T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 06
 
 ブラウニルとその手助けしようという有志を残し、貴族の面々は山を下る道を辿り、歩き出した。比類なき雄姿を見せた者が先陣を切って進む事で、集団は僅かに息を吹き返し、動き出そうとしていた。
 既に太陽は沈み、周囲は闇に包まれ視界を失いつつあった。狭い山道の足元は雪と氷で固められ、状態は良くない。悪条件が重なる中でどれだけの人間が逃げ切れるか、分かれ目は個人の体力と運、そしてブラウニルの努力次第といった所だろう。ただし、これ以上道に迷わず、前方に敵が存在しなければ、という厳しい条件付きではあるが。
 群れを成して進む人々は闇に染まり、穏やかな月明かりだけが、その輪郭を映し出していた。
 辺りの空気は死んだように冷たく、静かだった。物音と言えば、男達が雪を踏み鳴らす足音だけが、森の中に響き渡っている。
 あれだけの出来事の後である、皆、憔悴していた。痛みや疲労を訴えたくとも、その口火を開く気力すら尽きていた。
 ――――死にたくない。
 その想いだけが、男達の足を動かしていた。
 そんな中、トリスは頭に何かが引っ掛かって取れず、思考の迷路にはまっていた。
 (何故こんな事になったのか……)
 トリスは黙々と歩きながら、つい数十分前の出来事を思い返していた。
 (私達はそれまでと変わらず狩りをしていた。各々が成果を評価し、皆の冗談を笑い飛ばしていた。疲労した者は後ろに下がり始めていて、私と先生が先頭に居た。……それから失業状況の推移について話をしていたら、後方で悲鳴が上がり――――あの巨人がいた。それから殺戮が始まって――――)
 冷静に状況を分析すると、トリスは妙な点に気が付く。
 (――――あの巨人は何処から湧いて出た?隠れていたのか?それなら先頭の私達が狙われてもおかしくないはずだが、襲われたのは集団の中央部か)
 襲われた場所はちょうど道幅の狭くなった林道であった。よって、格好としては隊列が細く伸びた所への奇襲という形になっていた。
 (分断が目的だったのか?……その割には知性に乏しい奴だったな。とても流動的な状況に対応出来るとは思えない。あれならまず前方を押さえて――――)
 「――――――卿……」
 (……思い出せ、何か見落としていないか?)
 「――――ディヌ卿……」
 (あれで何人死んだ?もっとまともな戦力があったら被害も少なかったはずなのだが……そもそも何故、護衛の兵がいない?国王を信用していない者であれば、私兵に尾行させているだろう。何故主人を助けに来なかった?)
 ヒューレという神域の存在に襲われる光景を目の当たりにしたら、金で雇われた私兵など、逃げ出してもおかしくはなかった。けれど、それと同等に、逆のことも言える。反対に雇い主の命を救えば、護衛としての価値は跳ね上がる。つまり、報酬も比例して釣り上がる可能性があるということだ。
 危険と貨幣は共存する、それは世の常だ。それなりの人数が潜んでいるであろう状況で、誰も現れないという事態は極めて不自然だった。
 (――――いや、もしかすると来れなかったのか?・・・・・・・・・ それに王の騎士は何をしていた。あれだけの人数がいれば、襲撃にあっても怯みはしないはずだ……待てよ?奇襲で真ん中に割り込んだという事は、失敗したら挟み撃ちになる、それは――――)
 「アルバディヌ卿!」
 引っ掛かっていた疑問に対して答えが出せそうになったが、呼び止める声によって急激に現実へ引き戻された。
 「……どうされましたイズラエ伯爵、大きな声を出されて」
 「それはこちらの台詞です、幾ら声を掛けても聞こえていらっしゃらない様子でしたぞ」
 その荒げた声が焦りの度合いを如実に表していた。考える事に集中し過ぎて、呼び止める声が聞こえていなかったようだ。胸の内では、状況把握を怠った事に対してクライスから厳粛な指摘が飛んでくる思いだった。
 (……やれやれだな、全く)
 「休息を求める声が、多数上がっています」
  トリスには、相手の顔を見た時から何を言いたいのか薄々想像が付いてはいたのだが、実際に口に出されると、溜まった疲労感が増した気がした。
 「あれから随分距離を稼ぎました。どうでしょう、ここで暖を取ってみては」
 「なるほど、確かにこのペースでは厳しかったかも知れませんね」
 トリスの柔らかな口調に、イズラエの表情が輝く。
 「では――――」
 「いえ、足を止める事は出来ません」
 その期待を裏切る判断に、イズラエの表情は急反転した。
 「何故ですか?敵はもういないのですよ?」
 「居ないのでは無く、見えていないだけです。あれは明らかに我々を狙っていた。必ず仕留めに追って来ます」
 そして、相手が口を挟む隙がないように説明を叩き付ける。
 「……それに不自然な点が多過ぎます。どう考えても誰かしらの思惑が働いている。ここで足を止めるのは自殺行為です」
 「ですが、休息を取らなくては全員での移動もままなりませんぞ!」
 間髪入れず、別の若い男が反論を展開した。
 「そうです、体調が芳しく無い方も大勢いるのです。ここで休息を取り、一気に山を下るべきです。そうすれば森の出口も近くなりましょうぞ」
 こんな状況で呆れたことだが、どうやら役割分担は事前に決まっていたようだった。若い男の言葉を口火に、次々とトリスの決断に対する非難が溢れ出した。
 休息のの必要性から始まり、トリスが戦術家ではないこと、助けられたかも知れない仲間を見捨てたこと等、どれも自分達にも出来ないことの責任を押し付けて、楽な選択を正当化するだけの理屈だった。トリスは黙ってそれを聞いていた。
 一見すると、そのどれもがそれなりに正論だった。これが城の会議室であれば、拘泥することもなく、黙って頷けただろう。しかし、それらは机上の空論だ。先の大前提を踏まえていない。
 ――――敵はいないのではなく、見えていないだけ。
 トリスには彼らが自分達の置かれている立場を理解せず、安易な選択をしているとしか思えなかった。既に大勢は自滅する方向へ傾き掛けていた。しかし、ここで折れてしまえば救える命まで取りこぼす事になりかねない。どう考えても迎合する気にはなれなかった。
 「分りました。皆さん、休まれると良いでしょう」
 おお、と僅かに歓声が広がった。
 「しかし、ここにいる全員が同じ判断をしているとは思えません。少なくとも私は、僅かでも先に進むべきだと判断しました。ならば、同じ判断をされた方を連れ、先に進みましょう」
 真っ向から対立した意見に、全体がざわめき立った。
 完全な理屈を用意していたはずの面々が、自分達の意見を快諾出来なかった。
 休憩は欲しい。だが選択を間違えば折角拾った命を落としかねない。そのジレンマが、男たちの決断を鈍らせた。だが、トリスにはその僅かな時間すら惜しい状況であった。
 「休息を取らず進みたいと思う方は付いて来て下さい、私が先導します」
 踵を返すとトリスは再び歩き出す。そして振り返る事は無かった。
 当初は可能であるなら全員救いたいと考えたが、もう誰が付いて来ようとも――――或いは誰も来なかったとしても、構いはしなかった。
 それは、意見が割れた時点で、どう振舞おうとも全員を救う事が出来無い事を理解していたからだ。
 それから数歩進んだその時、それまで点々としていた仮説が急速に動き出し、ある結論を導き出した。
 (――――ルードリッヒはどこで何をしていた?)
 唐突過ぎるが、極々自然な結論が頭の中に響いた。それは何の検証も無い、ただの状況の積み重ねによる推察でしかない。だが、トリスは偏見にも等しい結論を確信していた。
 (大勢の議員が死んで一番益のある者は誰だ?)
 更に数歩踏み出すと、次々にパズルの欠片が埋まっていく。
 (この場所≪ゼノンの森≫を狩りに指定したのは誰だ?)
