T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 04
 
 後悔先に立たず、先人は良く言ったものだ。
 時間が個人の意志に反して流れ、二度と戻る事が無い事を的確に言い得た格言だ。
 本格的な冬の到来を控えたこの季節、無駄な労力を消費せずじっとしている事こそ、何より懸命な選択だろう。
 そして無意味な事をすれば、費やした時間と労力を惜しむ気持ちが沸き上がろうとも、何の不思議があろうか。
 この国≪アリストン≫の冬は長い。ゼファー海流に乗って来た、北より流れ込む寒冷な空気がシュバル山脈よりこの地へ流れ込む為、この季節は天然の氷室の如く気温が下がる。
 不作の年は必ずといって良い程、浮浪者を中心に餓死・凍死者を出していた。この厳しい冬を乗り越えるには無駄な事をせず、今日を生きる力に傾ける方が余程正しい生き方である。
 事実、多くの国民はそうやって今日を生き、明日も生き続けられるように過ごしていた。
 しかしながら、何事にも例外というものは存在する。
 暴力に長けたものは、現状に対する不平不満を他者にぶつける事で解消しようとする。財力のあるものは豪奢な服装を着込み、狩りを人生の余興として謳歌する。
 どちらにしても、愚かな行為である事は間違いない――――彼はそう考えていた。
 後者の『愚か者』と評した者に随行し、馬車に揺られる一人の青年がいた。右眼を隠すように銀髪を長く伸ばし、その銀糸の間から明緑色の瞳を覗かせる青年の名を、クライス=デューといった。
 顔の線は細く、一見すれば貴族の嫡子と見紛う風体をしていたが、その眼光の鋭さは、外敵から守られた温室ではなく、厳冬の道を生き抜いて来た事を物語っている。
 もちろん愚かと評するのはクライス個人の見解であり、相手にしてみれば、その様な考え方を微塵も持ってはいない。
 生まれながら支配層に座する者達は、人生に対する考え方が庶民のそれとは異なる。
 高貴なものを代表するであろう眼前の中年紳士は、狩りという娯楽を『生産的で意義ある行為』として捉えていた。
 『獲物を追う事は、戦いの本能を錆びさせない為の戦い』、そう称した事もあった。
 その身なりは派手ではないものの、一目で高価な逸品である事が分かる深緑色の外套を着こなしている。
 髪を整髪料でまとめ上げ、綺麗に手入れされた口髭が、貴族を知らない庶民が連想する『高貴な者』を作り上げていた。
 だが、上流の存在が思想だけでなく、その姿も相応に異なる事を証明するのは、この紳士よりもむしろクライスの横に座る少女の方が相応しい。
 『貴族』という代名詞に相応しい、可憐な容姿をした少女だった。明るい蜂蜜色の柔らかな髪を背中まで伸ばし、大きなブルーヘイズの瞳が、少女の清廉さに勝るとも劣らない程に透明だった。年齢は十五になったばかりであったが、目鼻立ちがしっかりと際立ち、その印象を強くしていた。
 「クライス」
 正面より呼び掛ける低音は、声楽者を思わせる心地良い響きをしていた。
 中年の紳士は、返事をせず顔だけ向けるクライスに対し、特に気分を害した様子も見せず言葉を紡いだ。
 「収穫祭用の狩りは、不満かね」
 咎めるわけでも諌めるでもない温和な口調に対して、クライスは鋭い視線を向けるだけであった。
 「クライスは無意味な事が嫌いなのよ、お父様」
 すると今度はクライスの感情を代弁するロザリアに、更に鋭さの増した視線を送った。
 もちろんそれは、反論の余地が無い程、的確に言い当てられた当て付けに過ぎない。
 「後、自分の気持ちを他者に知られるのも嫌いなのよね」
 クスクスと細く、からかう様に笑う姿はまさしく天使のそれである。
 抗議の視線は鋭さを増してロザリアに向けられるが、所詮は人の子の眼力なのか――天使≪ロザリア≫は一向に気にした様子も無く受け止める。
 埒の明かないことを悟ると、年下の少女に釈然としない気持ちが沸き立つのを押さえ、今の自分の立場から・・・・・・・・・見解を伝えることにした。
 「アルバディヌ公、ご自身の状況を考えた上での行動をして頂きたい」
 この相手に対して多くは語る必要はない。相手は一つ言えば十を理解する人物である。
 この紳士は名をトリス=フォン=アルバディヌといった。アリストンの評議会議員、国家における政治中枢の重役である。古くから続く家柄や溢れる財力だけでなく、人望や知力、智性と仁性を兼ねた傑物であった。
 「充分考えているさ。だが、今回の狩りには多くの評議会議員だけでなく、国王も来られる。私だけ欠席というわけにも行くまい。……それに、今回提出された追加徴収税案に対しても、全体に釘をさしておく必要がある。現段階であれが成立されてしまっては、不況が悪化の一途を辿る事になってしまうからね」
 物事に経緯があるとは言え、こうなるとは予想もしていなかったクライスは心のそこから思う。
 ――後悔先に立たず、正にこの事であろう。
 護衛に雇われて既に三ヶ月が経過していたが、何かとこの二人に振り回されて来た。
 兎にも角にも、二人とも駆け引きが巧妙――いや、狡猾なのである。クライスより一日の長があるトリスは弁が立つ、ロザリアはそこまで達者ではなかったが、天真爛漫な性格とその数奇な悪運によって調子が崩される。ある意味、親≪トリス≫より厄介な相手だった。
 何かと主導権を持っていかれ、引き返す事が出来なくなるようになって初めて、面倒な事になっている事に気付く始末だった。
 クライスは悪夢のように引き出される数々の記憶を胸の内に押し込めて、苦言を呈する。
 「考えているなら、なおのこと引き返すべきだ。先日の事件は記憶に新しいのではないのか?――貴方は命を狙われている。ここで判断を間違えれば、確実に貴方は死ぬ」
 幾ら幼い娘の前だろうと関係ない。警告を発する時は、相手が誰であろうと、自分がどれだけ本気であるかを示さなければならない。相手の温度を自分以上にしなくては、言葉を発する意味がないからだ。説得や交渉にはこういった手段で挑まなくては成功しないと、クライスは経験から学んでいた。
 トリスは表情を変えず、ただ気配に緊張感を混じらせ、その言葉の意味を噛み締めているようだった。
 灰色の空の下、薄暗い馬車の中で生まれた沈黙が更に空間を重く支配していく。
 「まぁ、この国で緊迫した状況に置かれているのは、今も昔もさして変わらないさ。むしろ今は君という優秀な護衛がいるから、逆に安心していられるがね」
 返される軽口には、いつもの余裕が感じられなかった。ここに至るまでの出来事と相俟って、今回の心理攻撃は幾分か功を奏しているようだった。
 (ここはこのまま一気に押し通す)
 クライスは僅かに見せた隙を付いて畳み掛ける。
 「何度も言うが、せめて護衛の人数を増やすべきだ。素人の俺だけでは、多数の敵から貴方達を護り切る事は到底出来ない」
 「私も何度も言うようだが、君以外の人物を護衛に付ける気は無い。以前の経験もあるしな。私的な護衛の数が増えれば、野心あり、と疑われる可能性も高くなる。真に遺憾だが、そういうものなのだよ、国家の中心部というものは」
 それに――と言葉をを紡ぎ、何か言いたげな視線を娘へ送る。
 「それにクライス以上に遊べて、信頼の出来る玩具はアリストンの何処を探しても居ないわ」
 父親の窮地に加勢する少女。心からの笑顔で語られては、最早クライスに返す言葉は存在しない。
 天使の容姿をした小悪魔の台詞に、助け舟を出されたと勘違いした父親は、頭を掻きながら高らかに笑い出だした。"言ってしまったか"とか、"悪い娘だ"とか、冗談めいた調子で緊迫した空気を和ませた。
 (一体、何がおかしいんだ……)
 約一名≪クライス≫が凍り付いていたのだが、何ら気にした様子もなく親子は意気投合している。この親にしてこの子あり、そういう事だ。
 (俺は玩具だったのか……?護衛をする以前に、認識を改めさせる必要があるな)
 この危機的な状況を前にして、親子共々、無邪気に微笑む姿が様々な意味で空恐ろしく感じられたが、クライスは何とか口を噤んだ。
 これ以上関わると泥沼にはまっていき兼ねない。何せ二人とも自分より遥かに口が立つ人間なのだ。思う所はあったが口を閉ざし、馬車の窓の外に目をやりながらしみじみと思う。
 偶然が重なったとは言え、こんな状況になるとは予想もしなかった。それでも、ここに至るまで、自分の意思で決めて来た事は確かだ。
 クライスは改めて思う――――ならば、せめて後悔しないよう、選択は慎重に行うべきだった、と。


 馬車は同じ速度を保ちながら目的地へ進んだ。その単調なリズムが心地良く身体を揺らし、ロザリアが、うつらうつらしていた。クライスは肩に寄り掛かる小さな頭の重さを感じながら、先日の出来事を思い返していた。
 2週間前の事だった。評議会の会議場より帰る途中で、正体不明の魔導使いから襲撃を受けた。クライス達は、馬車ごと焼き殺そうと放たれた爆炎をギリギリで避ける事が出来た。
 確かに敵の襲撃を退けることが出来た。だが、それは単に運が良かったに過ぎない――クライスは誰よりもその現実を痛感していた。
 (殺らなければ、殺られる……か)
 クライスは、無意識に左腕を撫でた。自分の意思に反して、何の反応も示さない利き腕。指先すら動かせなくなって、既に一年が過ぎていた。
 動かなくなった原因は不明――それが幾人かの医者がさじを投げた際に下した、共通の診断であった。
