T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 05
 
 「少し速度を上げる」
 言うや否や、クライスは馬の横腹を軽く蹴り、速度を上げた。少しと表現したのは彼の感覚であって、貴族の令嬢に持ち合わせたものではない。
 ロザリアは突然の出来事に息を呑み、抗議の声を上げるどころか、奇声を発する事も儘ならなかった。想像を超える揺れに、振り落とされぬようしがみ付く事で精一杯だった。
 トリスと別れて3時間が過ぎた現在、狩りに出た集団と連絡が完全に取れなくなっていた。
 最初の波紋は、狩りに参加していた一人の貴族と定時連絡をしていた商人から広がった。
 両者の関係は、単なる商売上のやり取りであったが、信用を重視していた為、ルードリッヒが決めた制約を無視しして、裏で連絡を取っていたのだ。だが、その連絡係が何時まで経っても帰って来ないという。
 大声で連絡係の無能振りを責める商人の声は、離れた場所にいる別の貴族の耳へ届く。
 その貴族は狩りに参加していたが、早々に脱落した為、使用人を引き連れて帰り支度をしている所だった。余りの喚き様に、その商人を宥めるよう話し掛けたのだが、それが思わぬ方向へ飛び火する事となった。
 集団が獲物を求めて規定のコースを外れ、奥地に進んでいる事が連絡の取れない原因では無いか――その貴族の男が根拠の無い推察を話し出すと、今度は迷信深い男の使用人が叫ぶのだった。
 ――奥地に潜む魔物に襲われているのだ、と。
 その時でこそ、誰一人として使用人の世迷言を信じた者は居なかったが、ゼノンの森に未知なる存在がすると言う逸話を子供の頃から教えられて来た国民の心理を揺らすには十分だった。
 僅かな不安は憶測を呼び、憶測は疑心を招く。そして周囲の空気が薄い困惑に染まり出した頃、誰かが声高に叫んだ。
 ――これはルードリッヒⅡ世の陰謀だ、と。
 猜疑心の塊である王の陰謀――――王家に関わる者達に取って、これ程分かり易い構図は無い。しかし、釣られて騒ぎ出す浅はかな者はいなかった。
 だが人々は周りの動き方を探るようになると、疑心が噂話や流言に変わるまで時間は然程掛からない。混乱で沸き立った人々が、この場から溢れ出すのも時間の問題となっていた。
 そんな状況下、クライスは茂みに留めていた誰ものとも知れない黒馬を躊躇いもなく拝借し、トリスを追跡する準備を整えた。そして、共犯者と成り果せたロザリアは、謝罪の念を残してその場を後にしたのだった。



 既に日が傾き始めて薄暗い森の中を、冷気を掻き分けながら黒馬が疾走する。切り裂かれた冷気は逆襲の如く、二人に襲い掛かって来た。露出した顔を始めとし、爪先や手先はいち早く影響を受けて硬直していった。
 ロザリアは揺れの激しさに吐き気が込み上げ、あまりの寒さに奥歯を盛大に鳴らしたが、決して弱音を吐かなかった。下腹に力を入れて状況に耐えていた。
 か細い少女のあまりの力み様に、クライスは気乗りしない声で助言をする。
 「もっとこちら側に、体を寄せた方が良い」
 ロザリアには、その声色の原因が計り兼ねたが、この拷問の様な状況から少しでも早く開放されたかった。特に考えもせず、即座に身体を密着させていた。
 ――――刹那、ドクンッと脈を打ったのは、誰の心臓だっただろうか。
 それからは二人とも口を開く事はなく、リズム良く流れる馬蹄の音と、馬の荒い息だけが深い森の中に響いていった。
 クライスに身体を密着させてから少しすると、少女の内に不思議な感覚が芽生えていた。
 馬上は雪国生まれの人間ですら弱音を吐く寒さだ。一刻も早く屋敷へ帰り、マリーの入れるロゼット産の紅茶を飲みながら、暖炉の前で皆と戯れていたかった。なのに今は少し違った。
 早く帰りたい。でも――――初めて感じる風の強さと、自分が荒馬を乗りこなせているという実感、そして自分でも良く分からない位に早くなっている心臓の鼓動――――この未知なる感覚を味わい続ける事の方が、暖かな家に帰る事よりも魅力的に思えていた。
 ロザリアは走り出した時こそ、あまりの速さと揺れに驚いて声も出せなかったが、今は吐き気を我慢して声を出す位の余力が生まれていた。
 蜂蜜色の長い髪をなびかせた少女は、凍りついた睫毛を僅かに伏せると、呟くように言葉を漏らした。
 「ねぇ、クライスはどうして騎士になったの?他に――」
 無意識に発した台詞が、どれだけ状況に相応しく無いか瞬時に悟り、言葉を詰まらせた。
 眼前の青年は何も応えなかった。襲い来る風は強く、その叫びは激しい。自分の小さな声など掻き消されてしまったものだと安堵した瞬間、クライスがゆっくりと口を開いた。
 「君は何故、貴族をしている」