 急速に頭が冷めていくのを感じる。
 (あの化け物を操れる者がいるとしたら、それは誰だ?)
 ――――宮廷魔導師。
 漠然と投げられた疑問に対して、自身が答えを返した。
 (私の命を狙っていたのは誰だ?)
 ――――凄腕の魔導師。
 クライスの言っていた言葉が、浮かんでは消えた。
 (つまりこれは――――)
 「流石はアルバディヌ卿、明朗な判断をされる」
 トリスは突然の投げ掛けに驚き、咄嗟に振り返る。
 先程と同様にかなり没頭していたはずだが、何故かその男の声は、驚く程明瞭に頭へ入って来た。見れば、背の高い男が一人、いつの間にか背後に付いて来ていた。
 男は黒い毛皮のローブをすっぽり被っていたので表情は良く見て取れなかったが、声からして年はトリスと同年代だろう。だが、僅かに覗かせる眼光が異常な程鋭い。果たして、知己の者にこれ程の男が居たかだろうか。記憶の糸をたぐるも、引き当てる答えはなかった。
 「……それは、どういう意味かな?」
 「いえ、他意はありません。額面どおりでございます。こんな状況下での賢明かつ的確な判断力、そして現象から本質を導き出す洞察力も優れておられる……なる程、あの方が脅威に思われるわけだ」
 男は揶揄や建前で言っているのではなく、事実を冷静に分析していた。それは素直な感想として褒められているはずだったが、トリスの心は浮つかなかった。むしろ、自分の思考を読み取っているかの様な台詞に、見た目とはまた別の不気味さを感じた。
 すると男の背後から別の影が現れた。
 「ァ……ア、アルバディヌ卿……」
 「イズラエ伯爵?どうかされ――――」
 トリスは不意に言葉を詰まらせた。イズラエの異常に気が付いたのだ。
 双眸を異常に見開き、血の気が引いた顔は明らかに体調不良などではなく、もっと別の原因だった。
 「ぅぐぐ……」
 たどたどしい足取りで近付いて来たイズラエだったが、短く悶えると、白目を剥いて地面に崩れ落ちる。地面に倒れこんだイズラエは、口内に溜めた血を吐き出し絶命した。
 「おとなしく休息して頂けたら、こうする必要も無かったのですが、仕方ありませんね」
 黒いローブの袖から出した手には、短剣が握られていた。鈍く輝くの刃には、赤い血が滴っている。泥酔でもしていなければ、それが何を意味しているか理解出来ない者はいないだろう。
 距離が離れていて気付かなかったが、目を凝らすと、男の背後には転がった黒い塊が複数見て取れた。自分の一番近くに居たはずのイズラエが殺されたという事は、残りの者は言わずもがなだろう。
 凄惨な光景に、トリスの胸には怒りと吐き気が込み上げて来た。ただし、頭だけは沸騰させないよう、理性で感情を縛り付けた。こんな時に現実から目を逸らせば、生き残れる者でも死に行く羽目になる――――そう忠告した銀髪の青年の助言を、心の中で繰り返し念じた。
 そして、どうやって時間を稼ごうか必死になって考えた。
 要点は時間を稼ぐことだ。相手を倒すとか、隙を見て逃げるとか、そういう大それた行為ではない。勘違いしてはいけない、肝心なことは生き残ることである。優先されるのは手段ではなく目的だ。
 ハッタリだろうと何だろうと構わない。使えるものを使って時間を稼ぎ、援軍を待つのだ。
 いつ来るのかも知れない、たった一人の援軍だ。彼が駆けつける可能性を信じる――――それがどれだけ勇気のいることか、当事者でなければ到底理解できまい。
 同じ死という運命を迎え入れるにしても、思考を停止させ、玉砕覚悟で特攻する方が幾分簡単だろう。けれど、生き残る為には僅かな可能性にすがり、死の重圧に耐えなくてはならない。持てる格闘技術云々ではなく、トリスの精神力が問われる時だった。
 トリスは震えそうになるの指先を宥め、強張る表情を解し、虚勢を張った。
 「毒殺か……あまり良い趣味とは言えないな」
 「申し訳ありません。私は必殺を信条にしておりますので」
 透明な殺意を宿す暗殺者は、やはり一片の感情も表さず、あくまでも形式的に謝罪した。どうやら精神的に相手をいたぶって楽しむタイプではないらしい。無駄口を叩いていて刺されては本末転倒である。トリスは即座に方針を転換する。
 あれだけの短い時間で20人ばかりを葬ってしまう手練である。まともにやり合って生き残る可能性は、皆無である事を重々承知していた。それでも、トリスには諦める事が出来ない理由があった。
 「最後まで抵抗はさせて貰う!」
 素早く猟銃を構えると、警告無しに引き金を引いた。男は同じタイミングで横に避けていた。この至近距離にも関わらず、銃弾は男を掠めもしない。
 逆に暗殺者は、トリス目掛けて突っ込んで来た。勢い良く突き出された銀の刃が、トリスの胸部に吸い込まれる。必殺に思われた一撃だったが、間一髪、トリスは猟銃の柄で受け止めた。凶刃は木製の柄を易々と突き破り、切っ先が心臓の位置まで到達していた。
 トリスは長身で腕力があった為、どうにか受け止める事が出来たが、本当に毒殺で仕留める必要があったのか疑問を抱く程の威力であった。
 男は短剣を引き抜こうとしたが、深く刺さった刃は思いの他抵抗を示した。動作が僅かに停滞した瞬間を見逃さず、トリスは黒いローブを纏った男に前蹴りを放つ。蹴りを食らった男は、数メートル後方まで吹き飛んだ。
 しかし、幾ら綺麗に入ったところでトリスの脚力で飛ばせる距離では無い。確かに鳩尾付近に当たったはずだが、どうも感触が軽過ぎた。蹴りの勢いで飛んだのではなく、恐らく男が蹴りの威力を相殺する為に、後方へ跳躍したのだ。その証拠に男の表情は揺らぎなかった。
 この男の場合、仮に骨が折れでもしたら表情を変えるのだろうか――――感情の消え去った顔を凝視しながら、トリスはそう思った。
 それにしても、あの絶好のタイミングですら何のダメージも与えられないとなると、両者の間に、何を持ってしても埋めがたい力量差が伺えた。先の攻防は、出会い頭での事故のようなものだ。速攻で決着を付けようとした相手の出鼻を、偶々防げたに過ぎない。
 (どうすれば良い……何か手段は無いのか?)
 実践経験の無い一議員には、何も具体策が浮かばなかったが、とりあえず武器は奪う事が出来たのは一つのアドバンテージだ。この短剣に塗られた猛毒ですら、あの男に対する牽制にならない事は重々承知していたが、トリスは柄から短剣引抜き、屹然と構えた。
 男の手元には取り出した予備の短剣が握られていたが、暫し睨み合いをすると、男が突然、構えを解いた。
 (……どういうつもりだ?)