 剣を振ることに対して嫌気がさして来たのも、丁度その頃であった。
 思うように動かない躰を引きずって戦うなど出来ない。戦う事、それ自体に対する考え方が変わって来たのも、恐らく契機だったのだろう。
 今日を生きる事、自分の命を守る事を命題として剣を振るって来た者にとって、自分の躰に裏切られた事は大きな苦痛だったが、何故か悲しくはなかった。
 その理由を、人を守る立場になってようやく理解し始めていた。
 戦う事とは、それ自体が自らの命を天秤に掛ける行為であり、相手を『殺す』ことは、その影となる自分が『殺される』ことではないか。自分は相手を殺し、その度に自分を殺し続けていたのではないか――――そう感じ始めていた。
 それは、幼い頃から他者を殺す事でしか自分が生きる術の無かった者には、本来、決して感じる事の出来なかった感覚だろう。
 だが、動かなくなった体が、これ以上人を、ひいては自分を殺さなくて良いのだと教えてくれた。そこに凍った心では感じ取れない喜びがあっても、それ以上の悲しみは存在しなかった。
 ――もう誰も殺さないし、誰にも殺させない。
 それが傲慢な理想だと理解しながら、ずっと奥底に閉じ込めていたはずの願いが目の前をチラついていた。
 だが、未だ剣を捨てるには至っていない。今までは偶然、人を殺さなかっただけに過ぎない。ある種の奇跡みたいなものだ。現実は常に人を裏切るものなのだ。すべて分かっていることだった。
 (いつまでも、こんな状況が続くはずがない……)
 クライスは自分の甘さから目を逸らすと、別の事柄を思い出した。
 (そういえば、あの時のトリスは、かなり落ち着いていたな)
 希望というには儚すぎるが、一点だけ事件が起きる以前に講じたた手段があった。それはトリスに警戒と自衛の術を伝える事だった。
 簡単な護身術を教え、「自分の命は自分で護る」という前提条件を叩き込んで来た。そして、周囲を注意深く観察する事と、習慣的な行動させないよう徹底させた。
 行動パターンが知れ渡れば不都合な状況に陥り易くなる。反対に、相手の行動が読み辛い、たったそれだけで計画的に襲われる可能性はずっと下がるはずだった。
 トリスは自分より遥かに年若い青年の進言を、文句の一つも言わず受け入れた。これまでの生活観を捨て、決して楽ではない習慣を少しずつ身に付けていった。
 当然のことながら、素人が少しばかり警戒を強めたり、にわか仕込みの護身術を学んだところで、専門家を相手にどうにかなるものでもない。はっきり言えば、何の役にも立たずに殺されてしまう可能性も大きかった。
 しかし、技術と心構えがほんの少し、生存時間を延ばす可能性は同じ程度にあり得る。ならば、護衛者次第で、生き残る事は可能なはずだ。
 クライスにはトリスを死なせない自信があった。それは自分の力に絶対的な自信があっての事ではない。先の通り利き手は剣を振るう事はおろか、握る事すらままならない。普通の者であれば、命取りになる障害である。
 しかし、持ち手を変え、知恵と勇気を振り絞り、常に死と隣り合わせの状況を生き抜いて来た青年には矜持がある。
 評議会議員であるトリスの利用出来る力を総動員し、綿密に襲撃点を予測し、事前対策をひねり出す。そこに時間が味方をしてくれるなら、不可能なことではない――そう考えていた。
 だからこそ、それが唯の空論であり妄想なのだと思い至るのに、数日も要しなかった。
 結論から言うと、積み上げた計画は積み木崩しの如く崩壊した。トリスが、クライスの提案を全て即断却下したのだ。
 そもそも、トリスは何でもクライスの言葉に従ったわけではない。特に今回のような政治に関わる事や、何故か身辺警備に関わる提言まで、断固として聞き入れなかった。
 明確な理由は言わなかったが、そこにはトリスなりに思い描くものがあったのだろう。暗に信念の表れであったのかも知れない。けれど、クライスには到底理解出来なかった。
 戦術上、防戦は必ずしも数で決するものではない。しかし、数が前提となって成り立つ場合も多い。トリスの示すような単独での警護など、常識外れも良いところだ。
 自分の命より優先されるものはない。地位や名誉、財産、親族、そして信念ですら、生きているからこそ持ちえるものである。
 生きようと足掻く者は助けられても、自ら死のうとしている者を救う事など出来ない。それは、祈る事しか出来ない人間を、神が救ってくれはしないのと同じ事だ。
 紛糾した議論の挙句、譲歩案としてと、邸宅から城下までの間をクライスが護衛し、城内では騎士団の者に任せる運びとなった。だが、それだけだった。
 もし、敵が多勢で押し寄せたらどうなる?罠が仕掛けられていたら?可能性は幾らでも思い付いたが、取り得る対抗策は限定された。
 (その時自分がどう動くべきか、覚悟を決めておく必要があるな……)
 ――――否、とうの昔より覚悟は決まっている。
 この世界では、詰まる所『自分が死ぬか』『相手を殺すか』だ。自分が望もうが望むまいが、その普遍的な摂理の前では、どんな想いであれ紙屑同然なのだ。
 それは、初めてそのルールを思い知った時より、何一つ変わっていなかった。
 自分はただ少しの間、そのルールに背こうとしていただけ――――クライスは、そう自分に言い聞かせた。
 クライスは窓の外に視線を向け、この先に潜んでいるであろう敵を睨み付けた。


 目的地であるゼノンの森は、自然を太古の雄大な姿そのままに保つ、アリストンでも有数の緑地帯だった。
 その生態系も豊かで、奥地では現在も新種の生物が毎年のように確認されている。
 また市井の間では、人界の生き物だけなく、幻獣や精霊を見たものがいると、絶えず噂が流れ続ける程の深さを備えていた。
 少し中を進めば、鬱葱と生えた巨大な樹木が陽の光を奪いあっていて、昼間であっても夕闇のように薄暗い。狩猟を生業とするものでさえ、光の届かない奥地へは進む事は滅多になかった。
 貴族達の狩猟場として選ばれたのは、その中でも比較的開けた平地であった。時期は厳冬の真っ只中であったが、積雪は例年と比較しても少なく、土中のねぐらに隠れた穴熊や雪兎を狩るには問題ない状態である。
 馬車が進むに連れて、緑が視界に広がりを見せていた。落葉樹は落とした葉の代わりに雪細工を纏い、荒涼とした風が吹き抜けると、その結晶を散らし、煌びやかな輝きを放っていた。
 やがて目的のの場所へ辿り着く。厚く覆った雲の隙間から覗く日差しが、貴族の面々が集まる場所を照らしていた。
 御者に導かれ馬車から降りたクライスは、まず周辺に集まっていた人の数に驚いた。
 馬車は森の入口で所狭しと連なり、貴族が携えた従者も加えると、ざっと400人はいるだろうか。神秘の潜む森には甚だ場違いであり、まるで何処かの市場にでもいるようだ。
 どの面々も外行きの外套を着込み、完全な防寒対策を施している。その中でも無駄に華美な服装をしている者が、使用人とその主人を分ける境界であった。それは誰の説明を聞かずとも分かる程、分かり易い境目だ。
 「貴族、か……」
 魔導と剣による封建制度が確立されたこの世界において、その支配者たる貴族は、領地内の生産物や金銭を税として徴収する事によって生活をしていた。
 中には領土が不毛の地であったり、これといった産業が無い場合もある。故に、特権階級であるにも関わらず質素であるケースも皆無ではなかったが、『貴族とは、働かず生活をする者達』という認識が市民の間では定着していた。
 そういった社会構造から、貴族が生活の糧として狩猟を行う事は珍しくなっていたが、その一方で、どこの国においてもこの文化が廃れる事は無く、独自の楽しみ方が発達していった。
 アリストンでは、もっぱら遊び感覚の入った狩猟が主流となっていた。
 その楽しみ方は娯楽の一言に尽きる。まず各自が飼っている猟犬を放ち、巣から獲物を追い出した後に、標的を適度に痛め付けさせる。
 ここまではどこの国においても大した差は無い。だがアリストンの貴族の間では、獲物が逃げ惑い疲れ切った所で、仲間から指名された者が止めを刺す。仕留めた者には賞賛が送られ、外した者はその罰として、内輪の笑いの種――逸話や痴話、噂話といった娯楽を提供しなければならなかった。
 そして、話題が無い者は遊興から脱落し、他の者が野山を一周して来るまで元の場所にて待ち続けなければならない独自のルールが加わっていた。
 たかが遊びでありながら、貴族なら誰しも真剣に為らざるを得ない理由がここにある。
 生活を苦としない立場にあって、詩を理解し、芸術を愛で、ユーモアを語れない者など嘲笑の対象でしかない。
 支配者として、狩人の能力が無い事を公の場で証明するだけでなく、語る言葉も無く遊興の場を去るなど、選ばれた者としての矜持が許さなかったのだ。
 "感覚の違い"などと言う生易しい言葉では到底言い表せない隔たりが、庶民と特権階級の間には確実に存在した。
 人生を持て余している者にしか分からない『退屈』という名の地獄は、罪悪よりなお罪深かく、貴族ではない者が、多かれ少なかれ貴族という存在に対して、嫌悪を抱くのは無理からぬ話しであった。
 この場に国内の有力貴族が集まる事を聞いたその時から予想していた事ではあったが、腹の底から吐き気が込み上げて来て、僅かに気分をイラつかせた。
 クライスはその感情を完全に覆い隠し、トリスとロザリアに続いて、集団の中心ではためく褐色の国旗に向けて歩き出した。