 質問に対して質問を返す青年の表情を、後ろから見る事が出来なかった。だが、きっと苦々しい表情をしているのではないかと、そう心優しい少女は思った。
 「そんなの分からないわ……この家に生まれて、気付いたらそうなっていたんですもの」
 「俺も同じだ。気付いたら人殺しを始めていた。騎士になったのも成り行きだ。別に望んだことじゃない」
 実際の所、クライスは苦々しい表情などしていなかった。本当に、一握りの興味もないのだろう。さもなくば、冗談であっても聖騎士という地位を、ゴミ溜めへ吐き捨てるように扱えはしない。冷たい風に青年の美しい銀髪が持ち上げられ、普段は隠れているくすんだ右眼が覗いた。元は反対の眼と同じ美しい色をしていたが、水晶体が濁ってしまった今では使いものになっていない。濁った瞳は、そこに宿る筈の感情を映さず、全て淀みの中に沈んでいた。
 ロザリアは、その自虐的な言葉がひどく癇に障った。例えそれが事実だったとしても、聖騎士は世界中で畏敬の的なのだ。聖騎士という制度のないこの国でさえ、そこを目指す者がいる。その者たちに失礼だし、何より、クライスとて何の苦労もなく手に入れた地位であるはずがない。過ち≪人殺し≫を侵してしまったことも、決して軽々しく扱えることではないはずだ。
 「貴方にとって、人の命はとても軽いものなのね」
 「ああ、命なんて安いものだ。どんなに足掻いたところで、力のある奴が吹けば消し飛ぶ」
 「……闇に浸るクライスは嫌い」
 クライスの達観した物言いを、ロザリアはあっさり切り捨てた。あらゆる出来事を当然のように受け止めるクライスが、どんな過去を抱えているのか、聞かずともその底知れぬ深さだけは分かる。そして、理解出来るが故に、その在り方に対してイラついてしまうのである。
 「貴方には、誰よりも光の祝福が似合うわ。私が保証しても良い、貴方は表に出てくるべき人よ」
 クライスに返す言葉はなかった。
 「もっと自分を許してあげて、貴方は――――」「君は俺の何を知っている」
 続く言葉に耐え切れず、クライスは鋭く遮った。これ以上訴えかけられたら、自分の中で何かが崩れてしまう――――そう直感的に感じ取り、聞き流さずに遮った。
 熱の冷めやらぬロザリアだったが、自分の話が一方的に遮断された事で、少しだけ冷静になって相手を見ていた。そして、
 「私は貴方の秘密を知っている、それだけで充分だと思いますが?」
 弱点は攻める為にあるのだと言わんばかりにむし返した。
 再びクライスは口を閉ざすしかなかった。そして今度は本当に苦々しい表情を浮かべた。強く引かれた口元には、うっすら後悔すら浮かんでいる。
 思いの他の効き目に、更なる口撃を仕掛けようとしたロザリアであったが、反撃とばかりにクライスが馬を急加速させた為、出てきたのは女の子らしい悲鳴だった。


 クライス達は雪道に残った馬蹄の後を目印に追って来たが、ついに集団を視界に捉えた。だが、何か様子がおかしかった。
 気勢が向かう先が、地図からすると進行方向ではなく、後方に位置するこちら側だ。本来の進行方向から引き返し、勢い良く馬を走らせて来ていた。その雰囲気は、馬も騎乗者も尋常ではない。
 ある者は恐怖と生への執着心で顔を醜く歪ませ、またある者は叫び声を上げて周囲へ無用な混乱を伝染させながら、我先にと駆け出していた。
 とても呼びかけて止まってくれるような空気ではなかった。取り急ぎ、正面衝突を回避する為、クライスは馬を脇道へ寄せる。
 クライスは集団が走り抜ける様をじっと観察する。状況はどうあれ、この中にトリスが居れば合流し、立ち去れば良い。そうでなければ、更に進まなくてはならなくなる。
 混沌とした集団を前に、クライスは次の展開を想像していた。仮に予想通りなら、ロザリアを連れて来たのは失敗だった事になる。表情にこそ出さなかったが、認識が甘かった事を恥じた。
 従者にでも送らせれば、これ以上深入りする必要も無かった。これから目撃するであろう、この世界の闇を知らず生活が出来たかもしれない。
 クライスは、しきりに自分の中へ踏み込んで来る少女が苦手であった。だが、貴族という立場はどうあれ、個人を嫌悪している訳ではない。むしろ諦めかけていた希望を思い出させてくれた経緯もあり、色々と感謝していた。自分とは正反対の存在。何の汚れも知らない少女。美しい蜂蜜色の髪をした少女をどう形容すれば良いのだろう。
 もう間もなく、最後尾が駆け抜けて行こうとしていた。しかし、トリスの姿は未だ確認出来ない。
 首を僅かに捻り、左眼の端で後ろに座る少女を捉える。ロザリアは視線に気付き顔を上げるが、クライスは何事もなかった様に視線を戻した。
 (もうどうする事も出来ない……いい加減、覚悟を決めろ――)
