な顔を見れば見るほど、感情が激しく揺れるのだった。
「黙ってないで、何か答えて!!」
少女の小さな両手が、黒いコートの裾を掴んで揺すった。元々、握力の無い手だったが、かじかんだ事で、更に弱々しく握り締めていた。
その手が求めていたのは救いだった。何かにすがりたかった。慰めて欲しかった。忘れられるものなら忘れてしまいたい位、どうしようも無い悲しみ、それを受け止めて欲しかっただけだった。
ブルーヘイズの瞳から、涙が零れ落ちる。唯々、止め処なく悲しみの零れ落ちていった。
「ねぇ……答えてよ……お願いだから」
「……」
クライスは肯定も、否定すら出来なかったが、代わりに、銀髪の間から覗く翡翠色の瞳は、その視線を一瞬たりとも逸らしはしなかった。
少女の昂ぶる感情とは正反対に、クライスの心は際限無く冷めていく。一つ原因を分析する度に、柔らかな情動が次々と死んでいき、事実だけが浮き彫りになっていく。
理性だけが揺るがず、冴え冴えと働き出すと、この結末を回避する為に出来た『言い訳』という名の施策が、次々に頭を過ぎって行った。
しかし、覆る事の無い現実をクライスは既に受け入れていた。
自分は護衛という任務に失敗した。その結果、依頼人は殺されてしまった。あらゆる現象を取り除いていけば、それが本質である。
クライスには、唯一伝えるべき言葉があった。
――――謝罪、それがここで言う事の許される言葉だった。
真摯な想いで、残された依頼人の縁者に対し一言でも侘びを入れる事、それがこの任務における自分の最後の仕事だと、そう結論付けていた。
だが、いつまで経ってもクライスは自分の仕事を終わらせる事が出来なかった。
凍らせて傷付く事の無くなった心に、何かが引っ掛かっていて、その一言を留めていた。
――こんなのは慣れた事だ。どこにでもある悲劇だ。
――お前に出来る事は、それだけだ。さっさと幕を閉じれば良い。
――何も考えるな。自分の命が助かっただけマシだと思え。
どこまでも現実を知る理性が、引っ掛かった『何か』を必死で押し流そうとしていた。
今まで嫌という程味わって来た世界の真理を訴え、謝罪の言葉とごちゃ混ぜにして、許しを与えようと躍起になっていた。
だがクライスは、理性を傍らに己の心と向き合う。
(そこには何がある?抵抗しているのは何だ?)
考えが纏まらず、無意識に目を伏せた瞬間、反射的に全身が理解した。凍らせた心では気付けない感情の正体。
それは、胎の内に燻り、燃え尽きる事の無い炎――
――その名を『怒り』と言う。
胸の内側に見つけた小さな感情に、クライスの言動を変える程のエネルギーはない。だが、決して自分に都合の良い理解をさせる事もなかった。
護衛対象が殺され任務に失敗した、その後悔もあるやも知れない。しかし、それ以上に、目の前で崩れ落ちている少女の姿に、感情が煽られ、一握りの炎が全身に燃え広がっていった。
――――破壊しろ。
(……何だ?)
突如、頭の中に暗い声が響く。発音は獣の唸り声の様に低く、まったく意味を成していないのにも関わらず、その意思だけが鮮明に伝わって来た。
――お前の敵を、破壊しろ。
再度、その『声』は命令をする。決して幻聴ではない声。それは不自然な程重厚で、抗いがたい圧力を持った響きがあった。
(黙、れ……)
すると、凍り付いていたはずの心がその声に共鳴する。悲しみを深め、憎しみを増やし、怒りを広げていった。
心の深く、更に奥から湧き上がる衝動は、あらゆる破壊を肯定し、世界を焼き尽くせと叫ぶ。
それは真っ黒な魂が上げる歓喜の声だった。
破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!破壊しろ!
(黙れ……黙れ、黙れ、黙れ!!!)
クライスが抵抗すればする程、命令は頭が割れそうになる程反響し、更に大きなうねりとなって理性を蝕んでいく。
内部で急速に起きた巨大な衝動は、理性の破壊に留まらない。内側を突き抜けて、表にも変化を与えていた。
気付けば、左腕からカチャカチャと金属同士がぶつかり合う音が鳴り始めていた。音は自分の左腕――直前の戦闘で千切られた拘束具――が鳴らす音だった。
月下の舞台に響く冷たい音。その小さく震える金属音の意味を理解した時、内なる戦いに捕らわれていた意識が、一気に外側の世界へ振り向けられる。
クライスの拘束具は先の戦闘で壊れていた。動きに支障が無い程度にしか処置しておらず、少し動けば、重なりあった金具が自然と鳴ってしまう状態だった。
以前であれば、音など意識する事は無く、逆に意識する方が難しかっただろう。しかし、一年も前から、指先すら動かなくなったはずの右腕が、先ほどの戦闘に続き、再び勝手に動いている。その事実が、戦慄となって背筋を駆け巡った。
金属の触れ合う音は次第に大きくなり、ついに左手が不自然な動きを見せ始めた瞬間、獣を捕まえるように、右手で、暴れる左手を押さえ込んだ。
力一杯握り締めても、腕の震えを完全に止める事が出来ず、上半身が細かく揺れ出していた。
「……クライ、ス?」
ロザリアが異変にようやく気が付いた時、クライスは搾り出すように声を発した。
「トリスは……」
内側からの破壊衝動と、勝手に動き出した右腕を必死に押さえ込みながら、ロザリアの質問を遮る為に尋ねた。
「トリスは、最後に何か……言ったか?」
少女は僅かに思案し、そして答える。
「…………いいえ、何も……何も、言わなかったわ」
苦しさに締め付けられている少女の表情を見れば、一目で嘘を付いていると分かった。クライスも見抜いていたが、あえて何も追求しようとはしない。
少女が何も言わないという事は、自分に伝えるべき言葉は何もなかった、という意味だ。そこに嘘があったとしても、クライスは彼女の『言いたくない』、という意思を尊重する以外になかった。
今、自分のやるべき事は何か、暴れ出した自身と戦いながら、必死に考える。
(俺のやるべき事――トリスの護衛。トリスの挙動の観察。アリストン国家の内部体制監視。自国≪ストラヴァーダ≫に対する脅威の排除。……そして、この親子の幸せを守る事。)
どれも自分には不向きな任務だと理解していた。殆ど全て失敗していると言っても過言では無いだろう。
任務の核となるトリス=フォン=アルバディヌは、もうこの世にいない。この先どれだけ労力を費やそうとも、トリスと縁の切れたクライスに、アリストンの中核へ近付く機会が訪れる事は無いだろう。そして護衛対象を守れなかった者が、他の要人に信用されるはずもない。
『護衛役』として、本来の任務を遂行する事は不可能だった。
そして、死んでしまったトリスは当然の事ながら、唯一の肉親であるトリスを失った少女の幸せなど、到底守れるはずもない。
どれだけ後悔しても、過去に時間を巻き戻す事など出来ない。不器用な青年がどれだけ知恵を絞っても、この状況を変えるだけの方法が思い付かなかった。
自分にはこれ以上この仕事を続ける資格など無い。それだけは十分に分かっている。
――だがそれでも、クライスはこの少女の幸せを守りたいと思ってしまった。真っ黒に染まってしまった心の海、その奥底に眠る透明な願いだった。
これ以上、この少女に苦しませたくない。出来る事なら、あの頃の笑顔を取り戻してやりたい。その身勝手で純粋な願いこそ、今のクライスの全てであった。
「……そうか」
交錯する視線を最初に外したのはクライスの方だった。
一言だけ呟くと、その場に視線を落とし、片膝を着けた。そして、掴んだ左手を勢い良く地面に叩き付ける。
ドンッ!、という衝突音と共に、粉雪が飛び散った。
(いい加減に、しろよ……!!)
