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第一章 07
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一瞬、喉が詰まったかと思ったが、咽返る事も、喉に痛みを感じれなかった。
おかしな事に、発声を遮るものはどこにもありはしない。虚ろな意識が感じ取れるのは、脊椎を中心に末端へ、悪寒がうねりながら這い蹲って行く感触だけである。
背筋を這う感覚に抗いながら、音を鳴らさない喉に触れようと手を動かそうと試みるが、手の動きが鈍い。
いや、鈍い所ではない。まったく動かす事が出来なかった。寒さで四肢が壊死してしまったかの如く、微動だにしなかった。
それだけではない、頭も眼球ですら動かす事が出来なかった。
先ほどのショックの影響が遅れて広がって来たかと思ったが、それも違う。
全身に広がるこの感覚は、それこそ情報の濁流などでは到底説明出来ない。これは、魔導師による精神支配である。
これに似た感覚を少女は過去に味わった事があった。
だが、それも少女にとって壊れた過去でしかない。そこから何かを思い出させる事は無かった。完全に覚醒していない頭で判断出来たのはそこまでだった。何者が、いつ、どうやって自分に入り込んだのか想像に余った。
その声を聞くまでは――――
「あの化物に掛けた術を解け……」
不意に背後から若い男の声がした。凛と響くその声は、明らかに殺意を含んでいる。
全身が硬直している為、背後にある顔を見る事は出来なかった。仮に出来たとしても、この距離では視界に納める前に殺されてしまう。その気配がありありと伝わって来た。
声の正体を探っていると、どこかで聞き覚えのある事を思い出した。だが、それがどこであったかまでは思い出せない。
しかし、嫌な思い出であった事は間違いない。吐き気と頭痛で割れそうな頭が更にその激しさを増し、事実を伝えて来ていた。
「もう一度だけ言う。あの化物に掛けた術を解け……」
再度、刃の切っ先のような警告が発せられた。
だが何を言われようが交渉に臨む選択肢など、少女の中に存在しない。氷雪より温度の低い通告を無視して、混濁した意識で背後の相手を殺す術を模索し続けた。
交渉して時間を稼ぐとか、命を繋ぐという方法を選ばなかったのは他でもない、少女自身がそれを許さないからであった。
命を握った相手の年齢、性別、容姿、社会的地位、交渉材料の有無、利用価値の奈何に因らず、少女はその精神ごと壊し、弄んだ。
精神を操る魔導士にとって、相手の発する言葉に意味は無い。聞きたい事があれば、直接その脳に問えば良いのだ。
必要な情報さえ汲み取る事が出来れば、後は用無しの肉である。
殺す必要は特に無いが、生かす理由も無いので、自らの気分に従って好き勝手に壊す。彼女にとって、人を殺すという行為はそれ位の意味しか持っていなかった。
故に、同質の術を仕掛ける者に対して、会話など無意味である事を熟知している。
侵食を防ぐ為には、精神を完全に支配される前に対抗する防壁を作るか、魔導師の術を止めなくてはならない。
既に身体の自由を奪われている少女が魔導を仕掛けることは困難だった。しかし、完全に支配された訳でも無い。身体の自由は奪われたが、思考はこうして生きている。残された打開策は単純だった。
――――人形を操り、敵の魔導師を消せば済む。それけの話だった。
イングリッドは自分の対面に位置するガーゴイルを通じて、どうにか背後の存在を確かめた。だが、それも必然的な失敗だった。突き付けられた視覚情報は、彼女にとって衝撃的な現実だった。
背後に立つ男は、闇に染まった黒のコートを纏っていた。身体とは対照的な白皙の面が浮かべた青年だった。今し方、空で四散したはずの銀髪の青年≪クライス≫が、そこに居た。
イングリッドは事態を理解する事が出来なかった。あの時、確かにこの男は散った筈だった。
それが生きていて、その上自分を拘束しているとは――――悪い夢でも見ているのか、それともガーゴイルの網膜に焼き付いた映像を拾っているだけなのか。
何にせよ、とても現実を受け入れる気にはなれなかった。
だが、命を握られた状況化では、僅かな思考の停滞も許されない。暗殺者としての本能が、別の可能性を模索し始める。
(変化の……類?視覚を奪わ、れている……?恐怖の対象を、幻視、させられている、可能性も……うぅ、頭が、痛いっ……!)
頭痛に堪えて気力を振り絞ったイングリッドは、全ての可能性を考え尽くすまでも無く、その場にあるヒントを発見した。
そもそも、共有した視覚情報の中に答えは初めから存在していたのだが、男の存在感に気を取られ、自分の自由を奪っている原因を注視出来なかったのである。
敵のだらりと下げた左手、その指先から血の様に赤い5本の線が四肢を捕らえ、そして右手の指先から伸びた血線は、ガーゴイルを捕らえていた。
(呪人形の鋼線・・・!!)
魔導師には、人を操る方法が数多く存在する。それこそ数え切れない程あるのだが、まるで操り人形を操作するように赤色に輝く線を見た時、少女にはそれが如何なるものか明敏に思い出された。
呪人形の鋼線は、血縛呪法に分類される魔導の一つである。身体を支配する為に、まず理力を込めた血液を伸ばし対象の身体に進入させる。内部で血液は相手の血肉と同質のものに変性し、抵抗無く全身を巡り、やがて着いた先々の器官を支配下に置いて行く。
そして、神経の伝達信号として自らの理力を代用することで、対象の身体を思いのままに操る術だった。
血縛呪法自体は言ってみれば古典的魔導であり、分化も激しかったが、多くの術に対して対処法の確立も進んでいた。その特性を理解していた少女は、モザイク柄の如く混沌とした頭の中で、一縷の希望を見出していた。
線化させた術の特徴は、精神を支配するのではなく、身体の自由を奪う事を前提としている点にある。血という物理的な物体を媒介にする為、呪いとして強力な支配力を持つのだが、反面、量に限度があり射程は短い。
加えて、身体を動かす信号が神経間の微弱電流ではなく理力になる為、微細な制御が難しく複雑な動きを取らせる事が出来なかった。
先程の空中戦においてクライスは、ガーゴイルに向けて飛んだ際、その特性を活かし相手の身体を強引に支配していたのだ。
しかし、幾ら血縛呪法が強力な術であっても、相手は神の化身である。あの瞬間で行動を完全に支配下におけるはずがなかった。人間を制御するのとは訳が違うのだ。
ならば何故、クライスは消滅していないのか。
繰り返しにはなるが、相手はヒューレであって完全に操る事は出来ない。しかし、裏を返せば、ある特定の部分では影響を与える可能性が残されていた。
例えば、視覚情報の一部に細工して、実際に動いたタイミングをずらして見せるとか、瞬間的で取るに足らない影響であれば十二分にありえた。
要するにクライスは賭けに勝ったのだ。実際はガーゴイルが背面に現れて、『溜め』を見せた時に即座に血線を延ばしていて、浅くではあったが神経を侵食していたのだ。
そして気付かれないよう、必要最低限の操作で攻撃のタイミングを外させ、ガーゴイルに乗り移った。その後に深く入り込んでガーゴイルの触覚を殺し、人を乗せている感覚を遮断したのだった。
ただ、血線による感覚支配を悟られる覚悟していた。ガーゴイルが気付く事は無くとも、それを操る者には違和感を与える事となり、気付かれて然るべきだった。
ところが、クライスにとって幸運だったのは『人形により、人形が消滅させられる』という事態だ。
結果としてイングリッドは情報に壊されかけ、違和感に気付く事が出来なかった。そして、知らずに知らずの内に、敵≪クライス≫を自分の元へ呼び寄せてしまったのだった。
支配状況を知らずに呼び寄せてしまった時点で明暗は決していたが、哀れにも、少女は事実を知る事無く歓喜に溺れていたのだった。
(殺られる前に殺る!殺られる前に殺る!殺られる前に殺る!殺られる前に殺る!)