 歩きながらクライスは直ぐに違和感を覚える。それは視線の多さだった。3人を目にした者は、例外無くその姿を視界に留めようと顔を向けていた。過ぎ去った後も、まじまじとこちらを見ているのが感じ取れる程だ。
 多寡な視線に対して、神経が過敏に反応していた。クライスは、他人が見るように背後から自分を観察すると、多少、神経質になっていることに気付く。どうやら、先日のトラブルでロザリアに負わされた精神的外傷≪トラウマ≫が、まだ癒えていないようだ。
 (若くして議会の重役となったトリス、その娘ロザリア……確かに目立つな)
 一歩後ろから付いて歩くクライスは、視線の原因を別の角度から分析していた。
 社会的立場だけで無く、その存在感の大きさも、他の者とは一線を画すトリス。そしてロザリアの人目を引く赤い外套に、背中まで伸ばしたハニーブロンドの髪、そして一面に広がる粉雪の様に白い肌、人形の様に端整な顔立ちは、他に類を見ない精巧な逸品であり、正に神の造形物である。
 しかし、クライスには得心のいかない部分があった。二人に注目が集まるのは当然として、視線の先が、何故か自分にも送られているのである。
 クライスが明瞭な解答を出せずにいた折、突然、ロザリアが話し掛けて来た。
 「気付いている?皆、貴方を見ているわ」
 いつの間にか横に並んでいたロザリアは、悪戯っぽく微笑んでいた。
 「きっと物珍しいのだろう。俺は君達とは大分毛色が違うからな……多分、御者か小間使いが、こんな所で何をしているのかといった想像を巡らせているのだろ?」
 視線には気付いていたが、その原因を掴み損ねていたクライスは月並みの答えを返すに留まる。
 「残念、他に考えられる事は?」
 本気で残念そうに、年下の少女は断言する。クライスは仕方なく、可能性の薄い推論を更に薄っぺらく押し広げてみた。
 「なら、若い護衛が一人だけと、心配か哀れみを感じているのだろう。他の有力者であれば、使用人に扮した傭兵に取り囲まれていても、何らおかしくはないからな」
 「論外。もっと相手の立場から、総合的に・・・・私達を・・・、見てみましょう?」
 「ではロザリア、君の服装があまりにも目立つから狙われ易いと――」「も~全っ然違う……貴方って意外と洞察力が無いのね?それとも自己分析力かしら?」
 結局、少女の考える解答へ辿り着けずに遮られてしまった。
 困ったように苦笑いをする少女に対して、クライスは表情に出さず反発していた。
 確かに確信は無かったが、少なくとも最初の解答は、周囲の表情や関係性を包括的に鑑みた時、自然と導かれる答えの一つであった事に間違いはない。
  慣れない状況とはいえ、『平凡』と称されても『洞察力が無い』とは、過小評価をされている気分になった。ところが、ロザリアの推論は予期せぬ角度から切り取ったものだった。
 「良い?皆、貴方の正体が知りたいの。漆黒のコートを着た銀髪の青年。その顔立ちはどこか女性的なのに、宝石の様な明緑色の瞳に危険な光を宿すこの男性は、アルバディヌ家の一人娘とどういった関係なのか?この好奇心こそ、人々の視線の表れよ」
 熱っぽく自分の形容をされたクライスは、言葉の意味をどう受け止めれば良いか分からず、眉根を寄せた。
 「最初と最後の部分だけは俺にも良く分かった。だが俺は、君個人との関係が主体ではなく、トリスの護衛に従事している。周りが関係性を気にする必要は無いと思うが……」
 「……何も分かっていない貴方は、後者の方ね。ねぇクライス?貴方はもっと自分の事を見つめ直す必要があると思うわ」
 「……言っている意味が、良く分からないな」
 自分の容貌に対する指摘に対し、一向に理解を見せない年上の青年を見兼ねた少女は、大胆な行動に出る。
 「つまり、こういう事よ」
 言うやいなや、クライスの腕に抱き付くロザリア。二人の視線が一気に距離を縮めると、周囲のざわめきは一層大きくなり、比例するように視線が集まった。
 対して、小悪魔の暴挙に成す術も無く固まるクライス。咄嗟の出来事に無表情を装っていたが、視線は地面を彷徨っていた。
 「ね?私の言った通りでしょう?」
 上々な実験結果を収め、自分の仮説が確信に変わって満足気な少女は、上目遣いに特上の笑顔を咲かせた。大抵の男性なら一瞬で心奪われる笑顔だった。本人にその気が無くとも、『自分に好意を持っている』と信じ込ませる力があった。
 「……ならロザリア、君はもっと自分の行動に責任を持つべきだな」
 だがクライスは、その恐ろしい魅了に抵抗した。心に深く打ち込まれた楔が、浮ついた可能性を否定したのだ。
 「あら私、法律上はもう結婚出来る年齢よ」「クライス、幾ら君でも私の娘に手を出したら酷いぞ……」
 あどけない一言に、神速で反応した父親は表情筋を強張らせながら微笑んでいた。
  かくして、2重の意味で言ったつもりの忠告も無意味に散った。誤った責任の取り方に対し、あくまで真剣なやり取りをする親子に、クライスは眉根は深くなるばかりだ。
 こうなった時、屈強な戦士であるはずの銀髪の青年に残された手段といえば――――やはり、沈黙しかないのだった。


 中央に立てられた国旗の周囲には、既に多くの人だかりが出来ていた。そこに集まった者は皆、知人と談話を楽しんでいたが、集団の外れでは、高級な白い毛皮のローブを纏う細身の老人と、褐色の外套に帽子を被った小太りの中年男が、刻限が訪れるのを待っていた。
 「さて、今回の狩りではどんな珍事が飛び出して来る事やら」
 細く笑いながら話す老人は、これから行われる狩りでの出来事を想像して、無邪気な子供の様に語った。
 「前回があの狂乱ぶりでしたからね。此度の狩りに際して相当練習されていたそうですよ、イズラエ伯爵は」
 事実の中に明らかな嘲りが混じっていたが、中年の男はにこやかな表情を変えずに続けた。
 「何でも、狩りのし過ぎで領地の森から獣がいなくなってしまったとか。代わりに極秘裏に狩猟用の兎を大量に仕入れたせいで、市場では今も兎の高騰が続いているそうな」
 「ならば大した腕に違いない。私もせいぜい恥を晒さないよう、努力せねばならないな」
 「ご謙遜を。ブラウニル公は前回の狩りでは、我々の痴態を存分にご鑑賞なされていたではないですか」
 「あれは、たまたまだよ。私を立てて、敢えて外していた者もおったしな」
 ブラウニルと呼ばれた老人は、僅かなやり取りで眼前の男の本質≪虚栄と保身≫に気付いていた。一刻も早く話しを終わらせようと素っ気無い態度を決め込んでいたが、相当な話し好きなのであろう。相手の気配も察する事なく、笑顔を張り付けたまま更に話しを続けようとしていた。
 老人の気配の変化に気付かない男は、殊更老人を称え、この場に居ない者達を嘲笑し続けた。
 老人は途中、適当に合わせようと少しばかりの努力を試みたが、年老いて気が短くなったのか、元々忍耐力が欠けていたのか、限界は直ぐにやって来た。
 「ヴァン伯爵、お主少しばかり――」
 怒気を強め、相手を窘めようとしたその時、背後に見知った顔を見つけた老人の切り替えは早かった。
 「おお、わが永遠の敵手、トリス=フォン=アルバディヌ。ようやくのお出ましか!」
 自らトリスの方へ足を向けると、何事も無かった様に機嫌を取り戻したブラウニルは、年離れた友人に語り掛けた。
 「探しましたよ、ブラウニル公。お久しぶりです、お元気そうで何よりです」
 対するトリスもまた、言葉以上に親しみを込めて挨拶を返した。
 「ブラウニル公爵様、お久しぶりでございます。覚えていらっしゃいますでしょうか?アルバディヌが一人娘のロザリアでございます」
 「無論だとも。以前にあったのは豊饒祭の時だったか……母に似て益々美しくなっていくな」
 蜂蜜色の髪をした少女に対してもトリスと変わらない親愛を示したが、更なる同行者を見付けると、僅かに目を細めた。その目線は、品定めをするというより、その外見の底に隠れた人間性を量るように奥深い。
 「この者は、そなたの恋人か?」
 先程のやり取りの後だけに、ロザリアは少しだけ困惑した様な表情をしたが、すぐに微笑を浮かべる。そして、
 「彼は私の友人であり、護衛のクライスと言います。信頼出来る者ですので、連れて来る事にしました。……ちなみに、恋人となる事を許可した覚えはありません」
 親≪トリス≫が娘≪ロザリア≫のプライベートに対して、その場の誰より素早く答えるのだが、皆異なる表情をしている事に対して気付いていなかった。
 開きかけた口を結んで大笑いを堪えるロザリア。唐突な宣言に意味を理解し兼ねているブラウニル。当のクライスは軽く眉根を寄せ、しかめっ面をしていた。
 しかし、ブラウニルは僅かに間を空けて理解の色を広げた。
 「成るほど、最近噂になっていた事は確かだったか」
 今度はトリスの方が、返される台詞の意味を計り兼ねた。
 「お前が、周囲に気を配りながら生活をしているという噂だ。私はこれまで知った者の中で、お前程向こう見ずな人間を見た事がない。そのお前をして気を配らせるとは、かなりの兵だな。今度ゆっくり話しをしてみたいものだ」
 トリスは両手を広げ、大仰に驚いた素振りをみせた。何に対する驚きなのかは本人のみぞ知る、といった所だろうか。他の者は皆、一様に呆れかえっていた。
 更に続く『心外である』と言わんばかりのジェスチャーも、遂に周囲の理解を得る事は無かった。
 それから暫くは、旧知の仲である二人が会話を弾ませ、すっかり蚊帳の外となったロザリアとクライスは黙って事の成り行きに聞き入っていた。
 すると突然、全体がざわめき出す。