叩き付けられてもなお、左腕は暴走を続けていた。得体の知れない動きを見せる自分の右腕を睨み付けると、頭の中に鳴り続ける声に向かって毅然と叫ぶ。
(俺は人を殺さない!これ以上、悲劇を繰り返させもしない!必ず守って見せる!引っ込んでろ!『お前』の出る幕なんてどこにも無い!!)
クライスの激しい意思をぶつけられた左腕は、最初こそ抵抗を見せたが、直ぐにいつも通り完全に動かなくなった。
あれだけ頭の中を蝕んでいた獣の声も、いつの間にか消滅している。敷き詰められていた負の感情が消えると、鈍っていた思考が嘘のように明瞭になって来た。
「それ……どう、なってるの……?」
「……気にするな、問題ない」
心配するロザリアに、クライスも嘘を付いた。正直に言えば、あの膨大な理力を勝手に発動させた左腕である。本当に次も止められるのか、本当に何事も無くこれからの道のりを進めるのか、疑問の方が強かった。
しかし、そんなことより、これ以上他人の事でこの少女に負担を掛けるのを避けたかった。
自分の事で精一杯なはずだが、何か問題がある事を察すれば、必ず背負おうとするだろう。そんな事をすれば確実に潰れてしまう。それが分かっていたから、クライスはあえて突き放すのだった。
「問題ないって……今、凄く、苦しそうな顔をしてたわ……」
ロザリアは、周囲の暗さで気が付いていなかったが、目の前でしゃがみ込んだ青年のコートは、所々穴が空いていたり、切れていたりしてボロボロになっていた。
目を凝らせば、顔には汗で髪が張り付いていた。それに全身に雪や土埃を被っているのが分かる。黒いコートだと判断し難いが、ねっとりと濡れているのは、雪が染みたからでは無いかも知れない。
もしかすると、このコートの下に大きな怪我でもしているのではないのか。いや、良く考えれば、あの非日常の連続を潜り抜けて、無傷である訳がないのだ。
「それにクライス、貴方、もしかして右手だけじゃなくて――」
「君の気にする事じゃない」
「何……ですって?」
心配を遮って出て台詞は、あまりにも一方的だった。一瞬にして出来上がった壁に、ロザリアは面食らってしまう。
普段のロザリアならば呆れて流すであろう物言いだったが、今だけは、どうしてもその言葉が許せなかった。
「貴方、私達が、どれだけ心配していたか分かっていて!?どれだけ!お父様と私が……貴方の事を心配していたか!」
心の傷口は銀髪の青年にぶつける事で幾らか落ち着いていたが、自分の言葉で掻き毟ると、再び涙が溢れて来てしまう。
「先刻も言ったが、俺の事は気にするな。今は自分が生き残る事だけを考えろ」
クライスの目線と同じ高さには、涙を溜めるブルーヘイズの瞳があった。一言伝える度に、大粒の涙が零れ落ち、その色に失望の色が濃くなっていくのが分かる。
後の事を考えれば、何も言わない方が正解だったかも知れない。適当に話を合わせていれば、無難に収束したかも知れない。だが、言わなければならない。この少女に関係の無いモノまで背負わせてはならないのだ。
「立ってくれ。ここは安全圏じゃ無い。喚きたければ逃げ切った後にしてくれ、幾らでも聞く」
「お父様は、貴方に――」
続く言葉はなかった。喉元まで出て来ているのに、どうしても話す事が出来ない。クライスに対するわだかまりが邪魔をして、素直になれなかった。
この青年は何故、こんなにも無茶をするのか。何故、独りで抱えようとするのか。ただ自分を受け入れて欲しいだけなのに、何故、自分を突き放すのか。
初めて出会ってから数ヶ月の時を過ごし、少しは理解した気でいたが、実際は、何一つ理解出来ていなかったのではないか、そう思えて悲しかった。
(まったく、見ちゃおれんわい……)
「ロザリアよ。この場は、この者の言い分が正しい。脅威は去った訳ではなく、近くに潜んでいると考えた方が良いだろう」
若い二人のやり取りを見かねたブラウニルが間に割って入り、続け様に指摘した。
「一刻も早くこの場を立ち去り、真相を確かめなければならん。これだけの事件じゃ、もしかすると火の手は別の場所でも上がっているやも知れん」
何の気配も無くクライスは立ち上がっていた。ブラウニルに向けた視線は、既に何の感情も宿してはいない。失望や感傷も感じさせず、あれだけ激しく燃え上がったはずの『怒り』も消えて無くなっていた。
あたかも日常の中で流された些細な出来事の様に、どこにも『自分』がいない。そこに在るのは、空気の冷たさに劣らない冷厳なる瞳だけであった。
「――――敵は、誰だ」
しかし、その言葉には今までと違っていた。トリスの方針に従って受身でいた頃は表に出さなかったが、明確に『敵』を捉え、それを攻略しようと言う意思が含まれていた。
「……まだ分からん。憶測で話すには、余りにも繊細な問題だ」
「だが、そんな事を聞いてどうする?もし護衛の者なら、契約者が死んだ時点で契約は不履行だ。ある意味、此処からはお前さんには無関係な話だぞ」
「俺は…………俺は、トリスとの約束を守る」
老将にとって、その返事は予想の範疇ではあった。それだけに、結んだはずの口が思わず綻んでしまう。だが、己の利益を感じさせない答えは、動機とするには不十分だった。
(トリスとはタイプが違うが、この若者も見所がありそうだな)
こんな時であっても、老人の『人を見る』悪い癖が出ていた。切羽詰った時、人は必ず本性を晒すものだ。誰が見ても命が掛かっていると分かる状況なら尚更である。
ブラウニルは、もっと追い込んでクライスがどんな反応を返すか見たかったが、好奇心を抑えて話を進めた。
「ならばワシが雇おう。その方が動き易いはずだ。契約期間は……そうさな、まずはこの子が安全な場所に辿り着くまで、というのはどうだ」
クライスは無言で頷いた。
話が纏まった所で、直ぐにでもこの場を離れたかったが、少女は未だにその場を立てずにいた。
冷たくなってしまった父親の顔に触れながら、その場で涙を流し続けている。
「いつまでそうしておるつもりだ、ロザリア=フォン=アルバディヌ」
ロザリアは、不意に名前をミドルネーム付きで呼ばれ、心臓が止まる思いをした。
アリストンにおいて、『フォン』とは貴族である事と同時に、その家の当主である事を示す称号だった。つまり、ブラウニルはロザリアがアルバディヌ家の当主であると、暗に示唆したのだった。
「こんな場所にいつまでトリスを置いておくつもりだ。不憫に思わんのか」
立て続けに受ける指摘が痛かった。現実を受け入れる事の出来ない弱さが悔しかった。ただ涙を流すしか出来ない自分が情けなかった。
けれど、世界で最も大きな支えを失った少女が自力で希望を見つけ出すには、余りにも若過ぎた。そして、肉体的にも精神的にも、既に限界を通り越していて、まともに向き合える状況ではなかった。
そこへ、無言で手が差し伸べられた。
銀髪の青年の細く、大きな手を見つめる。暗くてはっきりとは分からないが、手には拭き取られた血の跡らしき汚れが付いていた。
――自分が生き残る事だけを考えろ。
その手を眺めた時、ふと別の考えがよぎる。
果たしてこの人自身は、自分が生き残る事だけを考えているのだろうか?私のせいで、見えない所で傷付いているのではないか?無駄な血を流しているのではないか?