 「頼むから、俺の背中に吐かないでくれよ」
 「え?」
 狂乱の最後尾が駆け抜けた瞬間、クライスは馬の横腹を軽く蹴り上げ、横道から飛び出す。僅かに反応が遅れたロザリアは、加速に負けて再び上体を反らす事となった。
 相変わらず気分は最悪で、振り落とされないよう必死にしがみ付く少女だったが、数十分前とは異なり、僅かながら余裕があった。急発進や未体験の速度、想像以上の激しい揺れ、どれを取っても驚きと苦痛の連続だったが、何とか耐えられそうだった。
 自分の適応力も捨てたものではない、そう思い付いた矢先である。
 馬が突然、跳ねた・・・・・・――――
 ロザリアは一瞬、自分が地上の何処にいるのか分からなくなった。周囲の景色は明らかに視点が変化し、宙を舞っているのだが、突然の出来事に感覚が付いていかなかった。
 少女の意識を現実に引き戻したのは、他でもない少女自身の呻きだった。大地に着地した反動が内臓を押し潰し、呑み込んでいたはずの息も全て吐き出された。
 ロザリアの苦悶を他所に、馬は乗り手の意思に応えて更に加速していく。クライスは片手ながら見事な手綱捌きを見せていた。下半身は強靭な両足で体を固定し、上半身はそのバネで揺れをいなし、絶妙なバランスを保っていた。
 速度が上がると馬上は更に激しく揺れ、ロザリアを地獄の揺り籠に突き落とす。
 激しい嘔吐感に抵抗しながら、目前の状況を確認しようと左脇に顔を出した瞬間、今度は正反対の方向へ、強引に振り回された。
 馬が何かを避ける為に、サイドステップをしたのだ。強引な動作に少女の筋肉は悲鳴を上げた。
 辺りは薄暗く、あまりの速さに『何』を避けたのか分らなかった。だが、どんなに辺りが暗く、馬上で嵐が巻き起こっていたとしても、眼の端に映るもの位は嫌でも気が付いてしまう。
 辺り一面は、積雪により真っ白なはずだが、所々に赤く斑模様が施されていた。それが何を意味すのか、理性では理解出来るはずだったが、感情が必死に否定していた。
 (そんな事があるわけない。狩りをしていたのだから、きっと野生の獣か何かの……)
 上下だけでなく左右にも振り回されたロザリアは、既に混乱の頂点に達していた。それ以上の情報を受け入れるだけの余裕はなかった。
 しかし、クライスは少女の感情を否定するように、どこまでも冷たい現実を突き付ける。
 「あそこに転がっていたのは、貴族の護衛達だ」
 「どうして、そんな事……」
 「どこの戦場でもそうだ、身なりで判断が付く」
 駆け抜ける森の街道には、馬蹄と風を切る音が響き渡っていた。隣にいる者の声でさえ聞き取りにくい筈だが、呟く様なその声は、明瞭に少女の耳に届いた。
 そんな事が聞きたいのではない、そう言わんばかりの顔をロザリアはしていた。
 何故あの様な姿に成り果てたのか、その問いに対しての確かな答えをクライスは持っていない。ただクライスには、何が人間を唯の肉塊に変えてしまったのか想像が付いていた。
 点々と転がっている死体には、幾つかの共通点があるのだ。
 何か大きな力で潰された様に変形した外傷があるものと、こぶし程の穴が空き失血しているものの、2種類が存在した。
 それ以外に目立った裂傷や打撲の類が見られない事から、殆ど一撃で殺された事が分かる。死体が帯状に配置されているのは、集まっていた所に急襲され、まともに反撃出来ずに逃げ惑う所を背後から一撃、そんな所だろう。
 この激しく損壊した死体は人の手によるものではない、そして野生の獣の仕業でもない。
 人智を超えた存在、それを神と呼ぶのであれば、それはきっと『神』なのだろう。だがそれは人が敬うべき神というより、忌むべき悪魔を連想させる。
 『地獄からの使者』『戦場の死神』、様々な呼び名が付いた異形の怪物に対して、戦場を縄張りにする者達の間では、『遭遇してしまったら戦うより、祈れ』、とまず教えられる慣わしがある程である。
 神という名の怪物は、総じて『ヒューレ』と呼ばれていた。
 この惨劇もヒューレの手によるものなのか確信はなかった。他の可能性を考え出すと、数ヶ月前に遭遇した敵の姿が脳裏を過ぎった。
 (アレとは違う……アレが襲って来ているなら、もっと別な形の死体が出来上がっているはずだ)
 振り返れば、既に周囲に降り積もった雪よりも白い少女の顔色があった。
 日が完全に落ちて急激に暗くなったゼノンの森は、気温が刻々と下がっていく。更に馬上で凍った風に晒され、体温は奪われ続けていた。
 そして生まれて初めて体験した激しい揺れと、死体の直視という出来事は少女の心と体の両方に深刻なダメージを与えていた。懸命にしがみ付いて耐えているが、限界が近い事は明らかである。
 (トリス、何処にいる……!?)