 端から押し寄せるように訪れた波紋は、悠然と現れた集団が起こしたものであった。
 その集団の中心人物こそ、アリストン国王であるルードリッヒⅡ世だった。
 ルードリッヒは、金細工や複雑に織り込まれた見事な刺繍、そして幾重にも羽織った極彩色のベストや、無駄に長い真っ赤な外套といった、他の貴族と比較しても遥かに華美な服装を纏っていた。
 確かに国の王としては相応しい豪奢な装いであったが、城内での儀式や貴族のパーティーならいざ知らず、この薄暗い森の中においては一際の異彩を放っている。獲物を追うというより、標的として相応しい格好である。
 しかし、場違いな格好も然る事ながら、周囲を囲う騎士の物々しさも、その異色ぶりを際立たせていた。
 護衛たる騎士の数は、周囲に配置された者だけで50名を下らない。『狩猟ではなく、戦争をしに来た』そう宣言すれば、まだ周囲の理解は得られたかも知れない。
 だが、ルードリッヒ がここまで権力や武力の誇示に力を入れるのは理由があった。
 国内でもその小心振りが知られていたが、それは個人の資質だけでなく不幸な生い立ちにも起因する。
 幼い頃より兄マルスⅢ世と比較されて育って来たルードリッヒは、常にコンプレックスを抱いていた。マルスⅢ世は美しい母の面影をそのままに、知性と気品、支配者としての覇気を備えた賢人であったが、一方のルードリッヒといえば内気で陰湿、背中を丸めて本を読む事を日々の日課とし、滅多に宮廷外に外出する事も無い日陰者。外見や性格が、まるで光と影の様に対照的な兄弟であった。
 太陽の如き兄の存在は、ルードリッヒにとって邪魔者以外の何者でもなかった。しかし、周囲の評価とは反対に、自分が優秀であると信じて止まなかったルードリッヒは、努力で自分の優秀さを知らしめるより、兄の欠点を見つけ出しては批判し、その地位を下げる事で心のバランスを取っていた。
 真に優秀なのは自分の方である、そう思い込む事で、周囲からの憐憫の視線に堪えて来たのだった。
 そうして長い事、人の暗い感情に晒されて来たルードリッヒだったが、彼にとって心の負担を減らす出来事が起きる。それは兄であるマルスⅢ世が謎の奇病に掛かり、若くして命を落とすという事件だった。
 それまで負の感情の根源であると信じていた兄がこの世を去った事で、ルードリッヒは心から喜びの声を上げた。
 ここが人生の転換期になり、全ては上手い方向へ進む――王宮という、小さな世界すら見ようとしなかった世間知らずは、薄っぺらな確信に酔い痴れていた。
 ところが、現実は彼の希望を踏みにじる。優秀で人望の厚かった兄が他界したことで、第一王位継承権を得たルードリッヒだったが、周囲のルードリッヒを見る目は日陰にいた時代より一層厳しくなり、影での批判は日増しに大きくなっていった。
 王としての責務や、兄が持っていたものを鑑みれば当然の過程であったが、ルードリッヒは予想だにしなかった反応に、出だしから裏切られた気持ちで一杯になった。
 かくして王位に就いたルードリッヒだったが、その脳裏には常に自分より優れた兄の存在がより鮮明に焼き付いていた。
 そして何時しか、その暗い影が彼にこう囁くのだった。
 ――死んだのが、お前であったら皆安心だったろうに。
 ――何故、優秀な兄が死んでお前が生きている。
 頭の中で囁く声は、いつも兄の生と弟の死を望んでいた。ルードリッヒ自身、頭の片隅でそう思わないでも無かった節もあり、仕方の無い事であったかも知れない。
 だがそれは彼個人だけでなく、国全体を不幸にさせる悲劇の始まりとなった。
 断続する脅迫観念は、やがてルードリッヒの精神を蝕み、神経症を患うようになっていった。やがて精神に同調し、頻繁に体調も崩すようになった。
 元々、体が丈夫では無いルードリッヒであったが、果たして気力も体力も衰えると、鏡に映る自身の姿が病に倒れた兄の顔にそっくりな事に気付いた。
 そして、兄の不幸を報いであると信じ込む一方で、自分自身のこの状態も等しく、王宮の中にいる誰かが画策した結果なのだという倒錯に至る。
 兄を呪い、自分をも呪い殺そうとする者が王宮という魔窟には存在する――
 自分の願望すら他者に転換し出したルードリッヒは、誰も信じず、常に人を疑って掛かっては、決して真実と向き合おうとしなくなった。
 こうして国の中心人物の変貌は、国政を腐らせる温床となり果てる。
 高級官僚や議会の汚職や権力の濫用が以前に増して横行し、その影響が末端まで染み渡った現在となっては、財政の悪化のみに留まらず、アリストンの国家体制そのものが傾き掛けていたのだった。
 やがて国中で不満の嵐が吹き荒れると、王宮の中にも剣呑な雰囲気が立ち上る。幾らルードリッヒが他者の存在を無視した所で、空気の悪さは否が応でも感じ取れた。
 孤独な王は自らの命の危険性を感じ取ると、すぐさま警護の人数を増やし、保身に走った。常に必要以上の警護を付ける王に対して、周囲の者達は彼を『小国王』、『国費の無駄遣い』と裏で批判して回っていたのだった。
 誰も信じず、誰からも信じられる事の無くなった王が、僅かでもその存在を主張したい――唯唯その為だけに、これだけの事をしているのだと、誰もがそう考えていた。
 暫くして国王の言葉に耳を傾ける為、辺りが静まり出すと、ルードリッヒは高圧的に話し出した。
 「皆の者、良く集まってくれた。遠路はるばるご苦労である。そなた達の苦労に報いるよう、此度の狩猟で最も大物を捕らえた者に対して報償を取らせる。皆持てる力を存分に発揮せよ!」
 その声に力は無く、暗く陥没した双眸は周囲の人間を誰も見てはいなかった。対して周囲の人間は皆、豪奢な服装と反比例して貧相な表情をした、声も枯れ枯れの王を哀れみの目で見つめるのであった。

 
 こうして国王の宣言と共に狩猟が開始されると、100名程の集団が少しずつ動き出す。
 中心となったのは国王と評議会議員、上級貴族と一部高級官僚だった。その周囲に国王の護衛が配置され、更に後方の集団として、その他の貴族が移動を開始した。
 動き出す集団を尻目に、トリスは新たな指示を出していた。
 「こちらは大丈夫だ、ロザリアを護ってやってくれ」
 クライスは黙って最後尾から全体を監視するつもりであったが、トリスはその必要も無いと笑い飛ばしたのだった。
 懐を晒す意味を込めて、先頭集団の面々は私兵を引き連れず、国王直属の騎士が護衛をする事で事前に合意されていたのだ。
 改めて出された指示に、クライスは目だけで答えた。黙って主張することが彼なりの反抗だった。
 「お父様、歳を考えて張り切り過ぎないようお願いします。後で家の者が迷惑しますので」
 「ご忠告ありがとう。だが若輩者代表としては、かの老人より頑張らなくてはなるまい?あの方に負けたのでは、それこそ天上の笑い者だ」
 「真実、ブラウニル公爵様から見れば子供なのでしょう?子供に負けてあげようなど、あの方は神の気紛れ程にも考えておられません。ならばこそ、恥をかく前に身を引くことが貴族の端くれとしての尊厳を保つ最良の方法です、お父様」
 父親の本気とも冗談とも取れる台詞に対して、少女は冷ややかに切り返した。当人は、娘の手厳しい言葉に苦笑いを浮かべるばかりだ。
 視界の端で、集団が森の入り口から見えなくなっていく様を捉えると、トリスは二人に対して暫しの別れを告げ、馬を集団の方へ走らせた。
 トリスが過ぎ去った後でも、クライスはその場を動かず、森の入り口を凝視していた。思案する銀髪の青年に対して、流石のロザリアも怪訝そうな表情を浮かべた。
 「あちらは国王陛下直属の騎士団が警護しているのよ?その中に入り込んで来るのは、幾ら何でも不可能だと思うわ」
 ロザリアは率直に自分の思う所を述べたが、模範回答ではクライスの不安を払拭するだけの根拠にはならなかった。
 「俺が敵なら、壊滅戦を仕掛ける戦いではないから数は然程、問題にしない。それどころか、命令系統が複数存在する集団は統制が取れないという面で好都合だ。それに――――」
 ――敵が外にだけいるという保証は、何処にも無い。
 王宮という魔窟には、他者の寝首を掻く事を常套手段とする人間が存在するだろう。加えて、地形の上では隠れるのは容易く、罠も仕掛け易い土地柄だ。慣れない場所だけに、退路も限られてくるはずだ。
 不安要素を挙げるだけで眩暈がする状況だが、悲観してばかりも居られない。ロザリアを護りつつトリスを生かす為にはどうしたら良いか、相手の出方に対して考えを巡らせていた。



 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――-――
 荒い息遣いと、力強く雪を踏みしめる足音が、静寂に包まれた森の中に沈んでいく。
 四頭の猟犬が、主人に差し出す生贄を求め、雪に覆われた大地を駆け抜けていた。身を低く、全身のバネを使って粉雪を蹴り上げ、背の低い木々の間を潜り抜ける。
 馬ではとても走れないような悪路であっても、身軽な猟犬はリズミカルに進み、鼻を忙しなく動かしては獲物を追い求め、ひたすら突き進んで行く。
 野生の獣がどれだけ自然に紛れて身を隠そうとも、訓練された猟犬にとって、隠れ家を探り当てるなど造作も無い事だった。
 血統を純粋に守り続けて来た特別な犬種は、通常のものより嗅覚が遥かに優れ、何より勘が鋭かった。人の目には何の変哲も無い風景からも変化を察知し、標的がどう行動したか想像する能力があった。