これ以上、誰も巻き込みたくなかった。自分の知り合いがいなくなってしまうのは、もう嫌だった。
差し出された手を取らず、ロザリアは自らの手と足に力を入れた。足に力が入らず、上半身をぐらりと揺らしながらも、誰の手も借りず立ち上がるのだった。
「私の事なら、お気になさらずに。自分で、立てます……それより、貴方の方こそ、もっと自分が生きる事を考えたらどうですか?」
思い付いたまま口にした言葉は、余裕が無いとは言え、自分のものとは思えない程、険があった。一方のクライスはそんな態度に何の反応も示さず、淡々とトリスの遺体を移送する準備に取り掛かるのだった。
二人の感情は交錯したまま、互いの道を歩き出していた。先を行く二人に向かい、ブラウニルは一人呟く。
「そう頑なになるな……互いが互いを思っての事だろうに」
ブラウニルの言葉は、鳴らす足音に掻き消され、二人の元へ届く事はなかった。
そうして、月下の舞台から役者達は降りていく。それぞれ今やるべき事を胸に、新たな戯曲が用意された場所へと歩き出すのだった。
沈黙する一行は、冬の森を歩いていた。ブラウニルとロザリアは、馬の背に縛り付けたトリスの遺体を支える為に寄り添い、クライスは敵が現れた際、真っ先に対処出来るよう先頭を一人歩いていた。
皆、疲労が蓄積して足取りは重かったが、決して止まることは無かった。一度止まってしまえば、もう動かせなくなるかも知れない恐怖があった。特にロザリアは気力だけで付いて来ている状態だったので、全ての神経を歩く事に注いでいた。
普段ならば陽気に笑う少女だったが、歩き出してからは口を閉ざしたままとなっていた。
森の中をを黙々と進む一行の前には、樹齢が百年以上ありそうな巨木と降り固まった雪、そして変化の無い暗闇が延々と続いていた。
暗がりの中で特徴が消され、天然の迷路と化した景色が進む者の心を惑わせた。迷いは、混乱を生み出し、混乱は疲労を生み出す。こんな状態を繰り返していれば、いずれ心が折れ、足が止まってしまうだろう。
悲惨な状況の中で唯一の救いは、単独行動して無用な混乱を避けていたブラウニルが、おおよそではあるが、現在位置を把握していた事だった。地図があっても、方角が分からなくては意味が無く、方角が分かっていても、今居る場所が分からなくては同様に意味が無い。平地であれば、特徴のある地形から判断が付くかも知れないが、障害物の多いこの場所では見知った者で無ければ到底不可能であった。
現在の位置からすると、2、3時間も歩けば森を抜けられる見込みが立てられた事で希望の光も見えて来ていた。
しかし、仮にそこまで堪えるだけの気力があったとしても、途中で命が狙われる可能性は大いにあった。ブラウニルは貴族虐殺の生き証人であり、トリスの血縁であるロザリアも敵から見れば禍根となる事が予想されたからだ。
クライスは、敵の正体の目星しか付いていなかったが、十中八九、再び襲って来ると考えていた。それはブラウニルも同感だった。それ程悪意の強さを感じていたのだった。
だから、何も起こらずにゼノンの森を抜けようとした時、安堵を通り越して警戒心が高まったのは無理も無い話であろう。
「罠、かのぅ?」
「分からない……だが、その可能性は否定出来ない」
ゼノンの森は広大である。迷路のような森の中を隈なく捜索する事は物理的に不可能だ。
幾ら相手が殺し合いに不慣れな貴族だったとしても、猟銃を保持している可能性を考えれば、人間狩りをするにも、それなりに訓練された人間と装備が必要になる。
故に、頻繁に利用される出入り口を避ければ、敵との遭遇や待ち伏せを回避する事は、そう難しい事では無いと分かっていた。
しかし、あくまでそれは人間を相手にした場合の話である。クライスが警戒していたのは、むしろ人智を超えた存在に対してだった。人間の常識が通用しない相手を想定するなら、どれ程警戒しても、し過ぎるという事にはならない。過敏な位で調度良いとすら考えていた。
ブラウニルはブラウニルで、別の思惑があって警戒を高めていた。明言こそしなかったが、敵の像をほぼ特定していたのだ。だから、襲って来るのは統率の取れない化け物などでは無く、組織立った連携が取れる人間だと確信していた。
敵が悪意を剥き出しにした姿をしているなら、まだマシだ。本当に恐ろしいのは善意の仮面を被った、悪意ある人間である。それを見抜けなければ、本当の意味で助かったとは言えないのだ。これから近付いてくるであろう人間が敵か、或いは味方か、判断の誤ることの出来ない緊張が、老人の神経を磨り減らしていった。
森の出口の付近は、背の高い木々は無く、見晴らしの良い場所だった。平原と言って差し支えない地形となっており、森の中とは反対に、月の光を遮る物体が殆どなかった。
クライスは付近に横たわる巨木の影から、辺りを見渡した。前方には月影を落とす場所が無く、淡い光に反射した雪がまばらにあるだけだった。集団が身を隠す場所は、まず見当たらない。
「隠れていろ」
言うや否や、クライスが巨木の陰から先行して飛び出した。そして、囮となるべく、適度に距離を置いた所で立ち止まる。
ゆっくりと周囲を見渡しながら、五感を澄ませ、あらゆる気配を探る。だが、何処にも異常は感じられなかった。
ある意味予想外の展開だったが、相手の隙を突いている可能性もある。クライスはブラウニル達を呼び寄せながら、森から離れる算段をしていた。
問題は早く離れようにも足が足りない事だ。今、手元にある手段は一頭の馬だけであり、大人の遺体を背に乗せれば、少女一人位は乗せるて走る事は可能だ
が、当のロザリアは馬術の心得が無い。
ブラウニルが乗ればロザリアがあぶれてしまう。山道と違い、走らなければすぐさま追い付かれてしまうだけに、迷っていられない。
(仕方ない。もう一度アレをやるか……)
