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第一章 03
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蜂蜜色の髪をふわりとはためかせ、小走りに屋敷の中を駆ける少女がいた。
以前と比べて随分と人気が少なくり、風通りの良くなった廊下に、お世辞にも軽やかとは言えない足音と、明るい声が響き渡った。
「クライス!どこにいるの?ねぇ、クライス!!」
以前、といっても二週間前程の事ではあるが、屋敷の中には我が物顔で闊歩する兵士で溢れ返っていた。しかし、今では夜逃げ後の家中の如く、その気配すらない。
空から人が降って来たあの日――――クライスが、アリストンの騎士団の面々を蹴散らした日以来、驚くほど何事も起こらず、時間だけが静かに流れていた。
けれど、平穏であるはずの今日も、アルバディヌ家の侍従であるマリーは相変わらず忙しかった。いや、もしかすると以前より酷くなったのやも知れない。
マリーはだだっ広い屋敷のロビーで一人、両腕をきつく組み何事か思案していた。遠くから届く声にも反応せず、削り出された大理石の床をじっと見つめるのだった。
「幾らなんでも、これは私一人じゃ無理……」
誰よりも熱心な働き者である彼女だったが、目の前に広がる困難からそろそろ逃げ出したくなっていた。それというのも、つい先日までは壊れた家財の修復に気を揉んでいれば良かった。けれど、それも一段落すれば、目を逸らし続けた現実が迫るのは必死であった。
頭痛の種――目を凝らしても分かるか分からないか程度のうっすらと埃が、床の上に広がっていた。ちょっと気を許してしまうとこれだった。奴らはのうのうと彼女のテリトリーを侵し、我が物顔でのさばっていた。
侍従たるマリーにとって、それは許し難い状況であり、普段であれば即刻強制排除されて然るべき宿敵だったが、今は手をこまねいていた。
理由は明白だ。単純に、作業量に対して人手が少なすぎるのだ。この件も、屋敷でやるべき仕事の全体から見れば、ほんの一部に過ぎない。にも関わらず、今は他人の手が借りれない状態だった。
よりにもよって、雇っていた使用人が殆ど暇に出されてしまったからだ。元々、彼らの多くは、屋敷を警備する兵士達を賄う為に雇われていたのだから、彼らがいなくなれば仕事も無くなる、それは道理だ。だが、何故か昔から雇われていた者達まで屋敷の外へ出されてしまったのだ。
決定は当主であるトリスの意向によるもので、万事徹底していた。ロザリアの世話係を務めるマリーですら、本人が固持しなくては追いやられていた所だった。
それをどうにか説き伏せる事で独り残ったのだから、不満を言う訳にもいかず、赤毛の少女は溜息ばかりを漏らしていた。
孤立無援状態に耐える日々が続いていたのだが、状況は想像以上に厳しかった。何せ、屋敷の住人の世話と、屋敷の最低限事を済ませるだけで一日が終わってしまうのだ。最近になってようやく目星い人材を見出していたが、それでも手が回らない箇所が山積みとなっていた。
そんな世界の苦難を一人で抱え込んだような気分に苛まれる少女が、脳天気な天使の姿を睨めつけた。
「お嬢様、そんなに大声を出されては外まで筒抜けですわ。アルバディヌ家の品格が疑われない為にも、いい加減控えて頂きたいのですが……」
「それに関しては善処するわ。それよりクライスを知らない?!」
ロザリアは口実の常套句でさらりと流し、四方を落ち着かない様子で見渡していた。
以前はどこの社交界に出しても文句の付けようもない完璧な令嬢であったロザリアだが、最近は子供のように羽目を外す機会が多くなっていた。それに、内容も徐々にエスカレートしている気がしてならなった。
それもこれも、あの日を境にしてのことである。よって、これが誰の影響を受けているかも明白だった。
「何をそんなに慌てているのです?あの方が、また何かやらかしたのですか?」
「いいえ。でも、部屋にいなかったから、またフラフラと何処かに行ってしまったのか心配になって……それでなくても怪我は治りきっていないのに、マリーに扱き使われて大変でしょ?それにお父様の護衛もあって、あと――」
赤毛の少女は目の付け根を揉み解しながら、流れる滝のような心配事をじっと聞き入っていた。