だが、一縷の望みを見つけたイングリッドは迷わなかった。口にするよりも凄まじい真っ黒な殺意を放ち、同調した最後のガーゴイルが、少女の想いを代弁するようにいきり立った。
ゴキリッ――――――
突然、骨が砕ける音がした。
イングリッドは、一瞬どこからその音がしたのか理解出来なかった。
身体は一切動かす事が出来ない。背後の男は微動だにしていない。だが、極めて身近な所から鈍い音は襲って来たのだ。
刹那の時を経て、再びガーゴイルから得た視覚情報で原因を知る事となる。つまり、自分の左腕が何の予備動作も無く、肘関節の曲がるはずの無い角度へ捻じ曲がっていたのだ。
確かに呪人形の鋼線は、微細な動きを取らせる事が出来ない。しかし、大きい分なら本人の持てるものより大きくとも、比較的容易に出力が可能だった。
単純に、発揮される膂力は込められた理力に比例した。それは、その量次第で、人間の意識下では絶対に不可能な動作まで可能にしてしまう、という事だった。少女に滑らかなダンスを踊らせることは出来ないが、肉体が壊れる勢いで殴らせることは出来るのだ。
他者の視点から見るその姿は、どこか自分のものではない感覚があった。曲がった腕は、元よりそちらへ曲がる様になっていた、そう思わせる程、見事に明後日の方を向いている。
少女の頭が事態を理解した時、激痛が全身を駆け巡った。
――――!!!!
ガーゴイルが破壊された時とは異なり、少女は絶叫しない。いや、絶叫出来なかった。
口を開く事だけでなく、声帯の自由すら奪われていて、くぐもった音が漏れただけであった。決して痛みに堪えていた訳ではなかった。
人形が爆散した時は、押し寄せる『情報』を遮断する事で乗り切る事が出来た。だが、物理的な痛みは断ち切る術は無かった。
それは誰の物でも無い、少女自身の痛みでしかなかった。少女の両目から大粒の涙が、口からは唾液が止めどなく溢れ出ていた。
不幸な事に、イングリッドには気絶する事が許されなかった。普通の兵士であれば、拷問を受けた時の対処法として、気絶する訓練を受ける。
戦場では痛みに耐えなくてはならないが、拷問などの逃れようもない状況下では、精神が破壊される前に苦痛を切り離す必要があるからだ。
ところが、イングリッドは暗殺者であり、魔導師でもあった。拷問を受けることより、痛みで魔導が使えなくなる可能性を、少女を使う人間は危惧したのだ。
精神支配は少女の専門だったが、何故か自分の心は操れなかった。壊れてしまっている心というものが操作出来ないのか、あるいは魂の片割れに守られた心が拒んだのか定かではない。
ただ結果として、少女は心を更に壊し、痛みに耐える術を植えつけられた。唯それも痛覚を鈍くさせる程度だった。
次から次へと押し寄せる激痛が、彼女を現実に引き止め続けた。なまじ耐性があった故に苦しまなくてならないとは、皮肉としか言い様がないだろう。
痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!
もう少女には戦闘を続ける気力は無かった。ただ、その積み重なった痛みから逃れる事しか考えられなかった。
完全に集中力を失った事で、ガーゴイルを繋ぎ止めていた理力の戒めが砕けた。
ふと自らの意思を取り戻した異形の化物は、先程まで操者の意識に支配されていたとは言え、殺意を向けていた事すら忘れたかの如く一目散に飛び去ってしまった。
かくして、その場に取り残されたイングリッドは最後の希望まで砕かれ、絶望に打ちのめされた。
そもそも、心の壊れていた少女には、希望も絶望も無いはずだった。今日の今日まで他人の死に何の意味も持たず、自分の死すら厭う事は無かった。ところが、言葉にならない恐怖と苦痛に、少女の心が僅かばかり人らしさを取り戻してしまった。
クライスは少女≪イングリッド≫に向けて歩き出した。
雪を踏みしめる音が少しずつ大きくなる度に、形をほんの少し取り戻した少女の心が、無残に切り刻まれていくようだった。
――――自分の命を奪う死神が、直ぐ傍にいる。
そんな恐ろしい想像をするだけで、涙が溢れ出た。身体の自由は奪われ、声を上げることも許されず、無防備な少女の心は蹂躙されるしかなかった。
不意に、少女は自分が過去に似た体験をしていることを思い出した。
狭く暗い部屋で数人の男達に手足を押さえつけられ、口を塞がれ、男達が飽きるまで貪ら続ける――――少女にとって無意味で、とっくの昔に葬り去ったはずの過去だった。脳裏で焼き付いていた記憶が亡霊の様に甦り、再び少女を蝕もうとしていた。
どんなに抵抗しても身体を動かせない恐怖、そのことが混乱に一層の拍車を掛け、少女は極度のパニック状態に陥っていた。
クライスは敵の背後に立った時、その背丈が自分の胸までしか無い事に初めて気付いた。
黒いフードを深く被っているので、性別や年齢を判断することが出来ない。全ては想像の範疇でしかないが、おぞましい想像が浮かんで来た。
(相手は、子供か……?)