 答えはトリスの想像を待たず、もたらされる。
 男は右足を前に半身で立ち、右手を突き出して何か呪文のようなもの・・・・・・・・・・を唱え始めたのだった。
 「…………しまった!こいつは――――」
 理解した時には既に手遅れであった。男の手に集められた理力は、空気に干渉すると、何もない空間から、一瞬にして炎を生み出した。周囲の空気を吸い込んで、爆発的に熱量が増した。猛然と伝わってくる熱波は、距離の開いているトリスすら焦がす勢いだった。
 全く失念していたが、クライスが護衛になってから一度だけ命を狙われた時、姿無き暗殺者は、ヒューレを操っていたのではなく、毒殺を狙っていたのでもない――――爆炎で、焼き殺そうとしていたのだった。
 凶熱はその出口を求め、更に踊り狂う。
 「短いお付き合いで残念ですが、さようなら」
 男は事務的な、全く熱を感じさせない死刑宣告をした。


 一秒後には爆炎が放たれ、自分は焼き殺されるのだと、トリスが覚悟した瞬間、一陣の風が吹いた。
 「お前がな――――」
 短い言葉と共に、何かの影が暗殺者の眼前を過ぎ去った。
 唐突に、それを追いかけて一陣の風が吹き荒れる。男が横殴りの強風を防ぐように体を丸めた時、その右腕が、重力に負けて落下した。何の前触れもなく、何かの冗談のように。
 トリスはもちろんの事、当事者である男にすら何が起きたのか理解出来なかった。また、状況を理解する暇もなかった。
 落下した右腕に集まっていた凶熱が制御を失い、外の世界へ飛び出していた。
 男の右腕から溢れ出した炎は元の大きさの何倍にも膨れ上がり、にわかに巨大な蛇となって地面を凄まじい勢いで這い出した。
 炎蛇はまるで意思を宿したかの如く渦巻き、貪欲に標的を求めた。その牙の最初の犠牲者は、最も近くにいた暗殺者の男だった。
 側面から襲いくる巨大な蛇の顎に飲み込まれると、黒いローブの男はその内部で炎と爆風に巻き込まれ、枯葉の如く吹き飛ばされた。
 小物で炎蛇の腹が満たされる事は無い。まるで意思を持った様に縦横無尽に駆け巡り、行く手に在るモノをことごとく飲み込んでは、その超高温の光と熱によって焼き払った。
 一瞬にして丸焼けとなった木々が闇夜を照らす業火となり、初冬だと言うのに、辺り一帯は灼熱の世界と化していた。
 一方のトリスは、男と同様に爆風に飛ばされていた。全身を地面に強く打ち付けられ、防寒用に着込んでいた深緑色のコートは無残に焼け焦げている有様だった。
 けれど悪運はトリスに味方した。多少とは言え距離が空いていたことで、身をかがめるだけの時間があった。トリスはよろよろと身体を起こすと、炎の中に一つの黒い影が立っているのを見つける。
 影は熱と光で揺らめいていたが、近付いて来るに連れて、輪郭がはっきりして来る。
 緊張の一瞬であったが、先に投げ掛けられた言葉がその正体を見極めるよりも早く、トリスに安堵をもたらした。
 「アンタ、ボロボロだぞ。やはり来るべきでなかったな」
 掛けられた言葉には一片の労いもなかった。改まった口調すら無くなっていたが、代わりに僅かな温かみが感じされた。輪郭だけ見えていた影は、次第に懐かしい友人の姿に変化していく。
 懐かしいと言っても、最後に見たのが四時間前――――森の入り口で別れた際であり、最初に見たのは三ヶ月前――――屋敷で大立ち回りをしている姿だった。
 「そうだな。だがあの時の君程ではないさ、クライス」
 不意に、トリスは始めて出会った時の青年の姿を思い出し、皮肉を返す。
 クライスはふと当時の――怪我と乾きで最悪だった時の記憶に触れ、肩を竦めた。
 「十時の方向にロザリアを待たせてある。隙を見て合流してくれ」
 「君はどうするつもりだ?」
 クライスの視線の先では、黒いローブの男≪暗殺者≫がよろめきながらも立ち上がろうとしていた。全身をすっぽりと覆いっていたはずの衣服は爆炎の激しさに耐え切れず、ずたぼろに焼け焦げていた。
 爆炎に耐えられなかったのは何も衣服だけでは無い。男の皮膚や毛髪までも焼き払っていた。全身の皮膚が火傷に赤く爛れ、茶色の髪は焼けて前頭部が禿げ上がっていた。他にも内外に多数の負傷があるはずだが、男は声を押し殺して直立した。
 その眼光は言い知れぬ怒りに爛々と輝き、クライスに対する殺意を明確に表していた。
 右腕を切り落とされ、全身に火傷と爆発のダメージを負い、なおも揺ぎ無い気迫を見せる男の精神力は驚愕に値した。一体どうすればそれだけの決意が結べるのだろうか。戦いに関しては素人であるトリスにすら、この先の戦闘はどちらかが死ぬまで終わりを迎える事はないのだと予感させた。
 「とりあえず、アイツを片付ける。このまま逃げても良いが、禍根は断っておくに越した事はないだろう」
 「……良いのか?」
 トリスは短く問うた。何が、とはハッキリ言わなかった。
 ――――クライスはね、もう誰も殺さないんだって。
 トリスの脳裏を、愛娘≪ロザリア≫の言葉が過ぎっていた。二人がトラブルに巻き込まれた後に見せたという、青年の少しだけ嬉しそうに話す姿を想像した。
 「アンタの気にする事じゃない」
 返って来る答えは分っていた。短い付き合いだがそれ位は理解していた。分っていてもなお、その言葉にトリスは心を痛めるのだった。
 「死ぬなよ――――」
 「――――アンタがな」
 短く返答すると、トリスとクライスは同時に駆け出した。
 暗殺者の男は、あくまでトリスを仕留める気でいた。残された左手に短剣を握り直すし、トリスに向かって駆け出そうと膝を曲げた瞬間、男は前ではなく後ろへ飛んだ・・・・・・・・・・・。クライスの剣が、横一文字に男の胴を薙いでいた。
 (――――浅い)
 恐るべき速度で接近し、繰り出されたクライスの一撃は敵の命を刈るには至らず、胸の肉を僅かに裂くに留まる。
 (バカな!?)
 焼けたローブの下からは、切り裂かれた鎖帷子が見え隠れしていた。もし、何も防具を見に付けていなければ、肉はおろか、内蔵にまで届いていたはずだ。奔る剣線を止めるモノなど何も存在しない。その一撃は、正に疾風であった。
 しかし、この男にとって今の斬撃は、肉体的な損傷よりも精神的な衝撃の方が遥かに大きかった。
 右腕を持っていかれたのは、あくまで死角からの不意打ち――そう思い込み、気を引き締め直しながらも、クライスの能力を侮っていたのだ。ところが、視野の端に入れていたはずのクライスが消え、次の瞬間には自分の目の前で剣を振ろうとしている姿が映った時、全ての慢心が吹き飛ばれていた。
 (後ろに飛び去っていなければ、やられていた……先程の不意打ちは偶然ではない。この異常な速度が成せる『技』だ)
 否応無く実感させられ、男の自尊心は酷く傷付いていたのだった
 この暗殺者は決して弱くない。むしろ、鋼の様に鍛えられた精神を持ち、優れた格闘技術と高度な魔導を極めた熟練の強者であった。
 常人ならば胴体を二つに分断しようかという先程の一撃。最小限の被害に抑える事が出来たのも、この男の実力あっての結果である。しかし、クライスの身体能力は男のそれを凌駕していた。
 男がクライスに対する認識を瞬時に改め、最大限の警戒心を働かせる。だが、時は既に遅かった。相手の意表を突くことで、完全に流れを掴んでいた。
 クライスは剣を振り切った体勢になると、今度は慣性に従いつつ膝を一層曲げ、『溜め』の姿勢に入る。コンマ数秒の後、反り返った弓から矢が放たれるが如く、黒いローブの男を目掛けて放たれる。
 後ろに飛び去っていた男の目に映ったのは、剣を振り切った一瞬の硬直だけだ。その姿が霞み、闇夜を駆ける影が再度突っ込んで来た。
 男が地面に足を付けると同時に、今度は右側面からクライスの剣撃が襲い掛かる。
 だが、鋼鉄の精神を持つ男の集中力は、その動きを捕捉していた。鋭く迫る気配に対し、握った短剣を合わせる。
 男の精神力と身体能力、そして経験が閃光のような剣線を奇跡的に受けた。
 甲高い、金属と金属の擦れる音が鳴り響き、男の手にあったはずの短剣が宙を舞った。
 「ぁぐっ……!!!」