 天性の狩人は森を駆けずり回り、僅かな時間の内に獲物を探し出しては、次々と襲い掛かっていく。
 猟犬の役目は獲物を噛み殺す事ではない。集団で獲物を追い回し、体力を削ぎ取り、進路の誘導をする事にある。
 『息の根を止めるのは、あくまで人間』、そのルールを従順に守りながら、標的を弄り続けた。
 標的にされた雪狐は、死地へ追いやれている事も知らず、体力の限り逃げ惑った。時に体当たりをされ、時に後ろ足へ噛み付かれ、徐々に俊敏性を失っていく。
 果たして、錯乱状態となって逃げた雪狐は、ふと周囲の変化に気付く。
 振り切ったのか、それとも諦めたのか、自分を殺そうと追い駆けて来たハンター達の姿が無くなっていることに気が付く。
 にわかに、別の匂いが遠くから漂って来ていた。猟犬とは別の、待ち構える者がいる。それは――――人間だった。
 「一番手は、ブラウニル公爵にお任せするとしよう」
 前方に待ち構えた集団の中から、ルードリッヒのしゃがれた声が発せられた。 ブラウニルは特に返事もせず、銃を構える事でその意志を表す。
 長い砲身と洗練された装飾が美しい銃は、この国ではあまり見る事の無い種類のものだった。一般に出回る銃は、その用途が何であれ火薬式と相場が決まっていたが、老人が手にしたそれは魔導式の銃だった。
 (さぁ仕事だぞ、相棒よ――――)
 ブラウニルが精神を研ぎ澄ませると、呼応するように銃身が微弱な光を放った。
 魔導式銃は、一般に出回る火薬式のものと多くの相違点があるのだが、本質的な相違は、弾丸の推進力を火薬では無く、理力から得ている点だ。
 理力とは、あらゆる物質に干渉することが可能な根源的な存在と考えられている。それを制御する技術が魔導であり、魔導を銃器に応用したのが魔導式銃という訳だ。ブラウニルの銃が光を放っているのは、理力が集まっている証明だった。
 魔導式の銃は軽く、威力があるにも関わらず反動が殆どない機能的な銃器だったが、反面、問題も大きな代物だった。
 まず、扱うには魔導の心得を必要とした。それだけでも持ち主は限られるのだが、最大の難点はその価格である。火薬式と比べて100倍も違う事から、購入可能な貴族や組織は自然と絞られた。
 だが組織ならば、使えるかどうかも分からない銃を一丁買うより、誰でも使えるものを100丁買った方が効果的と考えるし、貴族が趣味で買えたとしても、その為に一から魔導の修行をする程の甲斐性は持ち合わせていなかった。
 そういった事情を背景に、魔導式銃に対する世間の評価はアンティークに成り下がっていたが、癖のあるモノだからこそ、ブラウニルは愛用するのだった。今も慣れ親しんだ銃と一体となり、馬上からその時を待っていた。
 獲物は未だ姿を表していない。周囲の面々も呼吸を合わせるように静まりかえり、固唾を呑んで見つめている。
 ふと肌を突き刺す冷気の流れに、生き物の気配を感じ取ると、次の瞬間、遠方に草木を掻き分けて僅かに動く気配がした。
 刹那、相手にこちらの存在を気付かれる――――
 まだ距離はかなりあったが、ブラウニルは殆ど反射的に引き金を引いた。
 圧縮された理力が弾け、甲高い音を発した時、雪狐は咄嗟の方向転換の為、重心を傾けていた。全ての運動エネルギーが0となるほんの一瞬のことだった。
 雪狐は、その場にパタリと倒れ込んだ。放たれた魔弾が、雪狐の胴体を撃ち抜いたのだ。白煙の代わりに、虹色の軌跡がその残滓となって辺りを漂っていた。
 空気を吸って吐く程度の時間で、辺りは静寂を取り戻していた。いや、最初から静まり返っている。ただ、周囲の者は『外せ』だの、『当たるはずがない』と心の中で叫んでいたのだ。それをブラウニルの射撃が吹き飛ばし、辺りに真の静寂を与えていた。
 僅かに間を空け、凍った空気を割るように拍手が起こった。
 唯一人、トリスだけが手を叩いていた。衰えを見せない神技に対して、惜しみ無い賞賛を贈った。呆然としていた面々が、後から追従すると、拍手は盛大に響き渡った。
 「まず一匹目だな、トリスよ」
 強気に微笑む老人は長く息を吐きながら、身に纏う緊張を解きほぐしていった。
 「お見事。ですが、勝負はこれからですよ。最後には体力の勝る私が勝たせて頂きます」
 ルードリッヒは、自分の賞賛を受ける素振りすら見せない叔父≪ブラウニル≫を睨み付けていたが、当人はまるで気付く様子も無かった。
 その態度は卑屈な王のプライドを酷く刺激したが、顔を歪める程度で収まっていた。まるで何か大切な事の為に、必死で我慢している子供の表情だった。子供との違いと言えば、その双眸がどこまでも暗く、底を見せていない点くらいだろう。
 またその一方で、王の取り巻き達は、一瞬のやり取りに息を詰まらせていた。
 これが普段の宮廷における一幕であれば、例外無く適当な理由を付け、あるいは捏造され、厳しい懲罰が下されていただろう。
 卑屈な王が激昂せずに、その感情を飲み込もうとしている様は、驚嘆に値した。もしくは遅蒔きな成長を遂げたのだと、勘違いも甚だしい感想を抱いたに違いない。
 ルードリッヒの自己に対する反発や非礼に対する過剰反応は、最早、性格を通り越して病的であったが、その執念こそ、彼を今日まで『王』たらしめていた要因であった。
 ルードリッヒⅡ世の兄であったマルスⅢ世は、『情熱』で人々を惹きつけたが、ルードリッヒは『恐怖』で人々を縛り付けた。
 現在まで王位に座していられたのは、反逆の徒を決して許さないルードリッヒの狂気が国内外に知れ渡り、内乱や戦争を未然に防いでいたのも大きな要因だった。皮肉な事だが、疑心と不安が織り成す緊張感こそが、この国の平和の礎となっていたのだった。


 夕刻にはまだ幾ばくかの時間があったが、森に差し込む日差しは既に傾き始めていた。只でさえ薄暗い森の中にあって、少しばかり光の加減が変われば、その雰囲気も一変する。不気味さを増した木々を見た老人は、細く言葉を漏らした。
 「ふむ……やはり一筋縄ではいかんのう」
 「弟子はやがて師匠を超えていくものです。いい加減、認めたら如何ですか?」
 討ち取った獲物の数で明確な決着を見ないまま、二人は接戦を繰り返していたのだが、トリスは先達であるブラウニルの焦りを感じ取ると、にこやかに挑発した。
 「何の、青二才が良く吼える」
 ブラウニルは僅かに表情は険しくするが、直ぐに口端を持ち上げ、心の隙を覆い隠した。
 単なる駆け引き以上に、ブラウニルはトリスとのこんなやり取りが好きだった。気の合った仲間達の多くは既にこの世を去っている者にとって、戦いがいのある若者は活力の源だった。
 そして残りの人生の短さを考えても、これが貴重な時間である事を実感せずにはいられなかった。
 ブラウニルは、昔から様々な側面で他人から疎んじられる立場にあった。一つには、現国王であるルードリッヒⅡ世の叔父にあたり、政治的影響力を多分に持っていたからだ。
 国王に対し面と向かって進言出来る立場にあると、 王宮の内外を問わず、人は避けるか近付くかの両極に位置した。
 ただ最たる理由は、やはりブラウニルの性格に起因するのだろう。ブラウニルには趣味、というより悪癖があった。他者の思惑を看破し、利用させる所か逆に追い詰めていくことに対して多大な興味を持っており、そのせいで常に周囲から倦厭され続けていた。
 8年前に国政から引退した際は、惜しむ者より喜ぶ者の方が多かったが、トリスだけは違った考えを持っていた。トリスはブラウニルを王宮における堤防と考え、政治の場に必要だと本人に説いてみせたのだった。
 それ以来の付き合いであるが、ブラウニルは事あるごとにトリスの優秀さを感じずにはいられなかった。単に頭が切れるだけでなく、器量や精神的な強さ、趣味や教養の多様さ、どれを取っても一流であった。そして、誰よりも強く民を想い、国を憂い。使命感を持って行動していた。唯一、冴えないのは――――空気を読まないジョーク位だが、それも些細なことだった。
 ブラウニルには子供が居なかったが、もし自分に子供がいるならば、トリスのような息子が欲しいと考えていた。そんな人物となら、何をしても楽しいのは明白だろう。
 しかし、今回に限って言えば、楽しさの反面、ブラウニルには気掛かりがあった。
 今回のルードリッヒが用意した狩りの場に、引退した身であるブラウニルは招待を受けてはおらず、トリスらの口添えによって参加する事になった経緯があったのだ。
 他の機会に呼ばれる事はあっても、豊穣祭に際しての狩りは、アリストンにおいては特別な行事である。
 一年を通して最も盛大に開かれる秋の豊穣祭――その前祝いとして、多くの貴族や有力者が集まり大々的な狩りを行うのだ。私的な交流には相応しくない場へ、何の目的も持たず呼び出すはずがない。
 全ての事象は、ブラウニルの推察の範疇でしかなかったが、トリスに多く問いただす必要はない。確認する事はたった一つの事に絞られていた。
 「それで、今度の獲物は何を狙っている?」
 語気を強めて詰問すると、答える方もまた力強く、静かに返す。
 「……この森の主です。今まで誰も狩った事の無い、とても大きな鳶色の熊ですよ」
 「ほぅ、熊とな……」
 問う者が真剣ならば、それに答える方も、その声色に決意が込められていた。ブラウニルはその真意に気付き、吐き出した言葉も吸い込み兼ねない勢いで息を呑んだ。
 「はい。そこで公のご協力を得たいと考えています。私の方で追い詰める事は出来たとしても、やはりその巨体の圧力で押されると危うい」