 はやる気持ちを抑えながら、更に森の奥へ進めようとした時、周囲の空気が変化した事に気付く。
 冷たい空気を切り裂いて注がれる視線は、殺意の塊であった。咄嗟に周囲を見渡すが、姿は見えない。こちらは馬で移動しているにも関わらず、視線はどこまでも纏わり着いて来た。
 クライスは馬を急停止させると、五感を全開にして警戒を強めた。
 「どう、したの……?」
 憔悴しきったロザリアは、不安の色を隠せずにクライスを見詰める。
 「敵がいる」
 「敵……?敵って、誰?何処にいるの……?」
 「……分らない。だが近い」
 言葉を終えると同時に、クライスは反射的に首を捻り何かを交わす。
 同時に後方で樹木の破砕音が鳴り響くと、飛来物より僅かに遅れ、甲高い音を耳にする。
 後背に密生していた針葉樹の一本に、何か経口の大きな銃弾がぶつかった様な傷が深く刻まれている。大人のこぶし程の大きさである跡は、死体に刻まれていたモノと酷似していた。
 何かがぶつかった衝撃により、木に積もった雪が大量に宙を舞っていた。微細な結晶達が月明かりに照らされて、きらきらとか細い光を放ちながら降り注いだ。
 驚くべきことに、クライスは不可視の攻撃を耳にするよりも早く、眼で物体を捉えるよりも更に早く、肌と直感で感じ取っていた。仮に避ける事が出来なかったら、クライスの頭部にはこれと同じ大きさの穴が空いていただろう。
 (何が飛んで来た?銃弾か?だが何にせよ―― )
 敵の姿を視認する事は出来なかったが、クライスは即座にロザリアを片手で抱え、馬上から飛び降りた。
 黒いコートが軽やかに舞った――――そして静かに着地すると、澱みなく空間の開けた林道から、障害物の多い横道へ駆ける。
 一直線に走り出すと、その足跡を追うかのように、次々と不可視の攻撃が襲い掛かった。一撃毎に、まるで地面が爆発したかの様な衝撃が起こり、積雪だけでなく、その奥底に眠っていた大地まで呼び起こした。
 クライスの左手は神経がほとんど死んでいる為、右手一本で少女を肩に抱いて走った。
 逃げ込んだ脇道には、踏み慣らされていない粉雪が綺麗に寝そべっていた。少女の体は驚く程軽かったが、それでも雪に足を取られ、速度を落とさざるを得ない。
 だが、速度を緩める事も立ち止まる事も許されない。僅かでも速度を落とせば、あの樹木と同様の――――否、あの雪道に転がっていた死体と同様の運命を辿る事になる。
 流れ弾で滅多打ちにされた針葉樹は、次々と倒されていく。不意打ちから始まり、一方的に攻撃され続ける状況は圧倒的に不利だった。
 幾ら厚手のコートを羽織っていようと、あの破壊力の前では気休めにもならないと、戦闘の経験がないロザリアにすら理解出来た。
 クライスの背にしがみ付いた少女は、不可視の攻撃が眼前を掠めていく度に『死』を連想してしまう。それに抗うよう幾度も、心の内でクライスの名前を呼ぶのだった。
 とは言え、クライスは成す術も無く、ただ逃げ惑っているだけでは無かった。
 (攻撃は不可視、だが直線的。速度B+、破壊力B、影響範囲D。敵の数は上空に3……いや4つ気配。あの数が最大限の攻撃を仕掛けていると仮定して、連射性はC前後。機動力は高くない、集団行動をしているが統率は皆無。距離は――約100m、か)
 敵戦力の分析を殆ど済ませ、瞳の奥では反撃の狼煙が立ち上っていた。
 「文句は後で受け付ける」
 言うや否や、ロザリアを敵の死角になる樹木の陰に、そっと放り投げる・・・・・・・・
 敵の攻撃をかわしながら疾走しつつ、しかも片手で担いでいては仕方の無い事ではあった。一応は罪の意識があったのか、クライスは律儀に一言を添えてから反撃に転じた。
 恐らく、生き残った後の事を考えての事だろうが、勢い良く放り投げられた方としては・・・・・・・・・・・・・・・そうもいかない。
 ロザリアは、凍って硬くなった雪の上を転がりながら、受身を取る事で精一杯だった。しかし、脳裏ではこれまでの自分に対する扱いが一回転毎に、まるで走馬灯の様にフラッシュバックしていた。
 回転が止まった時、少女は丁度うつ伏せの格好となっていた。体中に痣が出来てしまうのではないかと思う程の衝撃で身体が起こせなかった。その代わりに、ふつふつと湧き上がる怒りで全身に纏わり付いていた雪が溶け出し、少女の言い表しがたい怒りを物語っていた。
 クライスは、前面の敵からの殺気に加えて、後背からの新たな殺気を受け止めながら前進する。
 攻撃の間隙を見計らい、左右へ短いステップを踏みながら、敵の方向へ疾走する。雪の影響を諸共しないその速度は、少女を抱えていた時の比では無かった。
 唯でさえ黒いコートは闇に同化し易かったが、その速さが加わると姿が霞み、影が動いている様に見えた。
 だが、敵はその常人離れした動きにも反応していた。正面から突っ込んで来るクライスを八つ裂きにしようと、殺意を剥き出しにする。
 相手への最短ルートを辿り、一撃を加える――――
 戦術上、成功すればこれほど精度の高い攻撃が可能になる状況はない。だが、失敗した際のリスクは、比例して飛躍的に高まる。まして相手の姿も見えていないこの状況では、勇猛を通り越して無謀であった。
 敵はクライスの特攻に合わせ、砲火を集中させた。その物量あh敷き詰めれらた絨毯だ。幾ら高速で移動していたとしても、直線的な動きでは到底かわしきれるものではなかった。
 見えない砲撃が、ついにクライスを捕らえる
 ――――――その胸を、腹を、頭をぶち抜いた。


 戦闘の様子を木の陰から見ていた少女は、あまりに恐ろしい光景に息が止まった。
 今日は人生最悪の出来事が続いたが、これ程の悪夢はない。感情も理性すら目に映る現実を信じなかった。
 こんなものありはしない。舞い散る雪の色も、耳障りな甲高い音も、肌を突き刺す冷気も、あらゆる感覚の伝達を、少女の心が拒否した。
 (クライスの体が……クライスが、死んだ?クライスが……?!)