 奇跡的ではあった、だが奇跡は起きなかった。
 男は図らずも呻き声を漏らした。当然である。その二撃目は、短剣を飛ばすに留まらず、男の肘下を半ばまで切り裂いていたのだから。
 一拍子間を置き、ぱっくりと開いた傷口から大量の鮮血が噴出した。骨の中心まで斬られ、筋繊維で腕が繋がっているような状態であった。流石の精神力を持ってしても、人間に耐えられる状態ではなかった。
 「誰に依頼された……」
 男の喉元に剣先が突きつけられ、勝敗は決した様に見えた。だが男は立ったまま無言を貫いていた。男の執念が身体を支えていた。叫ぶことなく、恐慌に陥ることもない。ただ息を荒げ、眼前のクライスを睨み付けていた。
 その揺るがぬ姿に、クライスの方が諦めを覚えていた。誰も殺さない・・・・・・などという馬鹿げた願望を、投げ捨てようとしていた。
  (結局、こうするしかないんだ……)
 何もかも手遅れだった。どんなに後悔しても、どれだけ許しを請おうとも、二度とあちら側に立つことは出来ないのだと、クライスは痛感した。
 そして何も見ず、何も感じないよう、揺らぐ心を凍らせたその時、男の口が僅かに開いた。
 「……お前が逆の立場だったら、答えるのか?」
 口にした言葉は短かった。失血の影響で表情は青白く変わっていたが、意思の強さはそのままに、端的な言葉は男の決意を表していた。
 クライスはそれ以上、何も問おうとはしなかった。
 両腕が無くなりかけても命乞い一つ話さない人間である。『痛み』では、この男の口を開かせる事は出来ないと悟っていたのだ。
 或いはこの男が、本当に何も知らない可能性もあった。暗殺を職業とする者は、通常、金銭で人殺しを行う立場の人間であって、自分の為に殺すのではなく、他人の為に人を殺すからだ。
 自己の大義や快楽の為に暗殺という手段を用いるのは、全体の内のほんの一握りでしかなかった。故に、この男が依頼主の顔すら知らず、単に金銭の為にトリスを暗殺しようとしていた可能性も十分にあった。
 「殺せ……」
 男は呟く様に吐き捨てた。剣先はいつでも喉を貫ける位置にあった。男の要望に応え、クライスは剣を持つ手に力を籠めた。
 後、数センチ押してやるだけで脅威が一つ消え去る。子供であっても無邪気に押し出せば、相手の命を奪う事の出来る状態である。
 ――――この男は直ぐに死ぬ。
 クライスは確信していた。幾ら強靭な精神の持ち主であっても、肉体の死から逃れる術は無い。現に男は死に向かって歩み出していて、もう歩みが止まる事はない。誰も止めることは出来ないだろう。
 ――――俺が腕を切り落としたから。
 自分が斬ったからこの男は死ぬ。だが、斬らなければ死んでいたのはトリスの方だ。相手は殺す気で襲い掛かって来た。現にトリスの仲間は殺された――――それが現実。
 この男は人を殺した、だから殺される――――それは摂理。
 此処は戦場で、殺す者と殺される者がいて、殺す者がたまたま自分で、殺される者がたまたまこの男だった。冷たい感情がそう告げた。
 殺される資格を持つ者・・・・・・・・・・を、偶然殺すことになってしまった・・・・・・・・・・・・・とても運の悪い出来事・・・・・・・・・・だった。暗い感情がそう慰めた。
 クライスは更に手に力を入れていた。それは本来、必要としない力みだ。このまま見守っているだけで、数分後には男の魂は消え、器は唯の肉塊となり果てる。もはや、遅いか早いか程度の問題でしかない。それどころか、明確な結末が見えてしまったこの場合、早々に手を下し、介錯してやる方が慈悲深いはずだと、分かっていた。それでも、クライスは剣を握り締めていた。その手が白くなる程に強く。
 それでも、剣が突き出される気配は無かった。
 ――――迷い?
 俺は、迷ってなどいない。
 ――――後悔?
 今更、戻る道などありはしない。
 ――――諦め?
 こうする以外、術が無い。
 自問自答が繰り返されたが、殆どの答えは、己の行いを是とした。むしろ、それ以外の答えなどないはずだった。そうでなければおかしいのだ。自分を肯定せずに剣を振るうなど出来ない。
 理性が働いていようがいまいが関係なしに、自分の中にある何かが、身体にやれと命令したのだ。だから身体は動き、結果的に人が死ぬことになる。剣を持っている以上、『殺すつもりはなかった』、など言い訳にすらならない。
 剣を振るう事と、命を刈り取る事は同義だ。何の為とか、誰の為とかは、自分の心の秤を平行に保つ為の方便でしかない。本質的に、そこには理屈や言い訳など必要とされない。
 それでもクライスは迷った。己の行為が正しいのか考えた。たった一つ、胸の内で息衝く感情がそうさせた。
 ――――願い≪人を、殺したくない≫
 唯それだけの、大抵の人間にとって当たり前で、当たり前すぎて理解出来ない想いだった。
 銀髪の青年は元々、寂れた村の貧しい家に生まれで、大したものなんて持っていなくて、失えないものがあるとしたら、ちっぽけなその命くらいだった。
 だが、そんな在って当然のモノでさえ、抗わなければ奪われていた。だから、奪いに来る者を殺した。例え殺したくなくても、相手がそれを許さなかった。止めようがない運命を呪い、諦めもした。そうやって心を削って生き延びてきた。
 そんな荒れ果てた心の奥底で、弱々しい願いがまだ息をしている、生きているのだ。
 誰かを殺せば、自分の感情を殺してしまう。今度こそ本当に死んでしまうかも知れない恐怖があった。
 想いを、自分の中の弱さを護ろうとして、クライスは動けないでいた。
 暗殺者の男は、気配の揺れようを感じ取っていた。相手は何かに迷っていて、瞬時に止めを刺しに来ないのだと悟った。
 (甘いな……)
 火傷に爛れた口元を僅かに歪める。皮膚が焦げ付いている為、均等に頬の筋肉を吊り上げる事が出来なかったが、微笑っていた。
  「トリスを殺せぇ!メルヒオルっ!!!」
 瀕死の状態である筈だが、氣の入った声に森の木々が震えた。
 (まさか仲間がいたのか?!)
 クライスは、想定していたはずの第三者の存在が忘れ去っていた。『仲間が瀕死の状態になって放っておくはずがない』、勝手にそう思い込んでいたのだ。
 反射的に、トリスとロザリアが居る方向を振り返る。だが、二人に迫る姿は無かった。距離が遠く、表情は伺えなかったが、何か問題がある気配ではない。
 (また遠方からの長距離攻撃か!?)
 すると突然、想像とは別の角度≪頭上≫から迫り来る強烈な重圧を感じた。
 視線を回すだけの余裕はなく、転げる様に前方へ飛び込んだ。
 刹那、空から急降下した白い光が、大地に叩き付けられた。辺りが閃光に包まれ、大地が爆ぜる。
 クライスは背後で起こった理力の爆発に吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた。
 「くっ……・!」
 地面を転がる勢いを利用し、右手を軸に力技で身体を押し上げた。同時に両足を開いて体を捻ると、空中で姿勢を反転させ着地して、即座に反撃の体勢を整える。視線の先≪爆心地≫は、思わずゾッとする景色となっていた。
 粉塵が舞い上がっていて定かではないが、扇状に広がりながら抉られた大地の深さが見えなかった。判断を誤ってまともに受けていたら、木っ端微塵となっていたであろう破壊力だ。
 そして、視界が開ける前に、今度は空気を裂いて追撃がやって来た。
 その場に踏み止まる事は許されず、膝を曲げた姿勢から更に低く、円を描く様に駆け出した。
 ――ドドドドドドッと、斉射音がその後を追い駆ける。その圧倒的物量は、真っ白な雪の絨毯を蒸し返し、木々を次々に蜂の巣に変えていった。
 その不可視の攻撃は、此処に来る途中で遭遇した人外の存在≪ヒューレ≫による砲弾と全く同じものだが、前回とは様子が違っていた。敵は固まって行動する事が無く、常に移動をしながら3次元的な攻撃を仕掛けていた。クライスの行動の先を読み、方向を変更させては、交差砲火地点に誘い込もうとするのだ。
 (明らかに人間の戦術的要素が組み込まれている……統率者がいるのか?)