 ブラウニルは押し黙る。それが、おいそれと返事が出来る類の内容ではなかったからだ。もしかすると、気付くべきでなかったかも知れない。
 「私が危険な目に合うのは一向に構わないのですが、周りの者に迷惑を掛かるのは、やはり忍びない」
 「……なるほど、そこでワシの出番という事か」
 「はい。頼まれて、頂けますか?」
 「まったく人使いの荒い奴よのぅ……念の為に聞いておくぞ、どれ程の覚悟がお前にある?」
 ブラウニルは質問に対して、質問を返した。トリスの性格を熟知してるはずのこの老人でさえ、本人の口から意思を確認しなければ、決断する事は出来なかった。
 「ほぅ、トリス卿の次の獲物は熊ですか」
 トリスが答えを発しようとした瞬間、横から入った別の声に遮られる。
 「これはイズラエ伯爵、調子は如何ですか?」
 「うむ。それがどうも腹の調子が悪くてな、どうも調子が上がらんのだ。ネタも尽きそうで、困ったものよ……」
 ブラウニルは心の中でイズラエの言い訳を失笑した。元々大した腕を持っている訳でもなく、プライドが邪魔をして人の助言も聞けない様な人間である。口が達者なだけでこの場に居続けるには無理があり、直ぐに限界が訪れるのは自明の理であったからだ。
 とは言うものの、当のブラウニルも万全であるとは言い切れなかった。
 日が急速に傾いてきているせいで、体感温度まで下がっていた。意識すればする程、寒さが身に染み込んで来そうな按配である。
 完全に防寒しているとは言え、長くこの状態が続けば、確かに調子の一つも悪くなっていくだろう。特に指先の感覚が失われていくのは致命的である。
 後は集中力を乱した時が、勝負の分かれ目であろう。最初にトリスが宣言した通り、このままでは体力に勝るトリスに分があった。
 「なるほど。今日は雪が降っていないとは言え、冷えた空気は身体の芯に響きます。体調が戻るまで、暫く休まれると良いでしょう」
 「まぁ、それはそうなのだがな。私にも意地というものがある。このまま獲物を仕留ず引き下がる事は出来んのだ」
 イズラエは自己のプライドに固執し、吐く息を白く荒らげて提案を拒否したが、トリスは調子良くイズラエに話しを続けた。
 「ならばどうです、ブラウニル公に助言を仰いでみては。私は公に助言を頂き、今日は嘘の様に調子が良いのです。これは人生に一回あるか無いかの偶然、これを機に大物を討たんと協力を仰いでいた所でして」
 トリスの話しを聞き終え、少しばかり思案したイズラエはその提案を受け入れる事にしたようだ。
 「なる程。ならば私もブラウニル公爵に助言を請うとしよう」
 イズラエがトリスの話しをどこまで信用したかは分からないが、ブラウニルが狩りにおいて名手である事は、公然の事実だった。
 そして、いつもは冴えない腕と話題しか持たない男が、今日に限って一度も外していない事に対して、周囲の者も驚嘆の視線を送っていた。
 偶然である事は間違いないが、その偶然にブラウニルが関わっている――トリスの本質を知らぬ者が傍から見れば、そう映ってもおかしくはなかった。
 しかし、仮にそう考えたとしても、助言を求める相手がブラウニルでは分が悪い。相手にされない可能性があるだけでなく、悪くすれば自分のプライドに逆撃をお見舞いされかねない。けれど、崖っぷちに立ったイズラエの取り得る選択肢は、癖の強い老人から必勝法を引き出す他に無かった。
 面子を保ちながら協力を得る為に、トリスは出汁にされた訳だが、当人はそれを見抜きながらも、他意を抱いた様子はまったく無かった。
 「如何ですか、その熟練の技と極意――どうか教授しては頂けないか」
 「ああ、構わんよ。敵手は多く、強いほど面白い。私の経験が役に立つというのであれば、少しばかり手解きをして差し上げよう」
 は?――と、間の抜けた驚きが、依頼した本人から飛び出していた。幾ら知己の者を介しているからといって、この老人から快諾が聞けるとは、露程にも考えていなかったのだ。
 だが自分の未来に光明が見えたイズラエの切り替えは早かった。細かい事など気にも留めず、早速ブラウニルを誘って先頭集団に駆け上がろうとする。声高に走り去ろうとするイズラエを尻目に、ブラウニルは先ほど聞き逃してしまった返事を待っていた。
 後々の話しでは無く、今此処でその真意を確認しておく必要があった。何故なら、その答えの如何によっては、残りの短い人生を更に短縮させる覚悟が求められるからだ。
 返事を待つ時間が妙に長く感じられた。それは一分かも知れないし、十分以上待っていた気もするが、トリスから返事は無かった。
 何も問い直さず、その視線だけで確認しているせいかも知れない。けれど、ブラウニル自身、その答えに対してはっきりとした返事をし兼ねる状態であった。
 手解きを約束した手前、先に立ったイズラエを放って置く事も出来ず、馬の鼻先を変えたその時であった――
 「先生、先ほどの問いですが……」
 トリスは慎重に口を開いた。
 「私は臆病者ですからね。土壇場で悪魔に囁かれたら、逃げ出してしまうかもしれない。だから先生に見張っていて欲しいのです」
 苦笑いを浮かべ、トリスは真剣な眼で軽口を叩いた。それを見たブラウニルもまた、苦笑いをした。
 自分を『先生』と呼ぶのは何時以来だったか、その意味は語らずとも理解出来た。トリスという男を知っているものであれば、彼流の冗談であり、真実でもある事が良く分かる。
 決して自分を否定するような事はしない、芯の強い人物なのだ。その男にして『見ていて欲しい』という辺りに、不退転の決意が込められていた。
 ブラウニルは一つ頷き、それを返事とした。
 踵を返したブラウニルを見送りながら、トリスは大きく深く息を吐き出す。気付けば、薄暗い森が更にその闇を濃くしていた。見上げた空は、北からの風に流れて、灰色のぶ厚い雲が動いている。流れる雲が斜陽を遮り、徐々に光は細くなっていった。
 やがて完全に遮られた時、不意にクライスの警告が鳴り響いていた。
 ――――ここで判断を間違えれば、確実に貴方は死ぬ。
 その言葉に嘘はない、トリスもそう考えていた。この先、どこで自分が死ぬのか分からないが、綱渡りより困難な道の上を歩こうとしているのだ。常に死が隣り合わせにあるのは当然だろう。だが恐れてはいられない。自らの成すべきことに命を賭ける覚悟など、とうの昔にしているのだ。
 (クライス、ロザリア……無事で居てくれよ)
 トリスは自分のことよりよりも、残して来た者の未来を心の底から憂いた。今も何処かで苦しむ民に想いを馳せた。
 誰もこの鋼鉄の意志を覆すことは出来ない。神でさえ叶わないだろう。仮に、それが出来る者がいるとしたら、この世界で唯一人――――それは自分自身に他ならない。
 トリスは自身を叱咤し、未来へ足を進めるのだった。



 かくして、仕える者達は主人が居なくなると、そそくさと暖を取る準備を始めた。
 どれだけ魔導という奇跡の術が発達しようと、太古から人が暖を取るには、焚き木によるものと相場は決まっていた。残された者達は、準備をする姿も身軽で右に左に大忙しである。
 そして、何故かロザリアとクライスは、彼らに勝とも劣らず忙しなかった。
 貴族達は定刻を待つ間、『暖灯』と呼ばれる空気を温める魔導品によって寒さを凌いでいた。『暖灯』は上流階級の者に馴染みの品であり、当然、大貴族の一つに数えられるアルバディヌ家も所有していたのだが、今はその出番も無く馬車の荷台に埋もれている。
 暖灯を使えば身体を動かさずとも春の陽気を満喫することが出来るのだが、持ち主であるロザリアは、あえて使おうとしなかった。代わりに落ち葉や枯れ木を拾ってはせっせと集め、付き合わされる格好でクライスも拾い物を指示された。
 だが、そう都合良く手頃な枝が落ちているはずも無く、見つけたところで、数で劣るアルバディヌ陣営が取り合いに勝てるはずもない。そもそも片手が使えないクライスに、持ち運びが出来る量など、たかが知れていたのだが、ロザリアはその事を配慮しなかった。
 少女曰く、
 "こういうのは雰囲気を味わう事が大切なの"
 便利な道具があるにも関わらずそれを使わない理由――それはロザリアが『焚き火を体験したい』、唯それだけであった。
 終いには、"火をつけるのも自分でやりたい"と言い出す始末で、20分程前から火打ち石と格闘しているが、火柱どころか煙すら上がる気配がなかった。
 尤も、せっせと労働していせいで額には汗が浮かび、暖を取る必要がなくなっていたのだが、ロザリアは『火が付かない』と唸っていても、どこか嬉しそうに挑戦し続けるのだった。
 これが他の令嬢であれば、物の数分で放り出すだろう。クライスは貴族というモノを良く知らなかったが、こういった事に興味を持つイメージが無く、意外であった。
 そのせいかだろうか、不思議とその姿を見守りたくなっていた。
 クライスが横目で成り行きを眺めていると、その二人の間を割る様に、少女へ話し掛けて来る者が現れた。
 ロザリアと同年代であろう赤ら顔の少年が、懸命な姿を見兼ねたのだと、言い寄って来た。身なりからして、どこかの貴族の子である事は分かったが、ロザリアには面識が無く戸惑うばかりであった。
 親切であって他意は無いと言い張る少年だったが、自分で実行する事に拘っていたロザリアがやんわりと、しかしながら、きっぱりと断りを入れると、うな垂れて帰っていった。
 ところが、その瞬間を待っていたかの様に、すかさず二人組みの青年が現れた。年齢はクライスと同じ位なのだが、性格は全く以て違っていた。