心の中で、数時間前にやって大ひんしゅくを買った運び方を想像していた時、近付いて来たロザリアとクライスの視線が合った。
銀髪の青年は何も口にしていない。しかし、少女はその考え事をしている眼を見た瞬間、疲労から自然と寄っていた眉根を更に寄せて、訝しがった。
「クライス……貴方まさか……」
「……俺はまだ何も言っていない」
「……貴方が何を考えているかは知りませんが、私はまだ、自分の足で歩けます」
勘の良さと体調はそれ程関係が無いらしい。気丈に振舞うロザリアだったが、明らかに無理をしているのが見て取れた。生来の白い肌から血の気が無くなり、真っ青となっていた。反対に、眼光だけは殺意に等しい鋭さを放ち、美しい顔が壮絶な表情を造り出していた。
クライスは予想外の殺気に僅かにたじろいだが、その考えに変わりは無かった。
現実はそれ程優しくないのだ。言い争いをしている内に敵の手が届くかも知れない。今のクライスには相手の感情を汲むだけの余裕はなかった。
天秤に乗せているのは少女の命だ。反対側にどれだけ他の現実を乗せても釣り合いは取れない。自分と少女の関係性や、自分の命を載せたとしても、まだ足りない。
もう後悔はしたくなかった。失敗した理由を並べるのはうんざりだった。
――何を犠牲にしても守り切る。
その覚悟だけがクライスの行動原理となっていた。
「ブラウニル卿、馬に乗って先行して下さい」
「?お主はともかく、ロザリアはどうするつもりだ?」
ブラウニルは、あの激走を知らない。そして、馬の腹に隠れた位置で沸き立つロザリアの殺気を知らないが故に、素朴な疑問しか出て来なかった。
少女が喉を枯らして叫ぼうとした時、クライスは後方から近付く気配を察し振り返った。
「何かが近付いて来る……」
ロザリアの耳にも遅れて地面が鳴らす音が飛び込んで来た。複数の馬が地を駆ける音だった。まだ発見されてはいないが、辺りに隠れる場所はない。直ぐに視認されることになるはずだ。
「離れていろ」
クライスの判断は早かった。相手が何であれ、先手を打って出ようというのだ。
体を沈め、一瞬にして距離を詰める体勢を取った。
「待てっ!!」
突然、ブラウニルが叫ぶ。
「アレは……」
綺麗な紡錘陣を敷いた騎馬隊だった。その先頭を走る一騎が、突出して近付いて来た。
「クライス、先頭の男が近付いて来たら捕縛してくれ」
「了解した」
やがて騎馬集団が三人の前まで近付くと、先頭を走っていた男が、馬を下りて近付いて来た。甲冑に身を包んでいても、体格の良さが分かる騎士だった。
「ブラウニル様!ご無事――」
男が全て言い切る前に、クライスは背後から男の手を捻り上げ、バランスを崩した所へ足払いを浴びせる。
重甲冑を纏った体が浮き上がったと思えば、顔面から地面へ叩き付けられ、言葉が途切れた。
「な、何をするか、貴様!」
突然の凶行に男が目を白黒させていると、その頭部へ銃口が突き付けれられた。ごつり、と銃口がぶ額につかる感触に男はまたも絶句する。
「油断大敵だな、ドヴェルグ」
「ブラウニル様、これは一体……!?」
「合言葉を言ってみろ。合っていたらお前をドヴェルグと認める。間違っていたら引き金を引く。お前達も動くなよ?妙な動きをしたら同じくこいつの頭が吹き飛ぶぞ」
にやりと口を歪めるブラウニルだったが、目はまったく笑っていない。
相手に有無を言わせず力で制圧するクライスに、手馴れた様子で恫喝するブラウニル。一言しか交わしていないにも関わらず、驚くべき手際の良さだった。
空気が一瞬にして緊張に包まれた。だが、暴行を受けた騎士の男はもちろん、後方に控えていた男達も状況にまったく付いて行けていない。
それは本気の『芝居』であった。背景を知っているはずのロザリアですら、むしろ二人の方が悪人なのではないか、そう錯覚する程、真に迫っていた。
「さぁ早く言え。こちらは急いでいる」
促される様に、クライスは肘間接を極めた右腕を締め上げると、男は首を絞められた鶏のような返事をするのだった。
「知らん!ブ、ブラウニル様はその様な決め事を設けたりはしないっ!」
「貴様、そんな回答でワシが満足すると思うておるのか?ん?」
知らないものを知らないと正直に話した男に対し、ブラウニルは魔導銃の弦鉄を起こした。
男は焦りと憤りを感じたが、遅れて理解の色が灯る。この老人が一体どんな言葉を聞きたいのか、それは付き合いの長い人間にしか分からない事であった。
「……では、貴方の好みに合わせて言わせて頂きます」
一呼吸おいて男は吐き捨てる。
「そんな事知るか。このXXXX野郎」
「……ふっ、ドヴェルグよ。相変わらずセンスの欠片も無い台詞だな」
「相手の誠実さには等しく努めよ、という貴方の教えに従ったまでです」
相手の回答に不満を漏らしながらも、ブラウニルは押し付けた銃口を下ろしていた。
誠実な相手には誠意を持って接する、ならば不誠実な相手にはどう接するべきか。ブラウニルは答えなど教えていないが、老将の部下ならばその嗜好を知っているはずだった。
ブラウニルにとって返答は、その心が通じているならば何でも良かったのだ。知らない事を下手に取り繕えば、迷わず彼は引き金を引く、それだけの事であった。
臣下が敵か味方か、そんな究極の選択を強いられている時でも、ブラウニルは真剣に遊んでいたのだった。
そのやり取りの意味は、クライスの知る所ではなかったが、ブラウニルが警戒を解いた事に同調して拘束を解いた。
男は、初見であったクライスを睨みつけながら立ち上がる。その視線には、警戒心や暴力を受けた怒りだけでなく、ブラウニルの信用を得ている事に対しての僅かな嫉妬が含まれていた。
「ブラウニル様、ご無事で何よりです。やはり、そちらでも事態は切迫しているようですね」 「うむ。だが、まずは此処を離れるぞ。話はそれから
だ」
「ならば、本邸では無く、隠れ家の方へ向かいましょう。此処からはそちらの方が近い」