 その時、撃ち抜かれて穴だらけになったはずの身体が、瞬く間に闇へと消えて行った。それは目の錯覚か、少女が長い睫毛を瞬かせると完全に闇へ溶け込んでしまった。
 次の瞬間、クライスは凶弾に倒れた場所から、対角の位置へ移動していた。そして腰に帯びていた両刃の長剣を右手に、低い姿勢の構えをしていた。
 「紅く切り裂き、死の喜びを詠いて――――」
 文言を発するや否や、体中の理力がクライスの剣に向け一気に収束していく。そして、剣に集まった膨大な理力が溢れると、刃は青白く輝きだした。
 闇に映える生命の輝きを連想させる鮮やかな青。だが、その生命力を侵食するかの様に右腕から漆黒が這い出した。瞬時に刃は常闇と化し、時折、脈打つ様に赤色の理力線が蠢いていた。
 周囲の闇より濃い闇。その深さたるや、その手に何を持っているか分からない程であった。もし敵の姿が見えていれば、驚愕の表情が見えたかもしれない。それとも、恐怖に震えた心臓の音が聞こえただろうか。
 「数多の敵を喰い千切れ……真紅の爪牙ブラッドソードファング!」
 クライスの気声が大気を震わせ、左足が巨人の如く大地を踏み付けた。
 その力の大きさに耐え切れず、周囲の地面が一気に陥没する。そして、右手に握った常闇の剣を流れるように振り下した。
 すると、灰色の空に夕闇よりも濃い黒いベールと、それを引き裂く様に五条の紅い線が刻まれた。
 生じた斬撃は、その空間に存在するモノを全て飲み込んでいた。そこに在ったはずのありとあらゆる物を、闇が侵食していた。やがて黒い理力が霧散すると、空を覆っていたはずの幹や枝は消滅し、斬撃をなぞるようにぽっかりと空間が空いていた。
 闇に飲み込まれたものは消え去ったが、食べ残しの残骸は周囲との繋がりを失くして落下した。
 軽い樹木の枝に混じって、黒い物体が幾つか勢い良く地面を叩きつけた。それは今の今まで、姿を見せずにクライス達を襲撃して来た者の正体であったが、落下して来た物体は原型を失い、唯の肉片となっていた。
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ ……」
 クライスは大技を使った反動で息を荒らげていた。手足は鉛の様に重く、特に右腕は筋肉が断裂して鋭い痛みが返って来ていた。
 それでも敵の気配に注意を払いながら、バラバラとなった遺体に近付く。
 すると、風に乗って強烈な臭いが立ち込めていた。一歩、また一歩と近付く毎に、遺体から発せられる腐臭が濃くなり、鼻を突いた。不快感が立ち込めると、痛みがあからさまに酷くなったが、ここまで来て正体を確かめない訳にもいかなかった。
 周囲には、人間でいうところの血液と思しき青緑の液体が四散していた。そして人間のものではない青黒い皮膚や、猛獣のように太い体毛、蝙蝠の羽を連想させる部品が点在していた。
 その異形から、敵の正体がヒューレだという事が決定的になるが、何故、人間≪自分達≫を襲って来たのか、理由が分からなかった。現段階で分かる事と言えば、この森に入った全ての人間に想像以上の危険が迫っているという状況だけであった。
 クライスは足元に散乱する黒い異物を静かに見つめた。
 (コイツ等からしてみれば、神々の僕である人間は見境無く敵、という事か……)
 この世界に広がった主な宗教は幾つか存在するが、そのどれもが絶対的な正義を成すものと、それに仇成す悪が終わる事の無い戦いを続ける構図を背景としていた。
 だが信仰の無いクライスには、神と悪魔の区別は無い。一神であろうと多神であろうと、或いは正邪の区別があろうと無かろうと、どうでもよかった。要するに『神』とは人外に在り、自分の命を狙う存在の事である。
 目に映り襲い来る神は敵であり、目を閉じ祈っても絶望しかもたらさない神も等しく憎むべき敵であった。
 ただ今回の襲撃には疑問が残った。宗教論や個人的な価値観はさておき、実在の悪魔≪ヒューレ≫と人間は、絶対的に敵対している訳でも無いという常識があったからだ。
 ヒューレの前に立ちはだかる人間は、例外無くこの世から消えた。だが、ヒューレ側から人間を滅ぼす為に街を襲うこともなかった。恐らく、ヒューレにしてみれば、人間など路傍の石程の意味しか無いのだろう。端に寄っていれば無視されるが、道の真ん中にあれば蹴り飛ばされる、といった具合なのだ。
 しかし、此処は神の聖地とされる場所ではない。人間にとって奥深い森の中であっても、ゼノンの森全体からすれば、中心には程遠い位置であり、どちらかと言えば、人間の領域であった。だから蹴り飛ばされる理由が見当たらなかった。
 「一体、何が起きている……?」
 自分達の敵が暗殺者だけだと考えていたクライスにとって、ヒューレの出現はまったくの計算外だった。
 (事態は確実に悪化している……本当に間に合うのか?)