 赤毛の青年はとにかく良くしゃべった。くすんだ金髪の青年を唐突に褒め称え、貴族趣味の自慢話をしているようだったが、ロザリアには何を言いたいのかさっぱり分からなかった。少なくとも、隣にいる青年を何とかして持ち上げたい、その赤毛の青年の熱意だけは良く伝わって来た。
 金髪の青年はとにかく偉そうだった。赤毛の青年の世辞に気が大きくなったのか、何を話すのも自慢気で、自分に付いて来るのが当然といった口ぶりだった。
 だが今のロザリアは深窓の令嬢ではない。気取った態度が気に食わないだけでなく、自分のしている事に対して批判的な台詞を言われ、それでもお淑やかに切り返す気などさらさら無かった。二人組の青年は、最初の少年よりきつい一言であえなく撃沈された。
 そして、順番待ちをしていた若者達が雪崩のように名乗りを上げる。その中で誰が最初になるか、その権利を獲得する為、貴族の子は家柄と財力を引き合いに出して、騎士であれば武勲と名誉で競おうとした。
 何かの色事に興味を持った野次馬、破れ去った敗者の群れ、順番待ちの若者達でいつの間にか周囲は騒然となっていた。
 その様子を遠巻きで見ていた騎士風情の男が、猪の如く、群れる青年達を押しのけて飛び込んで来た。何事か注目が集まる中、鼻息を荒く赤面の表情で男が最初に発した言葉は、求婚の詩であった。
 しかしながら、一目惚れだと豪語する男には、誰が見ても端から無理があった。
 まだ何処か幼さの残るロザリアに対して、男はどう見ても年齢は30代の半ばを超えており、頭部は薄っすら禿げ出していた。
 親と子程年齢が違う時点で、政略結婚でもなければ釣り合うの難しい二人である。周囲の若者は挙って騎士風情の男を笑い者にしたが、ロザリアは笑わなかった。
 真剣な想いに対して、真剣に考え、その結果として丁重に断るのだった。自分の愚かさを自覚していた男は、少女の優しさに感動し涙しながら帰っていった。
 かくして、自分のやるべき事から掛け離れ言い寄られ続けたロザリアは、疲れ切っていた。そして、珍しく怒っていた。
 その矛先は人の気持ちを考えない身勝手な周囲の人間と、いつまで経っても助けに来ない銀髪の青年に対して向けられていた。
 ロザリアは溜まった怒りをクライスにぶつけたい衝動に駆られたが、当の本人は人の壁に阻まれて見えない――――いや、見渡す限り何処を探しても影すらなかった。
 ――幾ら契約対象が父であるとは言え、その人から護衛を依頼されたなら、最低限の仕事はすべきでは無いのか。実害は無くとも、精神的苦痛から守る義務は無いのか。そもそも自分に対するエスコートがなっていないのでは無いか――様々な不満が沸き立ち、ついに少女の怒りは最高潮に達する。
 今までの礼儀正しさが吹き飛ぶ位、大声で叫ぼうとした瞬間、
 「クライス、貴方出て―――― 」
 人だかりの直ぐ横に何かが飛来した。
 ゴトンッ、という大きな落下音に、ロザリアの声はかき消される。飛んで来たのは、高さ10m有ろうかという枯れた巨木だった。
 どう考えても人に投げられる重さではないはずだが、ロザリアは直感的に、それが誰の仕業か確信していた。
 「……呼んだか?」
 ロザリアの状況を知ってか知らずか、しれっとした態度でクライスは微笑を浮かべた。
 その優しげで女性的な表情に、周囲の者達は目を奪われたが、突如、気配を一変させ腰から長剣をするりと抜いた途端、今度は目を剥いた。
 咄嗟の出来事に男達は緊張を高めたが、気配の鋭さに圧倒され、動く事が出来なかった。その中でも気骨ある者は、ここが稼ぎ所と、少女の前へ歩み出る者もいた。
 流石に逃げ出す者はいなかったが、皆、恐怖に竦んでしまっている。銀髪の隙間から見せる明緑色の瞳には、見る者を金縛りにする気勢が込められていた。
 クライスが微かな声で何かを囁くと、呼応するように剣が静かに振動した。そして誰も反応し得ない速度で、剣を逆袈裟に振る。
 一呼吸をおいて、巨木は勢い良く砕け散った。唯の一振り、それだけで大きいものは数mから、小さいものは10cm程に裁断されていた。
 「焚き火名人・・・・・、これでもう焚き木は十分だろう?」
 クライスが切り裂いたのは物だけに留まらない。群れを成した人が後退り、少女との間を轍の如く立ち並んでいた。
 「おっ……、お分かり頂けましたか?この召使いがおりますので・・・・・・・・・・、皆様のお手伝いは必要ありません!別途ご用のある方は、我がアルバディヌ家を通して、正式にお申し込み下さい!」
 家名を出すだけでは無く、召使いと言い放つ辺りが少女の気持ちを如実に表していた。
 ロザリアの正体を知らなかった者達は、『アルバディヌ』という名に驚き、一歩下がる。また、知っていて近付いて来た者でさえ、銀髪の青年の恐ろしい剣技に、一歩下がった。
 次第にロザリアと男達の距離が開きだし、ついにその場に残ろうという者はいなくなった。
 トリス達がこの場を離れてまだ1時間程しか過ぎていなかったが、日差しは既に傾いており、辺りは一層暗くなっていた。
 雪は降り出してはいなかったが、気温が下がって来ている事は、誰しも感じている事だろう。だが超局地的に、それ以上の冷え込みを見せている事を知る者は少ない。
 原因は1m程の寒冷前線――エメラルドグリーンとブルーヘイズ、二つ瞳の間に走る緊張の糸――が原因だった。
 「クライス、何故助けてくれなかったの!?」
 大股で歩み寄るロザリアの勢いは、この国のブリザードのように激しかった。
 「君の表情が満更でも無かったように見えたからだ。嫌だったら嫌そうな顔をしてくれ」
 クライスには目の前の相手が、何故怒っているのか分からなかった。そして分からなかった時、年下の少女の本心を引き出す駆引きが出来る程に器用でもなかった。
 感情を逆撫でる台詞に少女は憤慨した――が、爆発するには至らない。いや、それどころか逆に静かに落ち着きを払っていた。少なくとも表面上は――
 不器用な青年には繊細な乙女心など知りようも無かったが、それは臨界点を突破した証拠であった。残念なことに、理性の糸は既に切れていたのだ。
 「ここは落ち着かないわ。馬車へ戻りましょう」
 元々、クライスに異論があるはずも無く、先に歩き出した赤いコートの少女≪ロザリア≫に付いて行く。
 ――――焚き木はどうするのか。
 唯その一点のみ気掛かりだったが、その確認をする事は何か良くない気配がしたので、口を噤む事にした。結果的にその選択は、この状況に至るまでの判断の中で最善であった事は間違い無かった。


 馬車の中に入ると、先程の雑音が嘘のように静寂を取り戻す。アリストンの馬車の多くは厳冬に耐えられるよう外気を遮断する設計なのだが、その中でも高級品は特に気密性が優れていて、耳を澄ましていても遠くに騒ぎ声らしき雑音が聞こえる程度に静けさが保たれていた。
 ほぼ無音の空間に、対峙するかの如く二人が座っていた。斜陽の中、互いを無言で見詰め合う若い男女の姿は、傍から見れば恋人同士に見えたかも知れない。
 しかし、その場に居合わせれば、決してそうでは無いと断言出来る。二人の間に暖かな空気は無く、感情が消え去った後の寒々しさが、その場を支配していた。
 「…………………………何だ?」
 このやり取りで先に耐えられなくなったのは、クライスの方だった。一体何故、自分が責められているのか、その謎を探る為に切り出した。
 「別に。ただ私とした事が、先の形容に『朴念仁』『意地悪』『甲斐性無し』を入れ忘れていたと思っただけです」
 (……俺は、何か気に障る事をしたのか?)
 そうしてクライスは自分の行動を省みるのだが、やはり思い付くことがなかった。
 ここにあの赤毛の少女≪マリー≫がいたら、溜息混じりで指摘されたに違いない。
 何もしていない事こそ・・・・・・・・・・、少女の琴線に触れているのだと、とことん鈍感な青年は気付いていなかった。
 その性根を叩き直さなければ気が済まない、そう決意するロザリアだが、実のところ、クライスの何が気に入らないのか、あまり明確ではなかった。何かが引っ掛かっていて、上手くないのだ。
 確かに気の利かない事は腹立たしかった。けれど自分が嫌だと訴えなかった事もまた事実だ。相手の気を悪くしない為、露骨に嫌な顔を出せずにいた。それが相手の勘違いを招き、結果として混乱が生じたのだとしたら、クライスの言っている事はまったくの正論だった。
 しかし、勢いの付いてしまった感情は歯止めが聞かなかった。自分が支離滅裂であると薄々気付きながら、それを隠す為に思い付くまま口にしてしまうのだ。
 「……昔のクライスはもっと素直だったわ。どうしてこうなったのかしら?」
 「それは何時の事だ?俺達は出会ってから三ヶ月程度だと記憶しているが」
 「なら三ヶ月前の事で良いわ。最初に会った頃のクライスはもっと人の言う事を素直に――――」
 苦し紛れに出た言葉が出会った頃のクライスを想像させ、後が続かなかった。出会った頃、銀髪の青年は『素直』では無く、個性の消失を感じさせる程、淡々としていた。
 この無機質な瞳は、果たして真に何も映す事は無いのか――多分、最初はそんなことを考えていた。
 (……一体いつから?)
 何かにつけてちょっかいを出すようになったのはいつから?そのことに気が付いたのはいつ?相手の反応を引き出したくなったのは?困った顔をするのが見たくて意地悪をするようになったのは?
 ――――自分を見て欲しかったのは、一体いつから?