その場で反対意見を述べる者はいなかった。必要最低限の紹介だけ済ませると、一向はブラウニルの別邸へ向かうべく隊列を組みなおした。
部屋の片隅に置かれた、薄汚れた椅子に腰掛ける男がいた。男は古めかしい椅子を傾けては元に戻し、軋む木の音を鳴らし続けていた。
暗い部屋の奥から響く悲鳴に似た音は、湿った空気と障害物に飲み込まれた。
10メートル四方の部屋の壁には、天井まで届く高さの本棚が密に設置され、均等に並べられた同じ高さの本棚が空間を仕切っていた。
巨大な本棚が限界まで敷き詰められていた為、人と人がすれ違う幅も無かったが、本人以外、誰も立ち入る事が無かったので、一度も困った事は無かった。
書物庫と呼んでも差し支えない部屋だったが、一般的な書物庫とは違い、壁には湿気を逃がす為の窓が無い。そして、唯一外と繋がっている扉は、まるで宝物庫の如く重厚であった。
扉には頑丈な錠前が2重に掛けられ、唯でさえ圧迫感のある部屋に、威圧感さえ与えた。印象としては、書物庫というより牢獄に近いだろう。
しかし、物々しい印象とは反対に、本棚の中へ所狭しと収められた蔵書は貴重な逸品というより、個人が寄せる関心事を片っ端から集めたように雑多で、裾野が広かった。
政治、軍事、経済、歴史、魔導、語学や宗教といった学術的な分野に始まり、演劇に詩集、果てには園芸や料理といった庶民が手にするものまで、古い新しいを問わず、多種多様な本が収められていた。
硬い扉に守られ、あらゆる知識で埋め尽くされたこの部屋こそ、男にとって世界で唯一安心出来る自分の居場所だった。
「ご報告します。本日の『狩り』ですが、標的124名の内、110名の遺体が見つかりました。ただ一部は損壊が激し過ぎて本人の確認が取れませんので、多少、誤差があるかと存じます」
心地よい響きをした声が室内に響く。凄惨な現実を伝えているはずだが、冷たさよりも発した人物の厚みを感じさせる声色だった。
「……数などどうでも良い。余が聞きたいのは、余の敵がこの世に居るのか、居ないか、それだけだ」
間を空けて、椅子に腰掛けた男≪ルードリッヒⅡ世≫が、しゃがれた声で呟く。
専制君主たる王に相応しい尊大な物言いだったが、覇気が無く、反比例して不安と苛立ち、そして恐れが露わとなっていた。
部屋の中で唯一の灯りであった淡い赤色に揺らぐ魔導灯が、ルードリッヒの顔を映し出した。
男の目は泥の中を潜っているかの如く暗かった。痩せ過ぎた顔は、病人のように強い陰影を落とし、壮年であるはずの男を老人に変えていた。
アリストンの王は古い椅子の背もたれに体を預け、只々軋ませ続けた。黙ることで平静を装っているつもりだったが、かじりっぱなしの親指の爪が、両手ともぼろぼろとなっていて、擦り切れた精神を物語っている。
「……残りの者も近日中に片付くでしょう。御身を脅かす存在は直ぐに消えてなくなります」
温かな声は、何の疑いようの事実として報告するが、その程度の気休めに対し、最早、ルードリッヒは何の反応を示さなかった。
またも長い沈黙が流れると、声の主は思い出したように報告を続けた。
「それと、バルドが死にました。配下にあった例の双子も連絡が取れません。恐らくは、殺されたかと……」
「……あの男は……余の国を脅かす、あの男はどうなった」
ルードリッヒはバルドが死んだ事に対し、微塵も気に留めなかった。それよりも別の人間の生死の方が遥かに重要事項であった。
「バルドが仕留めております――その後、返り討ちにあったようです」
「そうか…………く、ふふ……ははっ……あははははははっ!!!」
ルードリッヒは笑った。心の底から笑っていた。百人以上の同胞たる貴族が死んだ事よりも、たった一人の人間がこの世から去った事の方が、比較しようのない位嬉しかったのだった。
そんな狂ったように笑う男を眺める者がいた。
存在を消す魔導を使用していた為、狂気を発したルードリッヒからは姿が見えていなかったが、その様子をずっと前から眺めていたのだった。
狂人を見る男の顔は、実に優しげだった。我が子を見守る母親のように穏やかな表情を浮かべる男は、狂った笑い声をひとしきり聞くと、満足したように背を向ける。
「――日陰の王よ、まだ幕は上がったばかりだ。これからが、真に人の時代となる」
間違いなく不敬罪で処断されるであろう呟きは、ルードリッヒに届く事はなかった。魔導で遮ってはいなかったが、枯れる事無く底から湧き上がる喜びに掻き消され、その意思が伝わる機会は永久に失われた。
そして掻き消された呟きと共に、男の姿も完全に消える。
内側から厳重に掛けられた部屋の鍵に触れる事なく、何の気配も表さず、始めから其処に存在しなかったかの如く消えていた。
「さて、一体どこから話したものか……」
目を細め、暖炉の炎を眺める老人が呟いた。そのしゃがれた声には、吐き出すものを留めようとする、迷いが含まれていた。
語るべき事は決まっているが、どう伝えれば良いか、その言葉選びに苦しんでいるようだった。
60才を超えたブラウニルの目じりには、年相応のシワが刻まれており、目を細める事で一層深く溝が出来上がっていた。
歴史を感じさせる鳶色の瞳には曇りが無く、奥底には老いよりもむしろ深い知性が潜んでいた。その言葉の間さえも、答えを授けるのでは無く、真理を引き出す為に計算されているかのようだ。
だが、眼前に構えた少女は、真理など必要としていなかった。
ただ、積もり積もった疑問に対する答えを必死に求めていたのだった。
何故、自分の父は死ななければならなかったのか。
何故、誰も助けてくれなかったのか。
何故、自分は止める事が出来なかったのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故――――