相手の年齢や性別を確認したい、そんな衝動が湧き上がるのを抑えた。
泥沼化した戦争では、10歳の子供が剣を取って兵士となる事は珍しくない。男女を問わず、戦力の大小を問わず、全ての人間がその獣性を剥き出しにして襲い掛かって来る。それが人間の戦争だった。
だがそれはお互い様だった。互いに怨恨は無くとも、戦いの輪の中に入った時より、永劫に殺し・殺される資格が失われる事はないのだから。殺し続けてきたくせに、いざ殺される時は許されたいなんて都合の良い話は存在しなかった。
(俺は、何も間違っていない……)
クライスは自己を正当化しながらも、その所業を呪った。不意に左腕を動かそうと試みるが、指先が僅かに動くだけで、殆ど意識とかけ離れた存在となり下がった身体がそこに在った。
刻まれた深き因果≪罪と罰の成り立ち≫を辿ると、決して抜け出せぬ殺人の螺旋がそびえ立ち、目の前が真っ暗になった。
クライスの左眼が、子供らしき敵を相手を凝視した。
銀髪に隠れた右眼はくすんでいて、相手の姿を映してはいない。例え片目であっても映し出す現実は何ら変わることは無いのだが、己の罪が半分になって欲しいと、弱い心が願った。
「人殺しは、どこまでいっても人殺しか……」
消え入りそうな声で呟いては、嘲笑する。この期に及んで、まだ綺麗事にしがみ付いている自分が可笑しかった。先刻は容赦なく腕を切り落とし、これまでも数え切れない命を奪ったというのに。
左手から少女へ繋がった5本の輝く血線、その中で人差し指から伸びる線を消した。
「メルヒオル!助けて、メルヒオル!バルドォ!!!」
頭部の拘束を解除した途端、少女は幼子の様に泣き叫んだ。
「何故、トリスを狙った……」
クライスの問いは短く、擦り切れていた。少女の泣きじゃくる姿にも冷厳として揺らがず、質問を続けた。
だが、相手の耳には届いていなかった。止めど無く『痛みと助け』を訴え続けるが、雪の積もった森の中では反響する事なく、唯々闇の中に吸い込まれていくだけであった。
「答えろ。次は足を折る……」
事実上の死刑宣告だった。これ以上の肉体的負荷に耐えられるはずがない。それを承知の上で、僅かでも情報を得る為に心を凍らせて拷問を続けようとしていた。
正体不明の暗殺者集団、その糸口をようやく掴んだのだ。このタイミングで、その正体を掴む事に失敗すれば、リスクが高まる一方だった。
だが相手の規模や組織体系、拠点や活動の流れが分かれば、一方的に傾いた天秤が水平に戻る可能性がある。暗殺計画を潰す為には、こうするしかなかった。
「嫌ぁぁぁ!止めてぇ!!」
暗殺者ではない、唯の少女の絶叫が耳朶を打ち、背筋が震えた。これがどんな結末を迎えたとしても、暫くは鼓膜から放れず、苛まれるのは間違いなかった。
喋る自由を与えればこうなる事は分かり切っていた。黙らせたまま質問に答えさせる方法も幾つか考えられた。
だが無慈悲に摘み取られる命に対して、せめてその怨嗟でも受けなければ、その魂は報われないのではないか――――こうすることが一時の感傷に過ぎないと自覚しながらも、あえて感情を受け止める方を選択していた。
翡翠色の瞳に決意を宿し、クライスは、ゆっくりと瞳を閉じた。そして左手の親指を曲げようとしたその時、
「止めろ!!」
クライスの死角となる右側面から、悲痛な声が舞い込んだ。
苦痛と絶望、憤怒と悲愴とがその青年を支配していた。自分の半身がどれだけ過酷な仕打ちを受けたか、どれだけ苦しんでいるか、互いを結ぶ絆が距離を越えて訴え続け、彼の内面は大時化の海原の如く感情が暴れていた。
自分の半身が、今まさに粉々にされようと言う時、平静で居られる程にメルヒオルの心は壊れていなかった。
――――感情を殺してでも、人としての心を守る。
それはイングリッドの願いの形であった。
未だ幼い姿の双子の妹≪イングリッド≫。そのガラクタになってしまった心に守られ、自分は正気を保てている。そう思うと、メルヒオルは叫ばずにいられなかった。
「彼女を放せ!」
クライスの眼前に舞い降りたメルヒオルは、力の限り叫んだ。クライスは半身をメルヒオルに向けて剣をだらりと構えた。
「従えば、トリスの暗殺を諦めるのか……」
「手を引こう。なんなら神に誓って良い」
あれだけの執拗に仕掛けておいて、余りにもあっさりとした撤回宣言だった。クライスはここで相手の言う事を鵜呑みにするほど馬鹿正直な人間ではなかったが、爽やかな笑みには余裕が含まれており、可能性を示唆しているようにも感じた。
「その根拠は何だ」
「……我々の標的は貴族――――ひいては支配階級そのものだ。君もここに至る迄に見ているだろう?すでに我々の目的は達せられている。評議員の一人や二人逃したところで、何の影響もないのさ」
話の辻褄は合いそうな言い分だったが、同時に疑念が沸き立った。
(此処で一時的に退却したとしても、完全に諦めるという保証は無い……何か罠か、それとも状況を逆転させる戦力がまだあるのか?)
クライスは、相手の眼を捉えたまま、しばし押し黙っていた。そして凍った一陣の風が吹き抜けると、止まった時間が流れ出した。
「アンタは嘘吐きじゃない……」
風に乗せてクライスの低い声が響くと、メルヒオルの笑顔が更に綻ぶが、
「だが、必要なら何でもやる人間だ」
寸分違わず本性を看破されたことで、交渉は失敗に終わったと悟った。
相手は自分が最後に選択するカードの予測が付き始めている。つまり、人質を活かし、こちらの出す条件に対して一つ上の駆引きが出来るという事だ。ここからはどう転んでも只では済まないのだと、メルヒオルは覚悟した。
だが駆引きに粘り強さは必須である。表面上はあくまでも余裕を保ちながら話しを続ける事で、より良い条件を引き出せる可能性もあった。例え条件が釣り合わなくとも、どこかに隙があれば人質の一人位、強引に奪い返せる自信があった。
しかし、その深い読みは今のイングリッドには伝わらなかった。それどころか、メルヒオルの表層意識から流れ出てしまった『諦め』を感じ取っていた。
「メルヒ――――」
イングリッドが何かを訴えようとしたが、脆くも遮られた。再びクライスの指から伸びた血線が、口を開く事さえ許さなかった。
クライスは少女を完全に無視して、交渉を続けた。
「何故、トリスを狙う?」
「その質問に、あの方は答えたか?」
「…………」
クライスはあのバルドと呼ばれていた男の事を思い出す。不屈の精神を持った暗殺者は、自分の死を直前にしても口を開く事は無かった。
あれ程の人間が世の中にそう何人もいるとは思わないが、この男はこの男で、笑顔の裏に何かを隠している、そう思わせる雰囲気があった。
「まぁいい、教えてやろう。貴族を――――トリス=フォン=アルバディヌを狙ったのは、金や私怨では無い。全てはこの国の未来の為だ」
メルヒオルは主導権を掴む為にあくまで強気に出るが、人質を取られている以上、相手の質問に答えざるを得ない。そしてそれに答える事、それ自体は間違いでは無い。しかし、真実をそのまま話しては駆引きにならない。
徒に時間を浪費するつもりは無いが、ここは忍耐強く会話を続けて糸口を見つける必要があった。それだけではなく、別の懸念材料に対しても手を打つ必要に迫られていた。
(イングリッド……大丈夫か!応えてくれ、イングリッド!)
心の中で、眼前の少女に対して念話を試みる。クライスと対話する一方で、眼前の少女に対して思念で話し掛けていた。
先程の言葉が遮られた時から、イングリッドの気配が異常だった。送られて来る思念に混ざるノイズが酷くなり、その聞こえる音も徐々に小さくなって来てい
たのだ。
(……うぅ、痛い!痛い!痛いよぅ!!)
「お前達は何者だ」
(痛い!痛い!痛い!痛い!畜、生…………殺して、やる――――)
「それは君も想像が付いているんじゃないか?この国で我々ほど魔導の扱いに長けた人材が所属する組織といえば、極めて限られているからね」
(殺してやる……殺してやる、殺してやる!殺してやる!!)
「宮廷魔導士――――ルードリッヒの差し金か……」
良く出来ました、とばかりに微笑むとメルヒオルだったが、決して口では答えない。
クライスは正解とも不正解とも取れるサインに苛立ちを覚えたが、少なくともトリスを狙っていた組織が王宮側の人間である事が明確になった点は意義があった。仮説が立てば、後は外堀を埋めていくだけだった。
「ルードリッヒは何故、同胞である貴族を殺した。何が目的だ」
(落ち着いてイングリッド、怪我は後で治すから!)
(……後で治す?今治しなさいよっ!こんな事なら来るんじゃなかったわ!)
(……イングリッド!?)
やっと話しが通じたと思えば、子供の様な要求と怒りをメルヒオルにぶちまけた。
錯乱しているとは言え、感情の起伏が乏しくなった普段の少女からは想像が出来ない言葉に、メルヒオルは戸惑いを隠せなかった。
(貴方、頭がおかしくなっちゃったんじゃないの?毎日毎日人殺しばかりっ!挙句の果てにこの有様よ、もう堪えられないわ!)