 それは子供の独占欲か、父親に求めていた愛情の代替か、或いは淡い恋心だったのか。少女が自らの複雑な感情を紐解くには、まだ経験が足りなかった。
 そして今も、思うようにならない事に対して感情の制御が上手く出来ず、突っ走ってしまうのだった。
 「……聞いても良い?」
 「嫌だといっても聞くのだろう?なら気を使わず聞けば良い。その代わり、言いたく無い事には応えない」
 「――貴方は、何者?」
 自分が何者なのか、その質問に対して本質的に答える事の出来る人間はそう多く無い。特にこの銀髪の青年は『自分が何者であるか』を探す為、生きて来たようなものだ。過去や現在の社会的立場がどうあれ、適切な答えを持ち合わせてはいなかった。
 (自分が何者か、か。……俺が教えて欲しい位だな)
 だがロザリアの質問の意図は、クライスの想像とはまったく別の、思わぬ所から出て来た。
 「貴方、ストラヴァーダの騎士でしょう?しかもその若さで聖騎士にまでなってる……」
 「……一体何を言っている。何故、俺が聖騎士など」
 ロザリアは慎重に、心に留めていた秘密を一つ解き明かす。クライスはあくまで無表情に受け答えをした。
 少女には、その態度があくまで自然な反応に見えた。それもそのはずである。
 ストラヴァーダはこの国の遥か南西に位置する軍事大国であった。近年、世界的に発達して来た魔導器具に頼らず、古来より伝わる魔導と武技を戦力としている国家は、他に類を見ない稀有な存在であった。
 聖騎士というのは、国に仕える騎士の中でも最高位の称号であり、騎士道を実践し、武技を極め、魔導の扱いにも長けたエリートの事を指す。ストラヴァーダにおける軍事力の象徴といえる存在、それが聖騎士だった。
 それは聖騎士制度が存在しないアリストンにおいても広く知れ渡っている為、荒唐無稽な話をされているような態度はもっともらしくあった。
 クライスが聖騎士――――自分の抱くイメージと全くそぐわない為、問うた本人でさえ半信半疑である。
 「初めて会った時の事、覚えている?」
 「……ああ。君の部屋に突っ込んで滅茶苦茶にしたな」
 「その時にね、大怪我していた貴方を治療する為に服を脱がせたの。貴方は気を失っていたから覚えていないでしょうけど……」
 この時点で、クライスにはある種の確信が芽生えていた。しかし、あくまでも平坦に話しを進めた。
 「……それで?」
 「その時に貴方の腕に刻印があったわ。そして胸にも」
 「……」
 「気になって調べていたら、ストラヴァーダの聖騎士団の印しだって分かった。胸の方は良く分からなかったけど、とても禍々しい、危険な感じがしたわ……」
 突き付けられた分かり易い確証に、クライスは間抜けな自分を呪った。
 見詰める瞳は、知性と決意を現していた。ある意味、ここからの抵抗は無意味だと悟ると、クライスはさも当然のように話を続けた。
 「そこまで分かっていて何故、何もしなかった?」
 クライスは機密事項であろう事実をあっさり認めた。すると肩透かしを食らったロザリアは、拍子抜けするどころか逆に動揺した。
 「も、もちろんお父様には相談したわ。どうしたら良いか分からなかったし、怖くなって少し混乱していたから……そうしたら何て言ったと思う?『お前はどう思う、お前の判断を信じる』よ?分からないから相談したのに、酷い父親よね」
 その時の呆れっぷりを思い出し、ロザリアは苦笑いを浮かべる。
 「ただ私達に危害を与える事が目的じゃないって直ぐに分かった。……でも監視とか何か調査している様子も無くて、ただ本当に護ろうとしているだけだった」
 「ストラヴァーダが『トリス=フォン=アルバディヌを護れ!』なんて命令を出す理由も無いだろうし。仮にそうだとしたら、あの時の大怪我は大失態よね。それにあの時の……クライスは天使か化け物か分からないけど、アレと戦っていた。アレは何?何故戦っていたの?また襲って来るの?暗殺の話しとは関係あるの?ストラヴァーダの真の目的は何?」
 一息に吐き出された不安と混乱、諦めと決意、不審と理解――――
 「……結局、貴方は何者なの?」
 ――そして、辿り着く根本的な疑問。
 これまでの感情の移り変わりを一度で現す様に、少女の表情はコロコロと変わっていった。
 ロザリアの独擅場に対峙するクライスは沈黙を守るだけであったが、最初と同じ質問が繰り返されると、その思う所に納得がいった。そして、この勘の良い少女を相手にこれ以上隠し事をする必要がないことも。
 「俺はストラヴァーダからの指令でこの国に来た。アレの正体は俺にも良く分からない。ただ、アレと似た奴等に出くわした事は過去に何度かある……」
 「……それで?」
 「いつも襲われた・・・・・・・・。理由は分からない。少なくとも俺は何もしていないから、多分生理的に俺の事が嫌いなんだろう」
 ぞんざいな答えであったが、嘘は付いていない様子だった。どちらかと言うと、その事実にうんざりしている雰囲気だろうか。
 「アレと、お父様の暗殺には関係があるの?」
 「無いとは断言出来ないが、可能性は限りなく低いだろう。アレは、人間に御しえる領域を超えている…………後は何が聞きたい?」
 一転して、開き直ったように話すクライスの意図が気になったが、ロザリアは質問を続けた。
 「なら彼の軍事大国は――ストラヴァーダは、何の目的で貴方を此処へ?」
 「知らない。少なくとも末端の俺には教えられていない」
 「嘘っ!なら何と命令されて此処まで来たの?まさか、本当にお父様を護れじゃ……」
 「『半年の間、我が国に脅威となる存在があれば、それを排除せよ』」
 「……たったそれだけ??」
 「あぁ、そうだ」
 それは余りにも曖昧な命令にだった。解釈によって、個人レベルとも国家レベルとも受け取れる文脈である。出す方も出す方なら、受ける方も受ける方であった。
 (聖騎士ってそれでも目的を達する事が出来る位、凄いの?それとも他に――)
 整理が付きつつあったはずのロザリアの頭の中に、ふと新たな疑問が沸いて出た。
 「それが何故、父を護る事に繋がるの?」
 自分の正体を暴露した時点で応える事は容易な質問だったが、クライスの口は重かった。暫く考えると、クライスは意外な事実を口にした。
 「単なる偶然だ。予定ではこの国に潜った諜報員から『道楽貴族の放蕩息子』という設定を与えられて、城内に入り込む手はずだった」
 耳にした瞬間、ロザリアは思わず噴き出してしまった。
 かなり無理のある設定を、至極真面目に語る青年の姿をじっと観察する。容姿だけなら貴族でも通じそうだが、酒や女遊びにふける図は余りにも現実とギャップがあった。本人もそれは自覚しているのか、僅かに眉間を寄せていた。
 「俺が護衛を続けた理由は――トリスが、この国を動かそうとする可能性があるからだ」
 ――――クライスは嘘を付いた。
 評議会の議員が幾ら国政に大きな影響力を持っていようと、そこは一議員である。その周りの人間の情報も抑えなければ、重大な計画の全容を掴む事は困難を極めるだろう。
 情報を集める人脈や収集力、さらに情報を分析し未来を予見する能力がなければ、個人レベルで真の脅威を排除する事など到底出来るものでは無い。本来なら戦闘要員の出る幕ではないはずだった。
 そして、総合的に見れた時、この国の最重要因子はトリスではなく、やはり国王のルードリッヒだろう。今後、周囲から更なる糾弾があった場合、どのような強攻策に出るか予想も付かない。
 先刻見た印象からは、既に相当追い詰められているのは間違い無かった。黒い気が澱んでいて、まるで決壊前の堤防を見ている気分になった。
 よって、ルードリッヒが暴走するか、或いはそれに誘発された事象こそ、ストラヴァーダにとって最も脅威と成る可能性がある。つまり、今の自分のするべき任務は『トリスの護衛』では無く、『ルードリッヒの監視』のはずだ。機密が漏れたことを差し引いても、アルバディヌ家に留まるべきではなかった。
 (だが、俺は――――――)
 クライスは神妙な面持ちをした少女を見つめた。ここにいない、陽気に笑う少女の父親の姿を思い出した。耳を澄ませば、赤毛の少女の小言が聞こえてくる気がした。そして、何時の間にか温かな食卓に座っていた自分の姿が、愚かしくも眩しく映し出された。
 何故、自分はトリスの護衛を引き受けたのか。何故、あんな無茶な契約を反故にせずにいるのか。何故、任務よりも優先しているのか。幾ら理屈を付けて否定したところで、結局のところは認めざるを得ない。
 こんなにも遠くに離れた場所で、真に自分の護りたかったものが転がっていたからだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その時、クライスはふと外の気配に気付き、馬車の扉を開けた。外では方々から、音の低いざわめきが広がっていた。先程の色めいたものでは無く、剣呑な雰囲気が含まれていた。
 「どこへ行くの!?」
 「トリスの元へ。何か嫌な予感がする……」
 状況を把握しする為、クライスは眼前を走り去ろうとしていた使用人らしき少年に対して、最も確実な暴挙に出た。
 後ろから襟首を掴み、引き摺り倒すと剣先を突き付けて恫喝する。
 「答えろ、この騒ぎは何だ?」
 突然の凶行に少年は喉を鳴らすだけで、抗議の声も出す事が出来なかった。だが命の危険を感じ取ったのか、すぐに自分の知っている事を精一杯喋り出した。
 「しっ、知らないよっ!ただ皆、ご主人様と連絡が付かないって騒いでるんだ!!」
 その一言でクライスは剣を収め、少年は一目散に逃げ出した。
 何事も、悪い予感程良く当たってしまうものである。クライスは、暴挙に目を丸くしていた少女に視線を向けた。
 「それで君はどうする?」
 「私は、クライスを信じてる」
 ロザリアは、質問の中身が分かっていたかの如く、よどみなく答えを紡いだ。
 「これは貴方と私の契約。私に、いえ私達に力を貸して」
 クライスは少しだけ驚いた表情した。しかし、黙って頷くと、夕日の差す方へ歩み出す。
 後に続いた少女は、静かに微笑を浮かべていた。
 今は多くを語る必要は無い。確認し合う必要は無い。神に祈る必要すら無い。唯、通じ合った気持ちを信じて歩み始めるのだった。
 (――――俺は、この親子の幸せを守りたい)
 それは任務の為ではなく、この国の為でもない。純粋なクライスの『願いの形』だった。



 ©Gelcy