 「……次から次へと!」
 クライスは更に速度を高め、駆ける。木々の隙間を蛇行し、可能な限り常に木々を背にすることで自然の盾とした。
 勢いの衰えない猛攻に、巨木達が戦慄き続けた。巨木の幹が砕け、ゆっくりと倒れようとすると、クライスはその上を駆けた。
 そうかと思えば、急停止し、別の木の枝に飛び移る。執拗に不可視の攻撃が追い回し続けた。大気の振動が肌に伝わり、枝幹が砕ける――だが、そこには残影しかない。
 クライスはただ闇雲に走るのではなく、森という場を最大限に活用し、立体的に攻撃を回避していた。その驚異的な脚力と暗闇でも異感無く発揮される空間把握能力とが、奇跡的な回避運動を支えていた。
 組織的な連携に対して防戦一方ではあった。しかし、攻撃の特性を掴んでいるが故に、不可視の攻撃はクライスに触れることすら叶わず、戦況は膠着しようとしていた。



 「ご無事ですか、バルド様!」
 バルドと呼ばれた男と同形式の黒いローブを着た青年が叫んだ。
 「何故、こちらに来た…… トリス=フォン=アルバディヌの暗殺が最優先事項だと、伝えていたはずだ」
 自身の安否を気遣った青年に対して、バルドは怒気をはらんだ叱責を浴びせる。
 対して、重いフードを上げて見せた青年は全く物怖じしてはいない。それどころか、焦りを感じさせる叫び声とはとは対照的に、柔和な笑顔さえ浮かべていた。
 赤褐色の髪と、明るい茶色の瞳の青年は、暗殺業より街で商人を営んでいそうな風情である。緊迫した空気とは無縁の微笑みは、あからさまに場違いだった。
 「一議員など、何時でも殺す事は出来ましょう。しかし、バルド様を失う事は我々にとって大き過ぎる損失です」
 「もう一度言う……トリスを殺すのだ、メルヒオル!」
 メルヒオルは首を横に振る。
 「何と言われようと、バルド様の治療が最優先です。さぁ早く、ここ去りましょう!」
 バルドには頑として聞かない若者に対して、怒り散らすだけの体力も、説得するだけの時間も残されていなかった。口論をするだけ無駄な事を悟ると、潔く引き下がる。
 「……治療を、頼む」
 「お任せ下さい。必ず、お救い致します」
 メルヒオルと呼ばれた青年は、自分より体格の大きなバルドを肩に抱えると、重力を無くしたように跳躍した。
 その足に籠められた理力が重力を中和し、大の大人を抱えながら一歩で数十m、二歩目で百m近く宙を泳いだ。
 激しい戦闘が展開されている場所より距離を置き、バルドを地面に下ろした。
 相変わらず屈託の無い笑顔を浮かべるメルヒオルは、バルドに向けて杖を向けると、今は失われし古えの言葉を紡ぐ。
 「時の流れに逆らいし存在よ――
 短く呪文を唱えると、バルドは柔らかな光に包まれた。無数の光玉が生まれ、まるでシャワーを浴びているように光が降り注いだ。
 すると、奇妙な錯覚に捉われる現象が起こった。
 バルドの周囲を取り巻いた光玉が傷口に入り込んでいくと、あれだけ噴き出していた血液が勢いを止め、一滴の血液も滴りはしなくなった。
 不自然な現象は更に続いた。半ば筋肉だけで繋がっていたような腕の切断面が蠢き出し、肉が踊ったかと思えば、剥き出したとなっていた骨がくっつきだしたではないか。
 不思議な現象は光玉のシャワーが段々と勢いを増すと、比例し加速した。果たして骨は完全に繋がり、次いで神経、血管、筋肉と、二つに別れた左腕が元に戻ろうとしていた。
 奇跡は留まる事を知らず、同じ現象が別の箇所でも起こり出した。頭部や顔面を中心に、火傷を負った皮膚が爛れていたのだが、徐々に炎症が治まり始めると、瘡蓋を作る事無く肌を再生させた。
 その奇跡は『再生』というよりも『時間の逆行』と表現した方が、より適切な表現であろう。局所的に時間を巻き戻す事により、瀕死だったバルドの身体は復元されつつあった。
 メルヒオルは、上級魔導の中でも最も困難とされる『時空』の使い手だった。
 あと僅かな時間で完全に復元されようというその時、悲鳴に似た思念が飛んできた。
 (メルヒオル、まだなの?!こっちはもう限界よ!抑え切れない――)
 (――予想以上に傷が深いんだ…… もう少し頑張ってくれ、イングリッド)
 イングリッドの焦燥は、思念を共有するメルヒオルに濁流の如く流れ込んで来た。叩き付けるような激しい感情に引きずられ、メルヒオルの精神は掻き乱された。
 すると光玉の乱舞が急激に失速させ、時間の巻き戻しも一時の勢いを止めた。
 (――――畜生、こんな時に限って!)
 焦れば焦る程集中力は失われ、光は輝きを失っていく。常人なら慌てふためく様が見て取れそうなものだが、不思議な程、メルヒオルのにこやかな表情に変化は無かった。
 目に見えて効果が薄れていく様を、バルドは眺めていた。バルドには、メルヒオルが激しく動揺しているのが、手に取るように分かった。
 高度な魔導を操るには、常にリスクが付きまとう。奇跡的な効果をもたらす反面、酷く不安定だった。僅かな感情の高ぶりや精神的な揺らぎが、効果を無くすきっかけになるだけでなく、下手をすれば事象の反転を引き起こし、術者自身に跳ね返って来る場合もある。
 魔導とは、鍛え抜かれた精神を持ってして自身を助け、鋼鉄の意志を持ってして初めて他者を救うものであった。
 まだ年若い青年の失敗する様様を眺めながら、バルドは自身の至らなさを悔やんでいた。
 「イングリッドに、何かあったのだな……」
 不意に舞い込んだ言葉に動揺し、メルヒオルの術は完全に止まってしまった。
 「……いえ、彼女なら大丈夫です。それよりも治療を続けなくては」
 メルヒオルは微笑を崩さなかったが、その言葉に力強さが無い。
 「彼女には引くように伝えなさい、あの剣士の相手は私がしよう」
 「いけません!私の時逆の治療≪リバースヒーリング≫は不完全なものです。既に失われてしまっていた血液や器官の復元は、まったく出来ていないのですよ?!今動くのは危険過ぎます!」
 メルヒオルの言葉は正しかった。
 『時間の逆行』は物理法則に完全に反した魔導である為、どれほど技術を持とうと、その効果範囲はかなり限定される。
 局所的に行われるが故に、その範囲に含まれない、例えば流れ出してしまった血液を始めとして、完全に消滅してしまった右腕や一部の頭髪、皮膚は復元されていなかった。
 人間を水の満たされた瓶に見立てたとすると、瓶が割れて水が流れ出した後で瓶を修復したと思えばいい。容器自体が完全に直ったとしても、流れ出た水は瓶に戻らずに、水かさが減っている状態となっているだろう。
 もし、そこに存在したはずの水まで瓶の中に戻す為には、幾つか方法が考えられる。
 一番簡単なのは『散ってしまった水』に対して時間の干渉をすること、水が特定出来ない場合は、散ってしまった水の通った空間に干渉すること、さもなければ、『元々そこに在ったもの』として既定し、仮初の存在に干渉するしか無い。
 後者になる程、間接的に時間を操る必要性が高くなり、干渉効果が圧倒的に悪かった。これは実在する物体を対象として操作するか、空間を対象として操作するかの違いによるものだった。
 ただ、それでもメルヒオルの判断は正しかったと言える。治療としては不完全なものであったが、もし基本魔導である『再生』を選択していた場合、バルドは既にこの世にいなかったはずだ。自己再生力を高める手法である『再生』では、死の淵にある身体を復活させる手段として焼け石に水である。状況を一瞬で看破し、リスクを背負いながらも『時間の逆行』を選択した事は、英断だと言えた。
 「自分の身体の事は自分が一番分かっている」
 「では何故!?」
 バルドは自身の状態を百も承知の上であえて反論したが、それは青年の真摯な想いを傷付け、そして荒々しく焚き付けた。
 だが熟練の魔導師≪バルド≫は、表情一つ変えず言葉を紡ぐ。
 「お前達兄妹は精神を共有しているが故に、他人より敏感に影響し合う。イングリッドが自ら精神を安定させるか、お前が彼女の恐怖を打ち破るだけの勇気を与えなければ、事態は改善されないだろう」
 「……」