 「クライス!」
 少女の悲鳴に近い呼び声で、クライスの意識は現実に戻って来た。
 危険な気配が去った事で、奥に隠れていたロザリアが近寄って来ていたのだが、それすら気付かない程、没頭してしまっていた。悲観的思考を頭から引き剥がし、声の方へ顔を向ける。
 「クライス、怪我はない!?」
 「ああ、特に問題ない」
 「良かった……本当に、本当に良かった。本当に死んじゃったかと思ったのよ?」
 少女は心底安心した表情を見せた。だが、クライスはにこりともせず、
 「俺の事は気にするな。自分が生き残る事だけを考えろ」
 「え……?」
 透徹した表情で少女に厳命した。
 「それよりも急ごう。これから先、トリス以外は全て無視する。知り合いがいても振り向かないでくれ。敵の攻撃があったら回避しつつ逃げ切る」
 その冷厳な判断に少女の表情が凍りついた。眼を見開き、唇を震わせながら、何とか声を絞り出した。
 「それは……助けが必要であっても、見過すという事……?」
 「そうだ」
 踵を返しつつ、クライスは過不足なく一言で答えた。
 「私にはそんな事出来ない!必ず助けるわ!」
 その言葉には何の根拠もない。満たされた少女の人生が、反射的に出した回答だった。
 騎乗したクライスがロザリアに近付き、右手を差し伸べるが、ロザリアは手を取る素振りを見せなかった。
 「今の君に、何が出来る?」
 長い前髪から覗かせた明緑色の瞳は、少女の無力を咎めるでも、哀れんでいる訳でもなかった。少女は何一つ答えが出せず、代わりに今にも泣き出しそうな表情をした。
 「君を責めるつもりはない。俺自身、助けられるものならそうした……だが本当に守りたいものは自分か?親か?それとも赤の他人なのか? 全てを選択する事は神にすら出来ない。君の大切なものに対して、優先順位を付けてくれ」」
 「私は、お父様を助けたいっ!」
 唯一の肉親である父親を失いたくない、その想いは本物である。
 クライスはその明瞭な答えを聞くと、僅かに微笑んだ。
 「……俺も同じだ。時間がない、行くぞ」
 少女の温かな手を、想いを受け止めると、脳裏にこびり付いていた悲観的な考えが吹き飛んだ。


 二人を乗せた馬は疲れも見せず、これまでと変わらない力強い走りを見せた。乗り手の想いを感じ取っているかの如く駆ける姿は、まるで疾風であった。
 それからロザリアは、時が止まったかのような感覚に陥る。
 行く手には、人の死体と、これまで見たことない化け物の死体が点々と散在した。
 飛び散る血と臓物は既に見慣れてしまっていた。だというのに、人間にしろ、人間でないにしろ、まだ息がある姿を目にする度、恐怖で少女の胸は締め付けられた。なるべく見ないよう意識しても、その中に自分の父親がいるかと思うと、目を逸らす事が出来なかった。
 そして何より辛かったのは、見知った人が視界に入った時だった。皆、大した知り合いではない。だが哀しいかな、『知らない』と言い張る程、記憶は錆びていなかった。
 ――――息も絶え絶えに、幾つもの暗い瞳がこちらを見た。
 それは唯の錯覚だった。この速度である。視線が合うはずも無い。だが、それまで何とか保っていた意識が、一気にどこかへ飛んでしまう。
 気の緩みと同時に、激しい嘔吐感に再び襲われた。もう少女には、時間の感覚は存在しなかった。けれど、現実を捉えて手放すことはなかった。
 クライスの投げ掛けた言葉が胸を突き、その痛みが心を現実に引き止めていた。そして、自分自身の心から湧き上がる想いが、体の芯を支えていた。
 (絶対、助ける――――)
 何者も、その一心を打ち崩すことなど出来なかった。


 一方その頃、見知らぬ土地に取り残された貴族達は、地獄の中で絶望していた――――


 振り下ろされた大きな拳が大砲の如く怒号を放つと、西瓜を叩き割るに等しく、人間の頭部が吹き飛んだ。鮮血が派手に飛び散るだけでなく、脳漿や頭蓋骨も見事に散乱し、瞬時に人の原型が消滅する。
 砲弾の如き一撃を繰り出したのは、背丈が3mに届きそうな巨躯の怪物だった。
 怪物は人の崇める神≪ユーシア≫の敵とされる絶対悪の神≪ヒューレ≫の眷属、名をサイクロプスといった。
 体毛が存在せず、黒光りする肌は重厚な金属のようであった。薄暗い闇の中で、その姿をはっきりと見て取る事は出来なかったが、その双眸は暗がりに赤く光を放っていた。
 何より特徴的なのは、人間をただの一撃で破裂させるだけの膂力を生み出すその腕だ。樹齢数十年になる樫の木程の太さがあり、繰り出される破壊力は今更語るまでもないだろう。