ロザリアとは違い、ほんの些細な事も受け流さない律儀な自分の性格を誇りに思っていたが、この時だけは愚かしいと嘆かざるを得ない。
「――それにクライスったら酷いのよ!あんなに約束したのに簡単にすっぽかして一言の謝罪もないの。これは契約違反だと思わない?ねぇ、マリーってば聞いてる??」
(そう、この子はもっと落ち着いていて――――)
マリーは憤りを零す少女を見ながら、清らかな過去を振り返ろうとしたが、どうしても思い出せなかった。
あの事件から僅かな期間しか経過していなかったが、それ以前のロザリアの表情が浮かんでこなかった。
口を閉ざした少女の表情は思い出せる。それと静かに微笑む天使のような顔も、独り悲しみに堪える顔も。
だが、無邪気に笑う顔を最後に見たのはいつだったろうか?楽しげに怒る顔は見たのは?――――記憶の糸を何処まで遠く辿ろうと、そこには辿り着けなかった。
「聞いてますよ。でも、どうせその約束とやらは貴女が一方的に押し付けたのでしょう?」
「な、何でそんな事がマリーに分かるの?」
「顔に書いてあります」
はっ、とした表情で片手を頬にやる仕草が愛らしかった。冗談だと、付け足した時の怒った表情もまた生き生きとしていた。そんなだから、本人にも、その元凶である人物に対しても文句が言えないでいた。
――神ですら、この少女の今を摘み取る権利はない。
そう思いながらも、それが面白くもないものだから、"悪意の一つでも返してやらねばなるまい"
――そう心するのだった。
「でもあの方は、簡単に約束を破る人ではありません。私がお願いしたら、何でも聞いて貰えますし、最後まできっちりやって頂けます。そりゃ多少、ぶっきら棒で愛想の無い面はありますが……きっと根が真面目なんでしょうね。出来ないことは安易に答えないようにしてる、そんな気がします」
「…………マリー、貴女ってクライスの事良く見てるのね」
「ふ、普通に接していたらそれ位何となく分かります。別に取ったりしませんから、変な顔をするのはお止め下さい!」
「クライスは、別に私のものじゃないわ!……お、お父様と契約してるのだから、お父様のもの――――いいえ違うわ。そもそも誰かが誰かのものっていう表現は間違っていると思うの!人は本来、神の前に平等なのだから、所有するとか、されるとかはあってはならなくて――」
視線を逸らし、ごにょごにょと自論を呟く少女の様子を、マリーは微笑ましく眺める。これが彼女にとってどんな変化なのかまだ分からない。単なる好奇心か、母性の成せる言動か、或いは――
あらぬ想像をすると、赤毛の少女は更なる衝動にかられた。
「あらそう?なら、旦那様の用が無い時は、私のものという事でよろしいでしょうか?」
「え……?」
「別に構わないのでしょう?ねぇ、ロザリア」
マリーは意地の悪い微笑を浮かべていた。悪戯な、人を試すような目だ。
「え、ええ!構わないわ。一向に、全く、ちっとも構わない。好きに使って頂戴!!」
よく観察すれば相手の意図を見抜けたはずだが、不意打ちをくらったロザリアは動揺していた。それを悟られぬよう繋げた返答が、クライスの扱いをあっさりと翻している時点で、心の内は丸裸に等しかった。
「あらそう?なら、ちょっとお付き合い頂こうかしら。あの方って見かけによらず鍛えていらっしゃって逞しいかったわね……色々と経験が豊富そうだから、楽しみだわ」
冗談が冗談に聞こえない声色に、ロザリアの顔は一瞬にして真っ赤に茹で上がり、絶句してしまう。薄紅色の唇が、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと開閉していた。
どうとでも取れる話し方で僅かな含みを持たせるつもりが、少々効きすぎたらしい。
「……ローズ、冗談よ?」
「そ、それ位分かってるわ!!」
「……冗談、というのは嘘です」「一体どっちなのよっ!!」
ロザリアは図らずも叫んでしまった時、ようやく自分がからかわれているのだと気付いた。
すると、全身の血が頭に向けて一斉に駆け登り、言い表わしようのない恥ずかしさがこみ上げた。何か言い返せるものなら反撃を試みたいが、どうにもばつが悪い。もどかしさと気恥ずかしさに支配されて、少女はその場から逃げることしか出来なかった。
「マリーの意地悪!バカ!!」
赤毛の少女は、暴言を吐き捨てて駆け出す後ろ姿と、耳の奥で反響する輪郭のない文字を捉えきれず、呆然と佇んでいた。
(バカ……?)