 それは事実であり、どちらも今の自分には荷が重い事をメルヒオルは理解していた。沈黙の内側では自分の無力さに苛立ち、表面上は静かに笑っていた。
 「メルヒオル。私はあの方に、トリス=フォン=アルバディヌをこの世から消す事を誓った。それが我が使命であり、次の世代であるお前達を生かす事に繋がると信じているからだ。ここでお前達に何かあれば、それこそ本末転倒となってしまう」
 「……分かりました。ですがバルド様のその役割、私が果しましょう。ここで貴方が倒れてしまっては、私達の誓いが守れません」
 打ち明けられた言葉には、頑なな決意が滲んでいた。
 バルドは清々すら感じる笑顔を見せる青年を憐れに思った。メルヒオルの心は、壊れているのだ。
 矛盾するような言い方ではあるが、精神的には至って健全な青年だ・・・・・・・・・。普段の会話も、彼自身の記憶や情緒にも何ら問題は見受けられない。普通の人間のように喜怒哀楽があった。
 唯一点だけ、何らかの精神的な問題により、どれ程悲哀や苦痛を味わっても笑顔しか作れないという『障害』を患っていた。
 全てはメルヒオルとイングリッドが双子の中でも稀有な能力『精神共有』を持って生まれた事から始まる。精神共有とは、物理的な距離に影響されず、個体間の情報共有を可能とする特殊な伝達法である。情報共有可能な範囲は、短文レベルから表層的な感情、安定していれば深層心理まで把握が出来る優れた伝達手段だった。
 その能力は離れた二人の行動の同調を可能にし、『暗殺』という手段において、その有効性を存分に発揮した。
 完璧な行動の連動は、各々が単独で動くより遥かに効率良く仕事をこなし、裏社会では幼い二人を〝最凶の双子“ と知らしめた。
 だが、精神が成熟しない内に殺人という行為を覚えると、早々に倫理観が破綻してしまう。それは人が社会で生きる上で最大の禁忌を破る事により、集団の中で自律する動機を失うからだ。
 二人も多聞に漏れず、一般的な人の精神を身に付けるには至らなかった。
 心に楔が無く、他者を傷付ける事でしか人に接する術を学べなかった子供は、『殺さない人』に対しての接し方を知らないが故に、社会から拒絶され、そして社会を拒絶した。
 やがて双子の見る世界は、互いの内に向かい出す。その硬く厚い殻の中に閉じこもり、誰もその場に踏み込む事が出来なくなっていった。それもそのはずである、踏み込めば殺される事を知りながら、誰が接するというのだろうか。
 殻の中で腐りつつあった心は、肉体にも著しい影響を与えることになった。
 前述の通り、メルヒオルは例えどれ程苦しくとも、悲しくとも、怒りに満ち溢れていたとしても、笑顔以外に表情を作る事が出来なくなった。
 一方のイングリッドは身体の成長が止まり、その外見は20歳を越えた現在であっても、12~13歳の少女にしか見えない。
 診断した多くの医者が頭を抱え、答えが出せずにいたが、二人には『変化しない』理由が分かっていた。
 それは願いの形なのだ。決して叶うことのない自らの願いが、互いの身体を通じて実現されているのだと結論づけていた。
 イングリッドは当初、暗殺業を嫌悪していた。そして、『人としての感情を少しでも殺せたら』、そう願っていた。
 メルヒオルは当初、大人を憎悪していた。『こんな過酷な運命を背負わせる社会に染まりたく無い』、そう願っていた。
 二つの願いは脆くも崩れた。彼らを囲う大人達がそれを許さなかった。ところが、砕けた願いの欠片が、自分自身ではなく、精神を共有した相手に対して突き刺さってしまった。だから、たった一つの表情しか作れず、成長することがない。
 多くの者はその壊れた笑顔に騙され、『メルヒオル』という人間を勘違いしていたが、十数年の間、魔導の師であるバルドは、青年の笑顔の裏には常に激情が渦巻いている事を誰より熟知していた。
 今も魂の片割れ窮地と治療の失敗に、内心穏やかではないはずである。
 「アイツに正面からぶつかってどれだけやれるか分かりませんが、全力を尽くします」
 「あの男に対して攻撃をしてはならない……対話をするのだ」
 「対話……ですか?」
 「そうだ。彼は万事に容赦無いが、根は善良のようだ。無抵抗の者をいきなり斬り付ける輩ではない」
 「――――分かりました、やってみます」
 素直に返事をしてみたものの、メルヒオルには師の言を完全に信じる事が出来なかった。
 あれだけの戦いをやってのける人間が暴力に訴えず、対話で物事を解決しようという気になるものなのか。
 しかも、こちらは危害を加えた側であり、明確な標的がある事を悟られているだけに、どうしても懸念が晴れなかった。仮に対話に応じるようであれば、善人や臆病者を超えて、聖人に等しいではないか――そう思えてならかった。
 (……何にせよ買って出た役割だ。実際に対峙したバルド様を信じてやってみるだけだ。例えここで命を落とそうとも、目的を果せればそれで良い……必ず、お役に立ってみせる!)
 兄妹に、師に、敵に、標的に、そして自分自身に――――様々な方面に対する不安を振り払い、メルヒオルは歪んだ笑顔を浮かべた。



 ――――何故一つも当たらない!?
 黒いフードを頭から深く被った魔導師の『少女』は混乱していた。
 自分の操る異形の化物は、いつだって人間を挽き肉へ変えて来た。僅かな抵抗する者、あるいは何体か倒しえる者であっても、最後には恐怖に歪んだ顔を見せて少女を悦ばせた。
 それが今回の敵は表情一つ変えず、圧倒的な速度で嵐のような攻撃の中を駆け抜けていた。
 その速さはまさに疾風だった。そのあまりの速度に漆黒のコートが闇に溶けて、姿を何度も見失ってしまう。自分の動体視力では捉え切れない為、精神を共有した人形≪ヒューレ≫の視覚情報を取り寄せ、やっと捕捉出来ているような状態であった。
 だが情報のやり取りをする度に、精神に高い負荷が掛かり吐き気を催した。
 『人形』と成り果てても、対象は人知を超えた神≪ヒューレ≫なのである。人間の扱う情報と比べ、感知している領域が圧倒的に違っていた。
 その中でも、特に視覚情報は桁違いだった。広角な視野、熱や紫外線の感知等の人間には理解出来ない情報が、文字列の濁流となって流れ込んで来た。普通の人間が全ての情報をまともに受ければ、負荷に耐えられず脳が焼き切られてしまう量だった。
 それを防ぐには、必要な情報を取捨選択しながら処理する作業が要求された。だが、無制限に押し寄せる情報を短い時間で調節する事は、困難を極め る。
 しかも、僅かでも油断すれば敵の姿を見失ってしまい、人形への命令が遅れてしまう。否が応でも情報共有速度を優先で処理する必要があった。
 精度を落とした不完全な制御の影響から、人間には理解出来ない情報をノイズとして拾ってしまい、『情報』に酔ってしまうのだった。
 攻撃方法の選択が少なく、複雑な戦術を必要としない相手であれば全て『人形』に任せておけば良かった。目標さえしっかりと植え付けておけば、過程はどうあれ、結果は確実に得られていたのだ。
 しかし、今度は勝手が違った。過去に経験のない状況に陥ったのだ。
 少女の操る事が出来る最高のヒューレであった『ガーゴイル』が、単純な能力差で敗北したのである。
 幾ら操者の補助が無かったとはいえ、相手は軽装の人間一人であり、対するガーゴイルは四体であった。偶然では有り得ない結果を鑑みて、今度は少女自身が直接指揮する事で高度な戦術を展開させていた。連携したヒューレに倒せない人間など存在しなかった。
 ――――だが幼い思惑とは反対に、攻撃が標的に当たる様子はなかった。
 少女≪イングリッド≫には何が起きているのか理解が出来なかった。雨の様に降り注ぐ不可視の砲弾をもってして何故、掠りもしないのか。
 これまでの戦いにおいて、理力を使った高速移動をする者など珍しくはなかった。故にその想定も出来ているし、対策としての戦術も開発していた。
 眼前の敵が過去最高の速度を持っていたと仮定して、それが当たらない『要素』であったとしても、『理由』にはならないはずだ。
 想定と現実のズレに対して意識が回らなくなった時と、少女の内に黒い何かが広がっていった。
 (メルヒオルは何をしているの!?)