(どうしたんだ?しっかりしろイギー!)
メルヒオルがその台詞を聞いたのは二度目であった。まだお互いの肉体に変化が訪れる以前、イングリッドの心が完全に壊れる前に一度聞いた台詞だった。
その時、何の前触れも無く、クライスの指から伸びていた血線の一つが、プツリと千切れた。
頭部の動きを封じていた理力が外された感触で、クライスは状況の変化に気が付いた。
「お前さえ邪魔しなければ!」
涙目の少女は叫び、全身に理力を開放する――――
全身を駆け巡る青色の濁流が、体内を侵食していた血線を末端から中央、そして外部へと一気に押し出した。汚物を下水へ流すような、驚く程強引な解呪法によって、大部分の血線は取り除かれた。
すると、自ら手で自由を掴んだはずの少女は、戒めから解放された途端、まるで支えを無くしたかの様に膝から崩れ落ちた。
倒れ込んで顔面を打ち付けるすんでのところで、折れていない右腕が上半身を支えた。しかし、衝撃が全身に伝わると今度は内臓が悲鳴を上げ、大量の血液を吐き出した。
――――全身を巡っていた理力の網を、別の理力で洗い流す。血縛呪法の解除手段としては可能な選択肢ではあるが、まともな魔導師ならば絶対に選ぶ事はない。
本来なら、食い込んでいる理力を解析し、反属性の理力をぶつけて中和するのである。
さもなくば、臓器や神経といった重要な器官に侵食した血線が無理やり引き剥がされる事になり、何処かに障害が出る可能性が高いからだ。
少女はそのリスクを無視して解除を決行し、その代償として内臓に多大なダメージを受けてしまった。
もっとも、重要な神経を損傷してショック死しなかっただけ運が良いとも言える。先の人形の消滅でも見せた悪運に、少女は強く守られていた。
イングリッドは白い雪の中に出来上がった血溜りを眺めると、それがあたかも都合の良かった事のように、歪んだ笑みを浮かべた。
「止めるんだ、イングリッド!!」
叫ぶメルヒオルを他所に、イングリッドは再び理力を集め出すと、血の池に直接文様を描き出した。
光る指が、古代の魔導文字をなぞった――――
――――クライスは遅れて、それが召喚の法である事に気付く。
――――メルヒオルは無防備なイングリッドを守る為、攻撃を仕掛ける。
その場の誰よりも早く動けたのは、妹の挙動を把握していたメルヒオルだった。放たれた理力が辺りに積もっている雪に干渉し、一斉に舞い上げた。すると、その姿は個体から液体に変化し、水滴は互いに結合すると、今度は一瞬にして凍り付いて、鋭い刃を形成した。
自然界では有り得ない急速な状態変化にクライスは虚を突かれ、反応が僅かに遅れる。
その生じた僅かな間隙に、薄氷の刃は一斉に向きを揃え、クライスに狙いを定めていた。八方を無数の刃に囲まれ、逃げ場は何処にも存在しなくなった。
氷結短剣 ――――硬度はまさに薄氷そのものだが、その切っ先は鋭く、速度と衝突角度次第では、一撃で致命傷になり得る初級魔導法。
通常ならば、これ程の数を生成するにかなりの時間を要するが、場に満ちている水の理力を利用する事で、一瞬にして成し遂げたのだ。それだけで、あの鋼鉄のような男に匹敵する魔導の使い手であることが伺えた。
それは明確に現れた相手の敵意だった。だが、それでもクライスは相手の意思を問わずにはいられなかった。
「……これがお前達の答えか」
「………………」
メルヒオルは応えない。返答次第で、即座に命のやり取りが始まってしまうからだ。
(釣られて動いた結果だが、一歩優位な状況は作る事が出来た。どちらにしても戦闘は避けえられないなら、イングリッドが作り出したこの機会を利用し、逃げ切る事が最善だ。だがどうする……この戦いが余りにも早く終わってしまえば、バルド様の方に影響が出てしまう……)
笑顔という仮面の下で、メルヒオルは厳しい判断に迫られていた。一つ間違えれば、確実に自分達が殺されるのだと
(イングリッド!ここはやはり、もう少しだけ時間を稼いで逃げよう!)
内なる声はイングリッドに届かない。いや、完全に無視をしていた。瞬きを忘れ、呼吸を忘れ、ただ目の前で動く悪夢を打ち滅ぼすことしか頭になかった。
少女が高速で描かれていく文字は複雑な円陣を型取り、ついに魔導術式は完成を見た。
「(消えろ)」
喉が潰れいて、声が出なかった。
「消・え・ろ」
掠れた声が空気の抜けていく喉を、カラカラと鳴らした。
「消"え"ろぉぉぉぉぉっ!!!」
イングリッドは、折れて完全に明後日の方向を向いている左腕をそのままに、体に残されていたありったけの理力を術式にぶつけた。
過去に幾度となくイングリッドが召還する姿を見ているメルヒオルには分かっていた。
――――この召還は失敗していると。
第一に早急に書き上げた円陣が小さ過ぎる。これでは契約していた人形達を呼び出すには大きさが足りず、亜空間ゲートを通過する事が出来ない。
体の9割がこちらに来たとしても、残りが別空間にあればどれ程強力な人形でも、まともに活動出来ず戦力外となってしまう。
第二の理由として、イングリッドには呼び出すストックが無い。
先の戦いで予め確保していた、最強の駒であるガーゴイルは尽きている。サイクロプスは別の人間からの借りモノであり、自由に操る事が出来ない。
だが、それ以下の予備戦力では、呼び出した所で時間稼ぎにもならない。
そして最も大きな理由は、仮に『最強の何か』を呼び出せたとして、それを制御する精神力が今のイングリッドには無い事だ。
召喚形態は2種類存在する。一つは契約召喚――その召喚対象と理力的な結び付きを持ち、その強力な引力で亜空間ゲートを安定して通過させ、時間と空間を超えてこの場に引き寄せる技術。
もう一つは自由召喚――自ら用意した理力をランダムに接続された亜空間ゲート内に放り込み、その匂いに釣られた対象をこちら側に誘き出す技術だった。
前者は転送・制御、共に安定しているが、持ち駒が無ければ召喚出来ない。
後者はストック自体は無限と言えるが、何が出て来るかやってみなければ分からない。
要は魚釣りと一緒である。餌にした理力の量と質で大まかに釣れるモノは分かるが、それが大きいか小さいか、美味いか不味いかはその場次第なのだ。
更に自由召喚は、対象の意思を従えている訳ではない事も問題だった。
餌を一時的に与えて誘き出しただけの関係なので、従わせるには莫大な餌を与え続けるか、制御する高度な技術が要求される。大規模な戦闘で敵陣の真っ只中に、使い捨て目的で投下するならいざ知らず、戦況が変化するこの場では意味を成さない。
それでも精神支配に特化したイングリッドならば、出て来た相手をコントロールする可能性は大いにある。あくまで『普段ならば』という条件付ではあったが。