 人間の強度では、どこに当たったとしても原型を留める事は適わず、例え、それが樹木や建築物の類であっても、その一撃に耐えうるものは存在しなかった。体全体の動きそのものは緩慢であったが、振り抜かれる拳速は人間の瞬発力を遥かに凌駕していた。
 頭部を吹き飛ばされた兵士は即死状態だったが、他に傷一つない四肢の反射は止まる事なく働き、倒れながら手足をじたばたさせていた。
 その様子は壊れた機械仕掛けの人形に似てなくもなかったが、そんな事を連想出来る程余裕のある人間は、その場に存在しなかった。
 爆散した人間の隣にいた貴族の男は、生まれて初めて味わう真の恐怖に腰を抜かし、失禁していた。
 雪の上で立ち上がれないでいた男は、ゆっくりと歩くサイクロプスの巨大な足が眼前に広がっていても逃げる事が出来ず、喉から腹まで押し潰されながら絶命した。
 貴族は常に他人から搾取する立場にあり、狩る側の人間であった。恐れを知らず、明日への不安とは無縁の生活をしていたはずだった。
 しかし、この場においては、小動物以下の存在に成り下がっている現実を、誰もが自覚せざるを得なかった。
 魂まで刻まれていたはずの『貴族の尊厳』は、今は爪の先にすら有りはしない。是が非でも自分の命を守る為、我先にと逃げ出していた。だが、本能的な行動なのだろうか――――巨人の逃げる物体を追う速度は思いのほか速く、背を向けた者から順に肉塊に変わっていった。
 それでも、巨人の脇を縫って逃げ遂せる者も多数存在した。恐怖によって足が止まるのではなく、恐怖によって生まれて初めての全力疾走をした者達であった。
 ――――ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ
 皆、心臓が今まで聞いた事のない位、早鐘を打った。
 あまりの速度に、このまま破裂してしまうのではないか心配になったが、晒された生命と比べれば是非もない。
 脇目を振らず息の続く限り疾走した事で、巨人の姿が小さくなっていくと、誰もが夕闇の中に希望の光を見出した。
 だが微かな光は、更なる破砕音と共に闇へ飲み込まれる――――
 最前方を馬で走っていた者が、ぼとり、と不自然に倒れた。後方を走る者達には、何が起こったのか理解出来なかった。
 ただ、心臓の音が限界を超えて、高鳴り出した事は確かだった。
 ――――ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ
 耳鳴りと心音が五月蝿かった。
 一つ、二つ…………
 暗闇の先に煌々と赤く光る双眸が見えた。
 三つ、四つ、五つ、六つ…………
 赤い光が次から次へと現れると、段々と現実を飲み込む事が出来た。例えそれが『絶望』という名の味だったとしても、強制的に飲み干すしかなかった。
 半ば自棄になった何名かは、巨人に向かって猟銃を放った。
 その巨躯と緩慢な動作は、格好の的であった。絶叫とともに、ありったけ銃弾を叩き込んだ。しかし、倒れるどころか、巨人は全くもって怯まなかった。銃弾の放たれた方へ体勢を向けると、纏わり付く蝿を払うように反撃の一振りを見舞った。
 まったく見当無しに振り下ろされた拳に運悪く命中した者は弾け飛び、また当たらずとも掠めた者は、骨を砕かれて吹き飛んだ。
 人智を超越した蛮行は、戦闘にすらならない。一方的かつ圧倒的な振る舞いは、虐殺以外の何ものでもなかった。
 ――――その地獄の中に、トリスはいた。
 恐怖と殺意が充満する中にありながら、トリスはパニックを起こす事無く、むしろ周囲の慌て振りを見れば見るほど冷静になっていた。
 サイクロプスの凶行を眼前にしても怯まず、逆に隙を見て巨人に向かって駆け出した。手にした猟銃を携え、素早く狙いを定めた。間髪を入れず引き金を引くと、銃弾は敵の眼球を撃ち抜いた。
 視覚を潰されたサイクロプスは咆哮を上げたが、絶命する事はなく、むしろ以前より凶暴になってトリスに襲い掛かろうとした。
 巨人が豪腕を振り被ると、また一人、人間が爆散する姿を周囲の者達は想像した。
 だが、振り下ろされた拳は宙を切るのみだった。隻眼となったせいで焦点が定まっておらず、巨大な拳はトリスではなく、隣にいた小太りな男の眼前を掠めていった。
 サイクロプスは右手左手と拳を振るうが、何度試しても細かく動く獲物には当たらず、宙を切るばかりだ。元々、膂力にモノを言わせた精度の低い攻撃が幸いしていた。
 トリスはこの好機を逃す事無く背後へ回り込み、今度は巨人の頚椎に照準を合わせ引き金を引いた。
 甲高い爆発音と共に、弾丸は巨人の首筋に喰い付いた。
 ――ウゴォォオ!!!