 ガーゴイルには常に上空から攻撃を展開させている為、地形的な優位性は確保されているはずだったが、相手はその状況を引っ繰り返して全滅させた実績がある。
 どの様な手段を用いて実行したのか、本当に単独だったのか、体力はどこまで持つのか、実はもう限界なのではないか――――
 ぬるりと這い出した黒いモノが次第に頭の中を満たし、
 「こんなの間違ってる……」
 へどろの様に内側に積った汚物を吐き出すかの如く、イングリッドは声を漏らしていた
 その時、フードの奥から覗く薄茶色の瞳が驚愕に開かれる。
 銀髪の男と視線が合ってしまった・・・・・・・・・・・・・・・
 そんなことがあるはずないと、少女はかぶりを振る。自分はこの森の深い闇に溶けているのだ。この中から見つけ出すなど、湖に落ちた水滴を探すようなものだ。
 出来るはずがない、と呟いた所で、
 ――――でも、こっちに気付いていた。
 そう少女の直感が告げた。
 突き刺さすようなあの視線に、頭の中に広がっていた黒いモノが、ギシギシと音を立てて変質させていった。
 これまで無縁だった理解出来ないだけの存在――――姿を変えたその感情の名を、『恐怖』といった。


 (頃合いか……)
 辺りはガーゴイルの砲撃により無数の木々が薙ぎ倒され、視界が開けて来ていた。
 (――――そこか)
 そこでようやく、クライスは空に浮かぶ影を捉えた。今の今まで逃げ回っていたものだから、まともに視界に収めるのは始めてだった。
 幾らガーゴイルの攻撃が鋭かろうと、これだけ巨木が並び立つ深い森で闇雲に動いて空が開けるはずがない。障害物を排除しようという敵の術中にはまった結果なのか――――いや、そうではなかった。クライスも敵の意図を察していた。敵の背後には人間がいることを知っていて、その思考を的確に読んでいた。
 クライスはあえて空間が広がった方へ方向転換をした。同時に右手で懐から銀色の筒を取り出し、何もない空中へ力の限り投げ付ける。
 数秒の間を空けて、銀色の筒は強烈な閃光を放つ。直視すれば、眼が潰されてしまう太陽の如き光だ。
 その輝きは、全ての闇に溶けた存在を引き摺り出した。
 クライスは光を直視しないよう右手で視界を遮りながらも、ガーゴイルの姿を明確に捉える。
 蝙蝠の羽に蜥蜴を混ぜたような異形の化け物は、辺りを包んだ閃光によって視界を潰され、もがいていた。
 「漆黒の翼よ……」
 右手を頭上に掲げ、自らの理力を引き出す言葉を唱える。すると掲げた右手から、周囲の闇より濃い、黒い光が弧を描き噴き出した。
 形作られた暗黒はまるで鳥の羽だった。しかし、その形状は、空を飛ぶには不完全な翼である。良く見れば所々破れ、歪に歪んでいる。悪く言えば、伝承に伝わる悪魔の羽だった。
 クライスは、流れる様に素早く膝を落とし、伸ばすと同時に闇の翼を振り下ろす。
 叩き付けられる黒い気流。その理力の流れに乗った身体は、弾ける様に空へ舞い上がった。
 瞬きする程の時間でガーゴイルがいる場所まで到達し、すれ違い様に長剣で切り裂く。その勢いはガーゴイルの胴を真っ二つに薙いだ。
 ――――幻聴だろうか。絶叫しながら落下して行く化物の声に、少女の叫びが混ざっている気がした。
 上昇の勢いが止まると、今後は大地の重力に引かれて、身体は急降下を始める。常人であれば気絶してしまう高さだが、クライスの左目は瞬きすらせず狙いを定めていた。
 落下した先には、クライスの姿を見失っている三体のガーゴイル。その中の一体に向けて長剣を突き立てる。
 丁度ガーゴイルの背に着地する形となって、長剣はガーゴイルの背中から胸まで一気に突き抜けた。
 勢いは十分。しかし、なおも絶命しない耐久力を持った化物は、クライスを振り落とそうと必死に暴れる。だがクライスは素早く剣を引き抜き、今度はガーゴイルの首を切り落とした。
 噴出す青緑の血液と、落ちていく蜥蜴のような頭部。人間とはかけ離れた異形なのに、その顔は何故か人間の苦悶を連想させた。
 そして、再び少女の絶叫が響く。今度は幻聴ではない。確かに少女の声が聞こえた。
 絶命したガーゴイルの浮力が無くなり、落下を始めた瞬間、その身体を足場にして三体目に跳躍した。首の無くなった化物は凍える大地へ、クライスは存命のもう一体へ迫る。
 辺りは閃光が徐々に収まりつつあり、ガーゴイルも混乱から抜け出そうとしていた。
 側面から飛び掛ったクライスの斬撃は、ガーゴイルの翼から腰の辺りまで深々と走った。
 「ちっ!」
 クライスは苛立ちを露に舌打ちをする。
 それもそのはず、予定ではガーゴイルの首を切り落とすはずだったのだ。それがガーゴイルの本能的な回避行動により、重度のダメージを与えるに留まった。
 ここは地上ではない。落下しようものなら、死ぬのはクライス唯一人であり、、一瞬のミスが命取りとなる圧倒的に不利な場所だった。
 ガーゴイルの身体に取り付こうと、長剣を捨て手を伸ばす。その蝙蝠の羽に似た巨大な翼を見事に掴んだ。だが、その表情は更に追い詰められた厳しいものになった。
 いつの間にか、もう一体の無傷なガーゴイルが背後に回り込んでいたのだ。
 絶対的優位を確保しつつ、口から耳障りな高音を放っていた。明らかに今までに無い、強力な攻撃をする直前の『溜め』である。
 これまでの速射ですら、直撃を受けた人間の末路がどうなったか、凄惨な現場が脳裏を掠めた。力を溜めた場合の威力等知りようも無いが、恐らく身体の何処に当たろうとも粉塵に帰す事は、想像に難くない。
 (動くのが早ければ、狙い撃ち。逆に遅ければコイツ諸共粉々か……)
 冬の夜空にあって、冷たい汗が滴るのを感じる。ここに来て、クライスは最大限に高まる焦燥感を覚えた。
 ――――仮に剣が手元にあれば。せめて体勢が万全であれば。もっと距離が短ければ。
 無い物ねだりが頭を過ぎるが、すぐさま振り払い眼前の殺意に集中する。
 ガーゴイルに吸い込まれる力は、まさに限界を向かえ、溢れ出る直前の水面であった。
 時を待たずして、ほんの些細な切っ掛けで杯から滴り落ちようとする理力は、その時を待ち侘びるかの様に激しく光りを放っていた。
 暗闇の中で光る粒子の正体は、臨界直前の理力である。
 あらゆる現象の根源とされる理力は、その密度が増して空間に溶け込めなくなった時、一部は光エネルギーとして可視化される。指向性を与えず、純粋な理力を集めると起こる現象であった。
 人間ならば魔導師と呼ばれる存在ですら、理力を溢れさせるには相当な技術と時間を必要とすると言うのに、眼前の化物はその輝きを際限なく垂れ流していた。
 両者の空間は距離にして約10m。純粋な理力が超音速の空圧砲に変換されれば、それが10倍の距離だったとしても、人間の反射神経で捕らえられるモノでは無い。
 例え、耐え切る手段があったとして、この距離では講じる刹那すら存在しないだろう。
 回避する手段があるとすれば、相手の動きを先読みし、なぞるように動く他になかった。或いは、敵が動いた後の残滓に対して攻撃を仕掛ける愚者であれば、それはまた別の話だが。
 しかし、神の化身の前では無意味な祈りである。金色に光るその双眸に、一分の隙もありはしなかった。
 生死の狭間においてクライスの決断は早い。躊躇無く背面の敵に向けて跳躍しようと、四肢に力を籠める。
 しかし、ガーゴイルの人智を超えた異能は、筋肉を収縮させる電気信号すら感じ取っていた。
 所作に呼応して、一粒の雫が力の泉に投げ込まれる。その微々たる力を受け止めた杯は、力を零す事は無い。
 ――――轟ぉぉ!!!