イングリッドが書き終えた術式は、自由召喚の文様だった。鬼が出るか蛇が出るか、メルヒオルには事態を見守るしかなかった。
血溜りに刻まれた煌々と輝く白光の文様が、更に激しく踊りだす。
亜空間の向こう側から溢れ出す別の理力に反発し、雷柱の如き理力の奔流が荒れ狂っていた。小さ過ぎるゲートに対して、無理矢理身体をねじ込んで来ているのだ。尋常な状態ではなかった。
多大な抵抗を乗り越え、直径1m程の小さな円陣から最初に出て来たのは、真っ白な翼だった。
「何だ、あれは……?鳥の類か?」
メルヒオルが思わず声に出してしまうのも無理も無い事だった。ソレは徐々に姿を現すと、自然界の動物には存在しない2対、計4枚の巨大な羽を持っていた。
器用に折り畳まれた美しい白羽は、異界の幻獣か精霊を連想させる。
だが、次いで現れたのは人間の頭髪だった。
純白の翼に勝る輝きを放つ見事な金髪は、そこら光が出ているのでは無いか錯覚する程、闇の中でも輝いている。美しい金色の髪は無造作に巻かれ、女性的な雰囲気を醸し出していた。
「まさか……」
今度はクライスが、驚愕の声を上げた。
別の世界から召喚されたソレは、この世界に広がる聖典に記述された天使『ユーシア』の姿を想像させた。
だが、決して聖典にあるように、慈愛に満ちている人類の友である様に感じられない。
その根拠は、顔だ――
それは『作り物の様な』と言った比喩では無く、まさしく人形の顔であった。
輪郭は細く、顎は水平な部分が存在しない位尖っている。眉毛を中心とした産毛は存在せず、ただ陶器の様な白く滑らかな肌が顔全体を覆っていた。
口には薄く唇が存在したが、色は肌と同じく真っ白で、まるで生気を感じさせない。他に鼻や顔のほりといった目立った凹凸が無く、顔の印象を更に薄くしていた。
そして、人の印象を最も左右する双眸は半眼で、眼球が存在しない代わりに蠢く闇が埋まっている。
それは作りかけの人形。人としての特徴を与えられる前の土台。印象が無い事が特徴という矛盾した存在だった。
出現部位は徐々に頭部から首、胸へと体が亜空間を渡って来ようとしていた。
意外な事に、人形の顔から下は普通の衣服を纏っていた。
白い羽と同じ白さをした薄手のローブというゆったりとした服装だが、これは聖典に記述されている姿と同じであり、宗教画に描かれる像と変わりない。
大きな違いと言えば、絵画には両腕が存在し、多くは武器を携えている姿が描かれているが、ソレには肩より先が存在しない点だろう。
上半身だけを見れば、『敢えて腕を付け無い彫刻』を連想させ、不必要なモノを全て剥ぎ取った美術品の美しさがあった。
しかし、肩口から腕を削り取った訳では無い。その証拠に、人間で言えば腰の辺りからそれらしきモノが生えていた。
だが、それは『腕』というより『足』である。鳥類の下肢に見られる特徴――肉を削ぎ落とした細長い骨格、4本の趾骨(しこつ)と鋭い爪、そして鱗の様な皮膚――を持っていた。鳥と人間を人形として冗談交じりで作ったら、もしかすると、こんな造形になるかもしれない。
一般の人間には到底理解出来ない造形美である事は間違いないが――
遠い昔に創作された伝承を目の当たりにしたメルヒオルは、その認識の齟齬に驚愕する。
どこをどう捻じ曲げて解釈したら、眼前の異生物から人類の守護者としての存在へ改変出来るのか、甚だ疑問だった。
一方のクライスは、外観も然ることながら、その理力の異常さを改めて感じていた。
まだ体は上半身しか出ていないというのに、その圧倒的な気配に全身の毛穴が開ていた。冷厳な氷雪の中に長時間漬かっていたはずなのに、手のひらには早くも汗が滲んでいる。
クライスは心から思う――アレを相手にする位なら、今居る氷刃の檻の方が余程マシだと。
圧倒的な力を秘めている根拠は、光って見える相手の髪を見れば、子供にでも理解出来るだろう。その髪は光っている様に見えるのでは無く、本当に光っているのだ。
何もしていないにも関わらず、そこで理力の飽和が起きていて、その一部が光エネルギーとして可視化されているのだ。
あのガーゴイルでさえ、理力を溜め始めて発光現象を起こしていたというのに、この天使もどきは、それを上回る圧倒的な理力を示していた。
戦闘において、保有する理力量の多い方が強いとは言い切れ無い。しかし、奇跡を起こす力――万物に干渉し、その存在を制御出来る力――が戦況を左右する重要因子である事は、純然たる事実であった。
「馬鹿な……アレが人間に制御出来るはずが――」
クライスは魔導の専門家では無かったが、どんな力や法を持ってして操る事が出来るのか、とても想像が及ばなかった。
(あの精神状態の術者に呼び出せる訳が無い……何の因果があって此処に来れた?)
過去の経験と照らし合わせると、全く非常識的な――考えたくも無い仮説が一つ浮かんだ。
「……まさか、俺の力を嗅ぎ取って来たのか?」
――仮に、少女が自らの理力で戒めから抜け出した際、あの一瞬で絡み付いた全ての理力を取り除く事は出来なかったとするなら、体中にある理力を掻き集めて魔導を始動させれば、その中に残り滓が混じる可能性は否定出来ない。その僅かな理力を感じ取り、積極的に召喚へ応じて来たのだとしたら――
召喚に必要とされる理力の絶対量、混在度合い、開かれる門の大きさと性質、そして対象との相性、考えられる可能性を分岐させればさせる程、確率は天文学的に減っていった。
だが、砂粒ほど可能性があれば実現出来てしまうのではないか――常識が通じる相手では無いだけに、そう思えてならない。
(何の確証も無い。だが、アイツの様子からして、この中で因果が一番深いのはやはり俺か)
クライスは、正直に言って逃げれるものなら直ぐにでも此処から立ち去りたかった。
今まで相手にして来たヒューレとは訳が違う。アレは相手にする事、それ自体が間違っている。
しかし、この場から逃げたとしても、また追って来る。自分を殺す為、地の果てであろうと必ずやって来るのだ。
そして、その場に居合わせた者は、間違い無く自分の巻き添えを食らって殺される。そんな事は、例えそれが暗殺者だろうと何だろうと我慢ならなかった。
前回のロザリアは奇跡的に無事だったが、そんな薄い望みに縋る程、楽観的ではなかった。
疼く感情とは反対に、頭の中では警鐘が最大音量で鳴り響いていた。
お前は、また殺される――と。
消え去る事の無い記憶は、そこで刻まれた傷の深さ比例する。だからクライスは、その敵の事を鮮やかに思い出せた。
人間を超越した存在に遭遇した結果どうなったか。
――そう、答えは『いつも殺されていた』が、適切だろう。
襲って来た敵は姿形こそ毎回違っていたが、どれも聖典の天使と呼ぶに相応し
い、神性と恐るべき力を有していた。