優しく、温厚だった父。時に厳しく諭し、それ以上に自分自身に厳しかった父。誰にでも尊敬され、誰にでも敬意を払っていた父。勇気を携え、信仰に厚かった父。自分の誇りだった父。
どの父親の横顔を切り取っても、誰かに恨みを買うような人ではなかった。だから、何故こんな結末に至ったのか、どうしても答えが見付からなかった。
自分の知らない父親を知り、自分には決して解けぬ疑問の答えを持っているブラウニル。その言葉を待つしかないロザリアにとって、僅かな間ですら、その何十倍もの長さに感じらた。
ブラウニルは手にした薪を暖炉の中に放り投げ、炎が燃え広がるのをじっと待った。新たな餌を与えられた炎は、喜びの声を叫ぶように火柱を上げる。
やがて、温められた空気が行き場を無くして爆ぜた。
暖炉の炎が生み出す強烈な熱でさえ、少女の冷え切った体を温めるには不十分だったが、気持ちの方は煽られるまでも無く、既に焼き切れんばかりであった。
業を煮やしたロザリアが、体を前に倒した時――
「トリスは何故、殺されなければならなかった」
ロザリアの心情を代弁する問いが、壁に身を寄せていたクライスから飛び出した。
ブラウニルは核心となる疑問を改めて受け止め、苦笑いをした。
「答えがまどろっこしくなるのは、老いぼれの悪い癖だな……トリスが狙われていた直接的な理由は分からん。だが、推察は付いている」
重い結論を吐き出す為、熱くなった空気を吸い込む。
「それは恐らく、トリスはこの国を根本から変えようとしていたからだ」
「この国を……?根本から……?」
あまりにも抽象的な結論に、ロザリアが鸚鵡返しをした。
「そう、根本からだ。王政の廃止し、議会による民衆の統治を実現する。その構想こそ、トリスが命を失った理由だろう」
語られる推論が余りに突飛である事は、政治を良く知らないロザリアでも分かった。
『議会による統治』、言葉にしてしまえば簡単だが、議会を構成する人員は、アルバディヌ家の様な王家に縁のある貴族や、王家に認められ民衆から選抜された有力者の面々であった。
つまり、アリストン王家と強力な結び付きがあって成立している組織なのだ。その後ろ盾となっている権威を放逐し、自らが統治者に成り代るなど想像すら出来ない。
そもそも貴族とは、王によって選定された家柄に与えられる称号であり特権であった。人々の上に立つ権利を自ら捨て、どうして統治など可能となるのか。
一つ明かされた疑問だったが、今度は別の所から新たな疑問が沸いて出るのだった。
「国家が生み出す利権は大きい。幾ら今の王家が悪政を強いていたとしても、絶対に手放す事の出来ない人間も大勢いる。例え計画が実現しなかったとしても、そこで穿たれた小さな穴は、今の国家を瓦解させるには十分過ぎる……不名誉な話じゃが、体制に変化を求める思想を持つだけで危険人物として見なされ、命を狙われる事は自然な流れと言えるな」
皮肉を込めた唇の端を歪ませる。言葉とは裏腹に、その表情には寂しさと悲しみが滲んでいた。
驚きをあらわにしたロザリア。現実の苦味に顔を歪めるブラウニル。そして二人とは対照的に、クライスは静かに真実に近付こうとしていた。
「その話の根拠は?」
「物証は無い。だが、森の入り口でヤツは、『鳶色熊を狙うから協力をして欲しいと言っていた……恐らく、何らかの形で王家を倒す準備を整えていたはずだ」
鳶色の熊は、アリストンの国旗に描かれている象徴である。アリストン王家の創世記によれば、それは熊ではなく、熊に似た聖霊であったが、民衆の間ではアリストンの貴族による誇張解釈として揶揄されていた逸話だ。
ブラウニルが聞いたのは、計画を実行した際に間接的な援護を取り付ける為の隠語であった。
「まさか、そんな……」
一線を退いたとはいえ、王家の人間に対して血縁を倒す事に協力を申し出るには、相当な信頼関係が無ければ不可能であった。普通であれば、その意味が通じた時点で反逆者として断罪されていてもおかしくは無い。
良き友人であり、良き理解者であり、そして純粋に祖国を想う者同士の話であったが故に成立したやり取りであった。
「以前、ワシとトリスはその可能性を議論し、ある程度条件を揃える事で実現の可能性を見出した事があった。それを基礎に――――――」
話を続けるブラウニルの言葉が、ロザリアの耳には入って来なかった。
飛躍した推論。自分の知らない政治家としての父親。根も葉も無い話を繋げてしまう可能性を秘めた存在が、少女の頭の中を埋め尽くしていた。
ロザリアが胸に右手を添えると、心臓が信じられない位、早鐘を打っていた。その右手と心臓の間に、死に瀕した父から託された手紙が隠されていた。
父は何を想い、この手紙を自分に託したのか。何を目指し、ブラウニルに託したのか。その思いの丈が掴み切れず、同じ問いが少女の頭の中で何度も繰り返されていた。
「ロザリア、大丈夫か?」
「――え?……ええ、大丈夫です……ちょっと話が突飛過ぎて、混乱していて……」
ブラウニルが心配そうに覗き込むと、少女は精一杯の笑顔を作ってみせた。
「無理もない。話したワシ自身が信じきれない気持ちもある……今日一日で起きた事を全て受け入れるには……時間が、必要だ」
「だが状況は待ってはくれない」
クライスがゆっくりと立ち上がる。
「ブラウニル卿、トリスを狙った奴らの裏には、ルードリッヒがいるのか?」
「……分からん。だが、何らかの形で関わっていると見て間違いないだろう。トリスに疑惑があったとしても、アルバディヌ家は大貴族の一つだ。そう易々と手を出せる相手ではない。汚れ仕事の引き受け手がいるとするなら、それ以上の後ろ盾のある者だろうて」
「……だが、そんな事を聞いてどうする?これ以上この国の内情に関われば、命の保証は出来んぞ」
「貴方との契約は既に完了した。俺は、トリスと交わしたもう一つの約束を果たす」
(……約、束?)