 何の前触れも無く決壊し、集積された全理力が奔流となって襲い掛かった。
 絶対回避不可能な攻撃が、完璧なタイミングで放たれようとしていた。対するクライスも、全感覚で力の流れをつぶさに感じ取っていた。
 クライスは、外敵の攻撃を圧倒的な速度のみで避けていた訳ではない。この人間離れした危険察知能力と、経験によって培われた戦術によって凌いで来たのだ。
 それでも、今この状況においては、感じ取れた所でどうする事も出来ない。
 下半身の筋肉は、収縮から伸張へ滑らかに移行しようとしていた。半死状態のガーゴイルを足場にして、クライスは跳躍する。
 ――――眼前には、冥界への入り口を大きく開けた死神がいた。
 クライスは空中に右手を突き出し、何かを掴もうと足掻く。
 しかし、全ての希望は、掻き鳴らされた極大の咆哮によって霧散した。
 ガーゴイルが発した、人間の可聴域限界の咆哮と、爆縮された空気の炸裂音がゼノンの森を震撼させた。
 爆音は山彦となって、辺りの山に反響する。その余韻が収まった頃には、一帯から生物の気配は完全に消え、静寂と暗黒が凍える森を支配していた。
 一方の上空にあっても、月の光に浮かび上がる歪な影が、その羽ばたきに揺れているだけであった。
 一体のガーゴイルを残して、他の存在は無に帰していた。そこには服の切れ端や体液の欠片すら舞い散ってはいない。文字通り、完全に消えて無くなっていた。
 ――――ぎゃぁぁぁぁ!!!!
 僅かに間を置き、今度はそびえ立つ巨木の根元より、黒いローブをすっぽりと被った少女の絶叫が反響した。
 イングリッドは、遅れてやって来た全身を食い千切るかの様な痛みに、喉を振り絞った。想像を絶する感覚に、全ての息が吐き尽くされても、自力で空気を吸う事すら儘ならなかった。
 だが意思とは無関係に、身体は生存の為の機能として酸素を求め、喉をひゅーひゅーと鳴らしていた。しかし、いつまで経っても上手く吸い込む事が出来ず、肩や胸だけでなく、全身で一つの呼吸を繰り返す。
 衝撃の原因は、少女≪イングリッド≫がクライスを消す事だけに神経を集中させていた為、同時に粉砕した『人形』の精神共有解除に遅滞を発生させたことにある。
 結果として、遅れた分だけ肉体を細胞レベルで消滅させる衝撃の情報が、津波となってイングリッドの脳に襲い掛かった。稲妻に打たれたのと等しい痛みに、全身が総毛立ち、止め処なく汗が吹き出していた。
 過剰な電気信号を受けたことで、全身の筋肉が硬直し、特に細い神経の集中する顔面部は、多大な影響を受けていた。薄茶色の瞳は焦点を失い、閉じる事が出来なくなった口端からは、涎を垂れ流していた。
 幽鬼のように覚束無い足取りの少女は、何も無い所で躓き、地面へ倒れ込んだ。
 操者は本来、大なり小なりその精神を共有した人形と運命を共にする。単に行動を強制させるだけでなく、そこから得られる情報を受け取る程強い繋がりを作れば尚更であった。
 無論、物理的に衝撃を受けるのでは無いから、操者の身体が負傷しての事ではない。
 しかし、操者は人形の受ける『痛み』や『苦しみ』の精神的負荷を分け合う事で、肉体が損傷しなくとも死に至る事があった。
 痛覚が切り離された場合、怪我をしていても健全な状態と同様に振舞う事が出来てしまうが、反対に、肉体的には何の問題が無くとも精神的なショックを受ける事で、身体が機能障害を引き起こす。
 大部分は強制的に遮断したとは言え、流れ寄せた精神破壊の濁流を受けて廃人とならなかったのは、ひとえに僥倖と言えた。
 普段であればここまで人形と一体化などする必要は無く、当人が傷付く可能性は皆無であった。仮に自分の人形が破壊されたとしても、何の感傷もない。壊れた玩具を取り替える作業など、造作も無い事であった。
 だが、イングリッドの感情を支配しているのは銀髪の悪魔と戦った後悔と、失態を犯した自分の人形に対する怨嗟である。
 (畜……生。何で、こんな……目にあわなくちゃ、いけ……ないの?苦、しいよ……、アイ……ツのせい、で!アイツらが……もっと、しっか、りし……ないから、ワタシがこんな!)
 声に出す事が出来ない為、心の中で責任転嫁をしては業火の如く感情をぶちまけ、そして、繰り返し『何か』を呪い続けた。
 程なくして、ガーゴイル≪人形≫より周囲の空間情報が送られて来た。五感を含め、熱源・理力あらゆる角度から探知した結果、全項目で『存在なし』を表していた。
 その情報を感受した瞬間、イングリッドの感情が一転する。
 あの銀髪の悪魔はもうこの世にはいない。これ以上、自分に入り込む不快な感情に怯える必要もない。全て元通りになる。
 「ふふ……ぁはは、あはははははははっ!」
 体調は最悪だった。意識は所々飛び掛けていて、視界は砂嵐が吹き荒れていた。だが、少女は心から笑った。これまでの精神負荷がフラッシュバックして脳を溶かし、言い知れぬ恍惚に浸っていた。
 唐突に、吐き気が込上げた。我慢する暇も無く盛大に地面へ嘔吐するが、それでもなお、少女の狂喜は終わらない。
 吐瀉物が口内を流れ続け、くぐもった笑い方しか出来なかったが、それが今の少女に出来る最大限の表現だった。
 「やった、ついに、やった……」
 ガーゴイルが上空から舞い降りて来た。8体召喚した筈のガーゴイルは残り1体となり、自身も壊れる寸前だったが、少女には対価として満足感があった。
 壊れてガラクタになってしまった歪なこの心を、どうにか守り抜く事が出来た。これで今まで通り人間を壊していける。自分が生きている証明をする事が出来る、そう実感していた。
 (私は自由だ……そうだ、メルヒオル!メルヒオルに言わなくちゃ!)
 「メル――――」
 突然、言葉が途切れた。



 ©Gelcy