だが、クライスとて先の対ヒューレ戦で見せた力は伊達では無い。決して運で勝ったのではなく、常人を超える実力を備えていたからこそである。
それはユーシアに対しても何ら変わる事は無い。勝るとも劣らない力が発揮され、善戦する事もあった。
だが悲しい事に、人間の能力では、絶対的な力の差を埋めようも無い。
長引く戦いの中で執拗に追われ、徐々に追い詰められていくと、些細なミスにより致命傷となる一撃を受けてしまう。
肉を裂き骨が砕かれる感触。雨の様に噴出す血液。遠くなる意識。
死を覚悟した。そうして物言わぬ屍と化す――はずだった。少なくとも普通の人間ならば。
しかし、意識を取り戻すと、心臓の音が聞こえていた。早鐘を打ち、まだ動いているのだ。気付けば、あれだけの執拗さを見せていたのにも関わらず、敵の姿は忽然と消えていてた。
何故、自分は生きているのか――
生きて知りえる者は誰一人いない。何一つ理解せぬまま、今日まで生き残って来たのだ。
他人が聞けば白昼夢と誹られそうな話しではあるが、残された痛みとその代償が、決して夢幻でないと告げる。
意識を取り戻した後に与えられたのは、死ぬ程の激痛と高熱。そして奇跡の
対価として払ったのは、身体の自由。
最初はに失ったのは右目の視力、次いで左腕の感覚が奪われていった。
死の淵を行き来しならがら、生き長らえる――それでも命の対価としては、破格である事は間違いない。
仮に戦場で生き返る事が出来ると言うならなら、皆、悪魔とでも契約するだろう。
けれど銀髪の青年は、そんな起こるかどうかも分からない奇跡に期待した事など、一度も無かった。
確かにこの異世界の怪物は、過去最悪の部類に入るだろう。何せ前回の戦いでは、まったくと言って良い位、歯が立たなかったったのだ。
これまでは一時ならば、まとも戦える自信があったのだ。それがまったく太刀打ち出来ず、重傷を負う羽目となった。
自信と呼ぶにはには、余りにも薄っぺらな礎は、氷結短剣より脆く砕けた。
数ヶ月前の悪夢が脳裏を掠めるが、それでも立ち向かわなければならない理由があった。
――――――私の分まで、生きて。
鳴り響く警鐘の音を割って、悲しそうな声が響く。生命の淵で刻まれた傷よりも更に奥底から届く声は、クライスの衝動を突き動かす。
「おいっ、今すぐあのゲートを閉じさせろ!アレが此処に来たら、皆殺しだぞ!」
クライスには珍しく、怒声を上げて警告した。
「黙れっ!」
焦りから、勢い良く遮ったメルヒオルだったが、内心はまったく同感だった。
イングリッドに内外の言葉が届かない以上、実力行使しか止める手段が無い。
確かに、術者を止めれば召喚は止まる。こちらへ完全に転送されていない今の状態ならば、まだやりようがあった。
だが、今のイングリッドはちょっとしたダメージを与える事で、取り返しの付かない事態になり得る。
メルヒオルはジレンマに陥るが、迷っている時間が惜しかった。
氷刃の制御を放棄し、未だ血溜まりの中で蹲っている少女に向けて走り出した。
主から手放された氷結短剣は、嬉々として目標に襲い掛かる。四方八方
からの一斉攻撃が迫った。
だが、クライスには手持ちの武器をガーゴイル戦で失っていて、剣戟の防ぎようが無い。そもそも、剣を手にしていたとしても、どうにかなる状況では無かった。
剣撃は『線』の動きであり、例え一振りで半月の範囲を打ち落としたとしても、次の瞬間には、頭上や背後から襲い掛かる刃に串刺しにされてしまう。
――故に、クライスはその場で待つ愚を冒さない。
恐れる事無く、氷結短剣以上の速度で前方に突っ込むと、地面擦れ擦れの低い姿勢から、剣の代わりに纏った黒いコートを翻した。
円を描いて舞うコートは空気抵抗を忘れ、氷結短剣を側面から激しく叩き付ける。
反対側が透けて見える程の薄い氷で作られた凶器は、高速で奔るコートに触れると、或いは風圧に横殴りにされると、容易く欠片に還った。
コートが振り抜かれる瞬間毎に、氷刃は無数の破片となって月下に舞う。
唯の一振り ――剣撃の『線』では無く、身に纏った外套による『面』の攻撃――その防御を超えた攻撃によって、氷で出来た檻を破壊した。
しかし、クライスは小さく呻きを漏らす。
高速で移動して射線をずらし、面の攻撃によって殆どの氷結短剣は回避した。しかし、あれだけの数である。全てをその一瞬で退ける事は出来なかった。
左腕上腕部に2本、左足大腿部に1本、短剣が突き刺ささり、じわりと血が外まで滲み出していた。
(重要な器官はやられていない……)
傷は浅く無かったが、どれも致命傷にはならなかった。特に左腕に刺さったモノは、痛みさえ無い。
クライスが足に刺さった短剣を素早く引き抜いた時、先に動いていたメルヒオルはイングリッドに差し迫っていた。
メルヒオルは暗殺者特有の気配を殺した走りを見せ、無くうな垂れるイングリッドの背後へ音も無く回り込んでいた。
衝撃を与え過ぎれば命に関わるが、手を抜いては本末転倒となる。意識のみ確実に刈り取る為、手に最低限の理力を集中させ、頚部を狙った手刀を繰り出す。
(少し眠ってくれ!)
スピードも角度も十分。しかし、その一撃は少女の意識を奪い取る事は出来なかった。
手と首との距離約3cmの所で光の壁に阻まれ、身体に衝撃は伝わっていなかった。
「なっ!?」
この場で防御魔導を繰り出せる者の存在をメルヒオルは知らない。
だが、流れ出る理力の波動が、その主を直ぐに教えてくれた。
転送の8割方を終え、残り脚部のみを異界に残している存在≪ユーシア≫が、召喚者を守ったのだ。何の契約も果たしていない召喚者を。
メルヒオルがもう一撃繰り出そうとした瞬間、氷の刃がイングリッドの脳天を目掛けて飛来した。
結果は手刀と同じく、光の壁に弾かれて少女に届く事は無かった。あっさりと砕け、氷の破片と黒ずんだ血液が舞い散った。
「アハハハハハッ――皆、死んじゃえ!」
僅かに顔を上げ、気が触れた様に笑う少女。その見開いた双眸は、狂気に触れていた。
「緋色の雫――」
氷結短剣を投げ付けたクライスは、自らの血に理力を込めた。
「戒めを穿ち、蝕み、そして――砕け!」
詠唱が終わると、光の壁に付着した黒い血液が赤く輝き、理力を込めた手刀や氷刃も突破出来なかった光の壁に複数の穴が開いた。
すると、穴と穴を結ぶように亀裂が走り、そして砕けた。
「やれっ!」「ごめん、イングリッド」
メルヒオルの一撃は、今度こそ確実に少女の頚椎を捉える。
とんっ、と軽く叩いた様にしか見えなかったが、その一瞬で少女は意識を失った。
それと同時に召喚円陣は光を失い、異界との境界を急速に閉じようとした。
転送が完了していない聖典の天使≪ユーシア≫は、亜空間に吸い込む力により、元の場所へ引き戻される。
「そんな馬鹿な……有り得ない!!」