 背後から一撃を受けたサイクロプスは、これまでと明らかに異なる叫び声を上げた。トリスの一撃が、防壁となる筋肉の薄く、神経が集中した部位を撃ち抜いたのだった。
 「今です!」
 相手の動きが停滞したことを確認すると、トリスはすかさず叫んだ。
 すると、呼応する様に側面より灼熱の砲弾が飛び出した。真っ赤に色付いた魔弾が、巨人の側頭部に直撃する。
 ――――直後、無数の弾丸にもびくともしなかった身体が、木っ端微塵に炸裂した。
 通常の弾丸は押し出される縦の力と、回転する横の力で貫通力を得る。しかし、先ほどの弾丸は、理力を爆発の力に変換する事で破壊力を増幅させていた。火薬式の猟銃では決して得られないエネルギーを生み出したのは、魔導式の銃によるものである。
 頭部が吹き飛んだサイクロプスは、即座に絶命した。不屈の体力を見せた巨人であったが、頭部が無くなっては、流石に意味をなさなかった様だ。
 「……ご老人、もう少しフォローがあっても良いのでは?」
 咎める声の先には、依然として構えを崩していないブラウニルがいた。
 「馬鹿を言え、こちらに向かって来たらどうするつもりだ」
 白い毛皮のコートを少し汚した老人は、好々爺らしく笑い飛ばした。
 冗談交じりで掛け合うブラウニルであったが、実際の所は、トリスをフォローする余裕など無かった。魔導式の銃は発射エネルギーを己の内部より生み出す。あの巨体に致命的なダメージを与える程の力を溜めるのに、ブラウニルは数分の時間を要した。
 おまけに銃へ理力の受け渡しを行えば、大幅に理力を喰われる為、ブラウニルの体力では立ち上がる事すら儘ならなかった。
 つまり、本当にブラウニルの方へ向かって来ていた場合、充分な力を溜めずに引き金を引かねばならず、一撃で仕留められなかった時、木っ端微塵に吹き飛ぶのは確実にブラウニルの方であった。ギリギリまで引き金を引かずに済んだのは、何よりトリスへの信頼があったからに他ならない。
 ――――トリスならば、必ず隙を作る。
 そう信じて、ブラウニルは木々の陰に息を潜めていたのだった。
 ――――あの方なら、必ず狙っている。
 対するトリスも銃の特性と、ブラウニルの性格を熟知していた。
 年齢や立場を超えて結ばれた互いの強い信頼関係が、神の尖兵を倒すという最良の結果をもたらしたのだった。
 数百メートル離れた場所には、煌々と紅く光る双眸が群れを成して迫って来ていた。幾ら動きの緩慢な敵とは言え、追いつかれてしまえばひとたまりもないだろう。
 そして先程の成果は、あくまでも敵が単体であり、両名の体力と装備に余力があった時点での結果に過ぎない事を、二人共良く理解していた。
  賞賛すべき成果に対して二人は感慨の様子もなく、淡々と現実に向かって呟いた。
 「さて、あれはどうしたものかのぅ」
 「ふっ、決まっておいででしょう?意地の悪い方だ」
 「「…………」」
 「逃げるか」「逃げましょう」
 異口同音で発せられた言葉は、周囲の貴族達にも届いていた。絶望に沈んだ者達の眼光に僅かな希望が宿ると、すがるようにトリス達を見つめた。
 「何を呆けておる!さっさと逃げるぞ!」
 ブラウニルの檄を浴びて、男達はどうにか正気を取り戻した。
 「ブラウニル卿、殿はお任せします」
 言うや否や、トリスは率先して駆け出した。
 集団が敗走をする時、最も危険に晒されるのは当然の事ながら、最後尾である。
 それは単純な話し、追いかけられた際に一番最初に何処へ喰らい付くか、という問題だ。その役割を即決でブラウニルに任せたのは、トリスなりに幾つか理由があった。
 一つは、この場においてブラウニルが戦力として計算に入れられる最高の人材であるという事だった。
 既に引退した身であるとは言え、現役時代は数多の戦場を駆け抜け、一線を退いても参謀として戦略決定の一翼を担った人物である。この混沌とした状況においても、その判断力で活路を見出せる可能性を十分に持ち合わせていた。
 もう一つは、この集団を全滅させない為に、誰かが先頭を走らなくてはならないという事だ。
 集団行動の基本は統率にある。方向性を見失った集団は、より少数の集団に駆逐されてしまう。特に今回のような統制機能が崩壊している場合、集団から逸れてしまえば、各個撃破の良い的になるのはまず間違いない。
 よって、誰かが水先案内人として先頭に立つ必要があった。そして何より、今回に限って言えば、後方よりも先頭の方がリスクが高い。
 背後に絶対的な脅威があるものの、集団としての動きは遅い。対して、前方には今のところ敵はいないが、追撃者の機動力を鑑みれば、何らかの罠が仕掛けられている可能性は大いにある。
 そして、仮に奇襲を受けた場合、真っ先に狙われるのは先頭を進む者である。トリスとしては、それにブラウニルを巻き込むより、独自の判断で生き延びる手段を講じて欲しい、そういった願いも含まれていた。
 更に別の理由を挙げるなら、ここで一人生き延びても意味がないと判断した事も、先陣を切る動機になっていた。それは決して、情や友愛の念から判断したのではない。あくまでも国政に携わる者として、国の中核を成す者達が、これだけ一斉にこの世から居なくなっては、国家の存続に対する影響が計り知れないと判断したのであった。
 何としても生き延び、この馬鹿げた謀略を企てた者を表に引き摺り出さなくてはならない。それが出来てこそ、初めてこの戦争は終わりを迎えるのだ。
 しかし、現実はそれも厳しくなりつつあった。先程の混乱によって、馬は逃げ出したものと巻き添えを食って死んでしまったものとを差し引くと、数頭しか残されていなかった。
 雪に覆われた山道と深い森を逃げきる程体力に自信のある者が、この中に果たして何名いるだろうか。周囲の憔悴し切った表情を見た後では、数えたくも無くなっていた。
 今のトリスには、他人の体力まで気に掛けてやる余裕は無い。心にあるのは我が娘の安否のみである。
 (あちらはクライスが付いていれば問題はないだろう。それにしてもストラヴァーダの聖騎士か。この場に居てくれたら力強いのだがな……しかし、まぁこんな事になるならば、連れて来るのでは無かったな。後で何と言われる事やら……)
 こんな状況になっても思い浮かぶのが愛娘の笑顔と、知り合って間もない護衛の青年のしかめっ面とは、何とも可笑しな話だった。
 トリスは、独り微笑を浮かべた。不安や恐怖に萎み掛けていた心に温かさを感じると、自然と勇気が沸いて来た。そして、沸き立つ勇気が確かな未来を描きだそうとしていた。
 「……まだ、こんな所で死ねないな」
 もう一言だけ呟くと、トリスは重くなった足取りを正し、深い森の中を前進した。



 ©Gelcy