「もしあの男が背後にいるなら、何度でも殺しに来るはずだ。だから、その前に叩く」
「くっくっく……お前は何の確証も無しに、王家に剣を向けるというのか?」
クライスがさも当然の様に出した答えは、余りにも非常識であり、無謀であった。それどころか、『国家』という名の権力が持つ力を知るブラウニルからしてみれば、無謀を通り越して無知だと言わざるを得なかった。
ブラウニルの射抜くような視線に、クライスの何の気負いも、躊躇いすら見せない。その瞳には、不思議と力強さが宿されている。それは経験によって培われた絶対的な自信がなければ出来るものではない。
しかし、王家に剣を向ける事は、アリストンという国そのものに剣を向ける事に等しい。腕が達者ならば済む問題でもないのだ。
人、物、金、情報、あらゆる面において、個人が相手にするには余りにも大き過ぎる敵、それが王家であり、国家という存在であった。
相手がどれだけ真剣であっても、流石に笑わずにはいられなかった。
「……よしんば、ルードリッヒが黒幕だったとして、失敗したらどうする?お主はおろか、関わった者全員が危険に晒されるぞ?それに――あの者を殺せば問題の全てが解決するとも思えん。舵を取った誰かが同じ事を繰り返したらどうする?」
「舵取りは貴方がすればいい。……それに、今、この国で命の危険に晒されていない者などいない」
ブラウニルの洞察を、クライスは現実で叩き切った。
「誰もが飢えと寒さに苦しみ、不安に怯えて暮らしている。そして今、特権階級の者達でさえ例外では無くなった」
クライスの指摘は正しかった。ルードリッヒは表立って牙を向いたのだ、情報を受け取った者からしてみれば、寝耳に水どころの騒ぎでは無くなるだろう。虐げられて来た平民と同様の、いや、それ以下の扱いをされたのだ。夜が明ければ、血で血を洗う抗争が始まる事は目に見えていた。
「皆、自分の命を守る為に戦う必要がある。俺の行動に巻き込まれるのが嫌なら、俺を殺せばいい……俺はたった一つ、守らなくてはならないものがある。その為に、命を賭けて剣を振るうだけだ」
命を賭けると表した言葉に、何一つの偽りは無かった。自分の命も、他人の命も目的の為に犠牲にする覚悟があった。
けれど、嘘が無いと分かるからこそ、その一言が少女には許せなかった。
「貴方は!」
突然、ロザリアが叫んだ。驚くほど大きな声だった。
ところが、後に続く言葉が出て来なかった。クライスが許せないのは確かだが、何故許せないのか、肝心な所が言葉にならないのだ。
やがて、沈黙が部屋に広がり切った時、噛み締めるような呟きが漏れた。
「人を……殺さないんじゃないの?誰も、殺さないんじゃないの?!」
「……そんな事を言った覚えは無いし、今も殺しに行くといったつもりもない。何にせよ、君には関係ない事だ」
「どうして、貴方は……!!」
間髪入れず冷やかな口調で切り返されると、落ち着かせていたはずの心が再び震え出していた。
普段であれば聞き流せた。数時間前だったら怒り出していた。けれど、今は悲しかった。怒りも湧き上がらず、ただただ悲しかった。
あれだけ流れたにも関わらず、枯れ果てる事を知らない涙が溢れて、生気を取り戻した頬を伝っていった。
自分の気持ちは何故、伝わらないのか。何故、自分を受け入れてくれないのか。無条件に愛されて来た少女には、分からない事が多過ぎた。伝えたい『何か』が上手く表現出来ず、頭がぐちゃぐちゃになってしまう。
嗚咽を漏らそうとする口を押さえようとした時、右手が、意識から僅かに遅れて持ち上がる。
(……えっ?)
たったそれだけの事で、ふと、自分が疲れ果ててしまっているのだと自覚した。
半日以上、真冬の外気に晒されながら動いて、切りが無い位、感情に振り回され続けたのだ。疲れていないはずがない。
それでも、父に会いたかった。父を助けたかった。父を助けたい一心で苦しみに堪えていた。
こんなに頑張っている自分を、認めて欲しかった。
(……誰に、認めて欲しかった?)
自分の気持ちを受け入れた瞬間、ロザリアは愕然となる。
懸命に築いていた壁が一気に崩れ出していた。あれだけ体の芯を支えてくれたにも関わらず、流れる涙と共に、崩れ落ちていく。柔らかな心を守る存在は、呆気ない程あっさりと無くなってしまった。裸になってしまった心に、痛みが走った。
(――もう駄目……早く、楽に、なりたい)
衝動が内から飛び出し、押し殺す間も無かった。虚ろな瞳がたわむ世界を捉えられないまま、右手が胸にしまっていた遺書を取り出していた。
「ブラウニル様……これを……」
「まさか……」
「……死の間際、父から預かった手紙です」
黒ずんだ血がこびり付いた封筒を手渡され、ブラウニルは呆然とした。
何の言葉を交わさずこの世を去った友からの手紙。最後の言葉がこんな形で蘇るとは、思いもしなかった。そして、そこに綴られた内容次第では、成すべき事が引っくり返るだけに、封を切るのが躊躇われるのも当然であった。
「ブラウニル卿、内容の確認を」
「分かっておる。焦らせるな」
取り出したナイフで、赤い蝋の封印が施された封筒の口を丁寧に破る。
幸い、中の手紙に血は付着していなかった。だが、それでも慎重にブラウニルは手紙を取り出し、一枚一枚じっくりと確認をしていった。
(トリスの奴め、こんなものを娘に抱えさせおってからに……なるほど、それでロザリアの様子がおかしかったわけか)
手紙を読み終わったブラウニルは、これまでの事象全てに得心がいった。そして、これから成すべき事に関しても、はっきり見えて来たのだった。
「二人とも、読んでみると良い。トリスが何を考え、どう動いて来たのかが見えて来るはずじゃ」
丁寧な文体で綴られた内容は、実際の行動の前から計画の実行、そして王家打倒後の国家の建て直しまでの方針が記されていることから、かなり綿密に計算されたものであることが伺える。
そして、最後の頁にはたった一つの制約に参加を決めた人間の名が、手紙の中心から円を描くように記録されている。
中心には、一言だけ記されていた。
『この国の正義の為、自ら行動する事』
手紙の中の何処を探しても、懺悔や逡巡は見当たらない。これがブラウニルの協力を取り付ける為に用意したものだとするれば、あまりにも明瞭な意思を表していた。
ロザリアは嗚咽を漏らしながら、幾度も手紙を読み返していた。読めば読むほどブラウニルの推測が正しく思えて、震える手を止める事が出来なかった。
クライスは内容を一瞥すると、床に放り出してあったボロボロの黒いコートを手に取り、部屋の出口へ歩き出す。
「一人でどこへ行く?ルードリッヒを討つのか」
「必要があれば、そうする」
再度、当然のごとく言い放たれた台詞に、ブラウニルはもう呆れるしかなかった。だが、今、行動しなければこの国に明日があるかも分からない、それだけは間違いないのだ。信じるより他にないのだ、この銀髪の青年が、沈みゆく国を救う突破口を作り出すと。
ブラウニル自身も運命に対して覚悟を決めると、途端に癖が疼きだした。こんな状況においても相手を試したくなってしまう、傍迷惑な悪癖だ。
「ふっ、良かろう。拙い連携は互いに足を取られるものだ。お主は先行し、宮廷内で暴れて見せろ。出来る限り注意を引き寄せるのだ、出来るな?」
「……了解した」