想像を絶する化物を眼前にしたメルヒオルから、驚愕の声が漏れた。
何と聖典の天使≪ユーシア≫は、召喚者の意思とは無関係に、あくまで抵抗を示していた。
普通の生物なら空間の歪みになど抵抗出来ない。仮に抵抗しようものなら、門が閉じようと横から押す力と、世界が元に戻ろうと引く力によって、身体が千切られてしまうはずだった。
だが、この常識外の存在は腰から生えた腕で円陣を押さえ、状態を維持した。いや、それ以上の何かをしようとしていた。
アアアアア――
その時、聖典の天使≪ユーシア≫が人間の歌声に似た声を発した。辺りにボーイソプラノの美しい2重声が鳴り響くと、頭上の遥か高くに、光の玉が姿を現れた。小さな太陽と呼ぶに相応しい白光に、辺り一面の闇は暴かれ、陰影を強く模る。
光の玉を目の当たりにした瞬間、クライスは危険を顧みず、敵に背中を向けて走り出した。
アアアアアアアアア――――――
更に音程の違う歌声が加わり、多重奏≪アンサンブル≫となった時、小さな光玉は一瞬にして何十倍にも膨張した。
その巨大エネルギーを内包した球体は、回転しならがら更に膨張していき、出口の無いまま回り続ける。一回転する毎に膨らみ、やがて体積の限界を迎えた時、ついに弾ける。
天上で弾け飛んだ小さな太陽から、その欠片が白き大地に降り注ごうとしていた。
激しく燃え盛る紅い破片や、純粋な熱エネルギーを灯す白い破片は、さながら流星群であった。
飛来するエネルギー体と距離が遠過ぎる為、ゆっくりと移動して来る様に見えたが、超高速で落下しているそれらは、瞬く間に大地へ突き刺さった。
木々を砕き、積雪を蒸発させ、大地を吹き飛ばし、生命を消し去る無慈悲な攻撃。あらゆる存在は、その理力の奔流に飲み込まれていった。
次から次へと降り注ぐ理力の塊は、一体誰を狙ったものだろうか。
まるで地上に存在する全ての存在を消滅させるかの様な攻撃は、本当にクライスが標的なのか分からない程熾烈さを極めた。
クライスは氷結短剣で受けた傷のせいで、本来の脚力で逃げる事が出来ない。だが、それでも振り返らず、躊躇いもせず、全力疾走する以外に道は無かった。
「おおおぉぉ!!」
――――訪れる絶対的な危機、抗う命の咆哮。
加速した意識は、瞳に映した世界を超低速で動かした。
――――命を懸けた疾走、目にも止まらぬ速度。
怪我をしている事が疑わしくなる力強さ。それでも光の洪水からは逃れられはしない。
――――変わらず降り注ぐ光、爆ぜる大地。
自らの声すらまともに聞き取れぬ程の爆発音。先の道も、走り抜けた道も、天からの砲撃を受けていない場など無い。
狂喜に踊る心臓、鈍く紫に輝く右目――――まるで震える大地と、胸に刻まれた刻印の共振。光を失った右目に、数秒後に訪れるであろう『消滅』という未来が映る。
無意識に、翳される手――――右目が予知するまでも無く、全身の感覚が『絶望』を感じ取っていた。
思考など何も無い。唯、その描き出された運命に抗うように左手が翳されると、吹き出した闇が、光を喰らった。
動かないはずの左手が、半円を描きながら振り上がり、絶望の未来ごと、光の破片を飲み込んだ。
しかも、消滅させたのはその破片一つでは無かった。その付近に降り注ぐはずだった欠片達は、何の気配も残さず、無音の内に消えていた。
これだけの広範囲に対して破壊を見舞う聖典の天使≪ユーシア≫の力も然る事ながら、それを一瞬にして消滅された力もまた、次元の違うものだった。
自身に起きた有り得ない事態に意識は呑まれ、状況に置いてきぼりをくらう。
左手の勝手な動きによって身体全体のバランスを崩れると、途端に足が縺れた。まったく勢いを殺すことなく、全力疾走の速度そのままで、身体は宙を舞う。
――――そして、成す術も無く派手に転がった。
土が剥き出しとなった大地に引っ掛かり、見事に跳ねる、叩きつけられる、それでも尚転がる。
――――6、7回……8回転し、ようやく止まった。
まともに受身を取れず全身を打ち据えられ、その衝撃に、骨から、内臓から軋む音が聞こえて来た。
よもや身体を開きっぱなしにして転がるとは、全くもって予期していなかった。これ程無様な倒れ方をしたのは、何時以来だったか。うつ伏せのまま、遠い過去に思いを馳せる。
つい最近だったような、遠い昔のような気がしたが、ハッキリと思い出せない。更に奥深くへ探しに行こうとした時、不意に襲った痛みが、まどろみかけた意識を覚醒させた。
どうやら頭を強く打ち付けたせいで脳震盪を起こし、意識を無くしかけていたようだ。
(何秒、気を失っていた……?)
クライスは目の前がちかちかするのを堪え、土埃を被った頭を軽く振って周囲の状況を確認する。
周囲は早くも、以前と変わらぬ静けさを取り戻していた。
だが、吹き荒ぶ風の強さが違う。そして、そこには雪の積もった森では感じ取れるはずの無い、咽返るような土の匂いがした。
身体の悲鳴を無視して立ち上がると、周囲は荒涼とした大地が広がっていた。
降り積もっていたはずの雪は無く、生い茂ったはずの樹木もない。なだらかな起伏があったはずの大地には、無数の陥没が出来上がっていた。
ほんの数分前で変わり果てた風景に、クライスは呆然とした。辺りをぐるりと見渡しても、360度に同じ景色が広がっている。端々に残る木々に宿った篝火が、あたかもそこに存在していたはずの命を示す、弔い火の様に立ち上っていた。
ふと、景色が遠くまで良く見える事に気付く。それもそのはずだった。鬱蒼としていた樹木が失われ、月明かりを遮るものは何も無いのだから。
満月の柔らかな光がクライスの銀髪を照らし、銀細工の様に輝いた。冷たい風が頬を撫でると、長く伸びた前髪の間から右目が覗く。その瞳は普段と変わらないくすんだ緑色をしていた。左腕も同様に何も感じないし、動きもしない。
だが、クライスは直ぐに自分の身体に訪れた現実≪奇跡≫を理解し、恐怖した。
――驚くべきことに、傷口からから流れていたはずの血が止まっていた。
左腕と右足に負った傷は深く、そう簡単に止血出来るはずが無い。だが現実に血は止まり、傷口は閉じていた。唯一、残された鋭い痛みだけが、そこにあったはずの傷を主張していた。
「……以前と同じ、なのか?」
左腕の傷が本当に閉じたのか確かめる為、右手をやると真の恐怖が襲って来た。
纏った黒いコートの下を覗くと、動かなくなった左腕を胴に固定する為の強化拘束具が、金具ごと引き千切られていた。
間違いなく、先程の動作で破壊されたのだ。
自分の身体の一部であるはず腕が、自らの意思を外れて動いた――クライスは、始めてその事実を受け入れるのだった。
同時に、未知なる生物に等しい左腕を空恐ろしく感じた。
(――まさか、俺は前もこうやって助かったのか?)