既に隣の人間が味方であるかどうかも分からない状況である。本来であれば、数少ない協力者同士、足並みを揃えて動くべきであり、無関係な人間の勝手な行動など許されはしない。だが、ゼノンの森の一件で、協力者達の安否が知れない以上、使えるものはなんだろうと戦力として最適な使い方をしなければならなかった。
「それと、ルードリッヒと予期せぬ接触をした場合、間違っても殺すな。始末する必要がある時は、ワシの手で葬る」
クライスは背を向けながら、再度了承した。その素っ気ない態度は、過剰な要求を無視しているようにも見えた。
ロザリアはクライスから目を逸らしたまま、扉が閉まる音を聞いた。手紙を手放してから、ついに顔を上げる事はなかった。
(クライスがどうなろうと……私には、関係、ない……)
扉が閉め切られると、廊下は薄暗く、凍った空気と静寂が広がっていた。
不意に捉えた感覚が、森での出来事を連想させた。冷たくなった依頼人の男と、抜け殻のようになった少女。それぞれの表情が鮮明に思い出され、全身に無力感が染み込んで来る。
以前であれば、何も感じなかったはずだ。だが今は、自制心に綻びが生じていると認めざるを得ない。
特に頭の中にあの声が響いてから、確実に何かが変わってしまった。しっかりと線引きをしなければ、今までの『自分』が揺らいでしまう程に。
けれど、今は何が変わったのか考える時間はない。心の内に曖昧なモノを残したまま、廊下を歩き出していた。
「クライスっ!!」
背後の扉が乱暴に開かれると、中から飛び出して来たロザリアが叫ぶ。
「お願い、死なないで……関係ないなんて、言わないで……!」
――揺らぐな。騒ぐな。怯えるな。事実だけを伝えて、無関係を装え。
背中から突き刺さった言葉に対して、頭の中で一頻りの命令が出されてようやく、クライスは少女と向き合う。
その姿こそ平静そのものに見えたが、少女の悲痛な声に、心に打ち込んだはずの楔がいとも容易く揺らされていた。
「……俺はトリスを守れなかった。だが、トリスの願いだけは叶える」
クライスは少女の必死の願いに対して、肯定も否定もしなかった。
答えられるはずがない。自分には何かを答える資格がない。揺らぐ心が、そう叫ぶのだった。
「それは、この国を……変える事?」
「違う。トリスの願いは、お前の未来を作る事だ」
「え……?」
俯き、恐る恐る確認をした少女は、予想外の答えに驚く。
今日の今日まで、父は家族を何より大切にしてくれていたと思っていたが、実際には、政治家としての崇高な理想を持つ父親がいた。父が何を一番大切にしていたのか、その事実に教えられたつもりだったのだ。だがら、他人に託す願いなど、この国の事以外に無いと思い込んでいたのだ。
「トリスはこの国を変える事こそ、お前の未来に繋がると考えていたようだ。だが、俺にはそれがどういう意味を持つのか判断出来ない。 ……俺に分かる事と言えば、生き残ってこそ未来がある、という事だけだ。だから俺は、お前の命を狙う可能性を断ちにいく」
(――俺は、何を言っている?自分が何の為に戦うのかなど、伝えなくていいんだ……)
これは自分のミスを取り返す為の戦いであって、この少女には関係ない。だから、何も考える必要はない。気に留める必要すらない。そう言いたかっただけなのだ。
「クライス……」
「俺に関して全ての事を忘れろ。俺の行動は、お前と一切関係ない個人的なものだ」
それは詭弁にすらならない理屈だ。馬鹿げた話だと笑いたくなっても、クライスにはそれ以外の言い方が見付からなかった。
一言伝える度、複雑な表情をしていく少女を見ていると、何故か胸の内側がざわついた。そのざわめきを打ち消すように言葉を重ねても、騒ぎは大きくなるばかりだった。
――さっさと切り捨てなければならない。
今すぐ切捨てなければ、この小さな手を掴んでしまいそうだった。
白く小さな手から、ほっそりとした腕を上ると、触れれば壊れてしまいそうな首筋があった。精緻な人形のように滑らかな輪郭をなぞると、薔薇の蕾のように可憐な唇に辿り着く。そして、気付けば透き通った大きな瞳に捕らわれていた。暗がりでも分かる程、複雑な感情に戸惑う瞳が、自分を見詰めていた。
熱を帯びた視線に理性が音を立てて砕け、今度は感情が鮮やかに色付く。それはゼノンの森で爆発した黒い衝動とは対照的に、驚くほど熱く、甘美な誘惑だった。
緩やかな弧を描く髪に、その柔らな頬に触れたかった。そして、細腕を強引に引き寄せ、温もりを感じたかった。抱き締めて、全てを奪い去ってしまいたい――凶暴な衝動が、全てを我が物とし、全て壊す事を渇望していた。
熱を移されたように火照る身体が、少しでも少女に近付こうと動き出す。だが、上がりかけた右手を咄嗟に握り締めた。
高まる欲望を握り潰し、崩れかけた理性を一瞬にして引き戻す。それでも収まる事の無い昂ぶりを冷徹なる理性が嘲笑った。
嫌悪――――その欲望の何たる醜悪さか。
欺瞞――その弱さを誤魔化す為、他人に犠牲を強いるのか。
否定――――大勢の屍を踏んで来た自分が、一体何を手に入れるというのか。
肯定――――血と、剣と、戦い。絶対的な力の追求こそ本懐だったはずだ。
「……俺は死なない。こんな所で死ぬ事なんて、許されない……」
愚かな衝動を一息に噛み潰し、吐き捨てた。
クライスは、あたかも苦味が広がっていったかの如く顔を歪め、眼前の少女から逃れるように踵を返した。
僅かに覗かせた横顔を見たロザリアは、その場から動く事が出来なかった。
常に平静だった青年が、初めて見せた苦痛に満ちた表情。その一瞬が、切り取られたように少女の胸に刻まれていた。その表情がたまらなく寂しく、そして悲しかった。
ふと、何か大切な事を思い出した少女は、俯き加減だった顔を上げ、少しだけ前を向く。
クライスのいた場所を眺めながら、少しだけ過去を振り返った。
自分一人だけが辛く悲しい思いをしているのだと思い、独りよがりに優しさを求めた。けれど、受け入れて貰えなくて、身勝手に喚いていた。
そして今、目の前の人に何かしたくても、どうしようもなく無力な自分がそこにいた。そして――――
(貴方も、辛いの?……苦しんでいるの?)
ロザリアは、クライスが今は何を思っているのか分からなくなっていた。少なくとも今朝までは、理解していたつもりだった。けれど、今日の出来事で完全に分からなくなっていた。
(どこまでも冷静で、感情を表に出さない人。父の死を前にしても、私が取り乱していても変わる事の無かったその姿勢。もしかしたら、苦しそうに見えたのも、自分の思い込みかも知れない……でも、目に映った事が事実だったとしたら、今、あの人はどう思っているのだろう?)
その内面の真実を確かめたくなったが、出会った時から今日までクライスが何と言って来たのか、どう行動していたのか、良く思い出せなかった。
刻まれた傷が深過ぎて、『あの時』を越えて振り返ることを避けていた。辛過ぎた現実に目を向ける勇気も、受け入れる強さもなかった少女の記憶は、思いのほかあやふやとなっていた。
(あの人の気持ちが知りたい……でも今は……今だけは、どうしても出来ない……)
少女は両手をぎゅっと強く握りしめ、そして、同じ位強く、一心に神へ祈りを捧げる。
「どうか、無事に帰って来て……」
今の少女には理解してもらう事も、理解する事すら出来ない。自分と向き合う事すら出来なかったが、一つだけ確かな事は、もう一度クライスと会いたいと願う気持ちだけだった。
だから、少女はその願いが天に届くよう祈る。そうやって、心の奥から生まれた純粋な願いを、この悲しすぎる世界に放つのだった。
|
|
|