混乱した頭では、疑問に応えるだけの確かな判断は得られない。
考えあぐねたクライスがふと荒野の中心部を見遣ると、そこだけ綺麗に雪の白と、血の赤が残されていた。
この惨状と呼ぶに相応しい状態を生み出した元凶の気配は無い。そして、それを呼び出した者達も忽然と姿を消していた。
聖典の天使≪ユーシア≫は異界の門の中へ戻され、あの暗殺者達は流星によって跡形も無く消し飛んだ――
状況からすると、そう考えるのが妥当な線だったが、不思議と別の答えが存在する気がしてならなかった。
新たな不安が膨らみかけた時、自分が今、真に意識を向けるべき存在を思い出した。
未知なる敵も、未知なる力も今は関係無い事なのだ。
自分が本当に果たすべき役目は何か、クライスは自身に再度問い直す。
「トリス……、ロザリア……必ず守ってみせる」
――そして、時は『別れ』の時まで巻き戻る。
理力を集中させた右腕が切り落とされ、制御を失った力は暴走した。
その『腕』は、周囲を巻き込んで無作為に爆炎を撒き散らすと、一瞬にして消し炭となって燃え尽きた。
運悪く暴発の巻き添えを食らった周囲の木々は纏った雪共激しく燃やされ、灯火となっていた。そして、一番間近にいた『腕の持ち主』は、枯れ木の如く軽々と吹き飛ばされていた。
揺らめく炎の中、二つの影が踊っている。
その一つは、幸運にも焼き殺されずに済んだトリスであった。未だ爆風と地面に打ち据えられた際の衝撃が体から抜けず、よろよろと体を起こしていた。
もう一つはぎりぎりの状況でトリスの危機を救ったクライスだった。高速移動で乱れた呼吸を整え、炎の中にいる敵を睨み付けていた。
「死ぬなよ」
「アンタがな」
短く最後の言葉をやり取りすると、二人は同時に駆け出す。トリスは指示に従い、真っ先にロザリアの元を目指した。
男の右腕が大爆発した際に受けたダメージがまだ残っていたが、歯を食い縛り身体に鞭を打った。
この場から逃げる事、それだけに集中し、他の事には目もくれずに走る。そして、進路を遮るように生えた木々を避けながら、息を潜めて待っているだろう一人娘を懸命に探した。
だが、辺りは完全に夜の帳が降りていた。差し込む月明かりが所々に輪郭を浮かべるが、それすら届かない木々の密集地など、10m先すら良く見えない状態だった。
名前を叫ぶ事が出来ればまだ違うはずだが、何処に命を狙っている者がいるやも知れない状況だけに、巻き添えの可能性を考えると気が引けた。
「お父様っ!!」
そんな心配を打ち破る様に、走り去った背後から、必死に呼び止める声が飛び出した。
振り返ると、暗闇でも分かる見事な蜂蜜色の髪が目に飛び込んで来た。そして、腕の中に納まる小さな身体と柔らかな髪の感触。
トリスはその重さを実感しながら、こうして再び出会えた事を神に感謝した。
「ロザリア、無事だったか我が娘よ!」
「何が無事なものですかっ!」
反射的に繰り出される怒声。まったく予期していなかった返答に、トリスは目を白黒させた。
「!――何処か怪我でもしているのか?!」
服で見えない部分に傷を負っているのか、はたまた病気でもなったのか。悲観的な想像をするだけで、懸命に走って激しかった動悸が最高潮になる。
しかし、そんな心配を他所に、ロザリアは一転して穏やかな調子を取り戻すと、溜息混じりで語り続けるのだった。
「いいえ、息災です。けれど、この数時間で私は、今後3年分の心労と2年分の過重労働を強いられましたわ……今にも寒さで凍え死するか、胃の中が空っぽになる位吐き出しそう。いっそ、煮立った鍋にでも放り込んで欲しい位だわ」
ロザリアの言葉は、鬱憤を晴らすような棘が剥き出しとなっていた。だが、目を凝らせば、その表情が今まで見た事無い位憔悴しきっていた。トリスは、自分が無関係な娘を巻き込んでしまった事実に、罪悪感と憤りとを感じずにはいられなかった。
「それは災難だったな。屋敷に戻ったら、慰労パーティーを開かなければなるまい」
「当然ですっ!」
ロザリアは再び反射的に、怒声で応酬する。ただ、捻り出された軽口に対して過剰に反応したのは、父親に対する怒りではなく、自身を奮い立たせる為だった。
今ここで父親に甘えてしまえば、きっと自分の足で歩く事が出来なくなる。今にも折れそうな気持ちが挫ければ、立ち直る事が出来ずに迷惑を掛けてしまうだろう。
クライスが必死に戦っている中で、どうしてそんな無様な真似が出来ようか。疲れた心が邪魔をして笑顔は振りまけないが、せめて気丈に振舞っていたかった。
「それより……お父様が無事で何よりです」
「ああ。心配掛けて済まない」
その低く澄んだ声で、ロザリアはようやく心から安堵出来た。父の身を案じて、無理を押して此処まで来たのだ。この場に至るまで、信じられない程過酷な体験ばかりだったが、ようやく報われた気がしていた。
「それで、クライスは何と?」
「お前を連れて先に行けとの事だ」
端的に今後の方針を伝えると、ロザリアは無言で言葉を噛み締める。
「意外だな。もっと怒り出すかと思ったが」
「先程窘められました。お前に何が出来るのか、と」
瞑目する少女は、それでも悔しそうに臍を噛む。
身体は限界であっても、そのブルーヘイズの瞳には強い意志が宿っている。トリスが此処にいなければ、今にも飛び出して行きそうな雰囲気だった。
見守る父親としては、こんな状況にあっても変わらない娘の気丈さに苦笑いをするしかない。
(やれやれ、もう少し大人しくしていると嬉しいのだがな……)
芯の強い娘に複雑な心境を抱いたが、それでも今は心強かった。
「確かに無力である事は腹立たしいが、此処にいてはむしろ邪魔になってしまう。早々に立ち去ろう」
仕方なしに頷くロザリア。
移動しようとした正にその時、怒声が森の中を響き渡る。
「トリスを殺せ!メルヒオル!」
かなりの距離があるにも関わらず、その声は二人の元へ明瞭に伝わって来た。親子は、その鋭い声に思わず身を寄せる。
それは音の大きさでなく、そこに込められた純粋な殺意が肌を通して伝わって来たからだ。
だが、トリスは過去に習ったクライスの教訓を思い出していた。そして、
「私から離れていなさい!」
ロザリアを巻き込まないよう、身体を離し、素早く木を背にして辺りの様子を探った。
幸い、まだ襲撃して来る気配は無い。
高まる緊張から無性に喉が渇いた。慣れない作業は頭を痺れさせ、集中力が切れそうになる。
だが、頭の中で繰り返し糸を繋ぎ直して、いつでも体を動かせるよう維持した。僅か数秒の間であるにも関わらず、緊張が重く圧し掛かっていた。
変化は暗闇を割って現れた。突然、出現した光が落下していった。不思議なことに、此処ではなく、先程の爆発で焼け野原と化した場所である。
白い光が地に落ちると、予想外の規模の爆発が起きる。
「「クライス!」」
二人は同時に思わず叫ぶが、辺りは暗く、おまけに粉塵が舞い上がって状況が掴めない。
固唾を呑んで見守ると、視界が完全に開ける前だというのに、今度は空気を切り裂いて大砲の様な音が連続して響いた。
更なる土埃が沸き立つ事で、収まる所か何が起こっているか全く分からなくなる。だが攻撃をしているという事は、少なくとも相手がまだ生きているという事に他ならない。
ヒステリックに続く砲撃は、たった一人の人間を仕留めようと躍起になっている証拠だった。
鳴り止む事の無い空気の爆ぜる音と共に、土混じりの雪が舞い上がる範囲は広がり、とばっちりを喰らった木々は、幹を軋ませながら次々に倒されていく。
炎が踊り、大地が沸き立ち、木々がひれ伏す光景は、日常と完全に切り離された『劇場』と化していた。
悲劇的な終末を暗示させる光景に、ロザリアは視線を離せずにいた。
「ロザリア、直ぐに此処を離れるぞ!」
ロザリアは弾かれるように視線を向ける。だが口を噤んだ。自分の想像の及ばない出来事が、これだけ起こっているのである。此処にいて出来る事など何一つないと、自分に言い聞かせた。
「……これで後、2年分の過重労働ね」
「それだけの口を叩く余裕があれば、大丈夫だな」
二人はクライスが残した馬に乗り、森の中を駆け出した。
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