バカと言われた事にショックを受けたのではない。実際、この程度は使用人の――平民の間では、なんてことはない日常会話だ。正直、もっと酷い侮蔑語を言われたとしても、怒りはすれど驚くことではない。
だが、あのロザリアが言ったのだ。あの誰も傷付けまいとする少女が。
幾ら天使のような少女でも、揶揄や皮肉の類は口にするし、怒るときは怒るだろう。だが、他者を卑下することは決してしない、そんな人間だと思っていたのだから、マリーの動揺も頷けた。
「これで良いのやら悪いのやら……この責任、張本人に取らせなくちゃならないわね」
そう不吉な一言を呟き、赤毛の少女は再び目の前の問題解決に向けて思案するのであった。
当のクライスといえば、屋敷の裏手で一人薪をこしらえていた。
大量に積み上げられた薪の横に腰掛け、黙々とナタを振るう姿は堂に入ったものだ。殆ど力を入れている様子もないのに、薪はあっさりと真っ二つに裂けた。手頃な大きさになった所で、薪の山へ放り投げては、再び木を手に取る。
欠伸が出そうな単調な作業だったが、クライスは一連の工程を繰り返した。急ぐでもなければ、手を抜くでもなく、機械のような正確さで淡々と、そして確実に積み上げていった。
「――それで、お前は一体何をしている?」
突然、低い男の声が凍った空気を震わせた。
声の方に視線を向けるが、そこには山積みとなった薪があるだけだ。姿どころか、その気配すら感じさせない。それでなくとも、一面に薄く積もった雪によって生き物の気配は覆い隠されてしまうのだから、ともすれば、幻聴の類だとかぶりを振るところだろう。
しかし、クライスは一瞥して作業を再開させると、一人ごちた。
「見て分からないのか、薪割りだ」
誰もいないはずの場所に向けて、語りかけていた。小さな声だったが、あたかも"お前の輪郭は透けているのだ"と、断言しているかのようだった。
「……お前はそのナタを振るって任務を遂行する気か?」
返って来た問い掛けは、あからさまな嘲弄が含まれていたが、クライスの白皙の表情に微細な変化もない。手元では、やはり薪が割られては投げられ、全く変わらない呼吸で繰り返されていた。
長い沈黙に痺れを切らせたのは、声の主の方だった。
「貴様……本気でこの国に存在する脅威を排除する気があるのか?回答によっては先日の失態も含め、本国へ報告を入れる事になるぞ」
「好きにすれば良い。俺は困らない、全くな。……それよりも『この国に存在する脅威』とは一体何をもって脅威と定義している。そんな曖昧な括りで成果を期待する方が間違っている、そう思わないのか」
「……我々が求める人材は、指示された事を守るだけでは不十分だ。自ら考え、行動し、成果を創出する事、それがお前達――聖騎士に期待される最たる力だと知れ」
――知ったことか。
掠れた声でそう呟くと同時に、こちらへ近付く気配を感じ取った。
「差し当たり、俺は眼前に迫る脅威を排除する」
姿を見せない男は何も答えなかった。肯定も、否定もなかった。ただ、クライスには相手がせせら笑っている気がした。そうに違いなかった。
背後で高みの見物を決め込み、手を貸す事も助言する事も無い。最初に聞かされた通りではあるが、いざとなると、やる瀬無い気持ちになった。
別に剣を貸してくれとは言わない。助言が欲しいとも思わない。だが、任務と関係ない仕事は関わった所で別に支障はないだろう――
クライスがそう考えるのも無理からぬ話しであった。昨今、彼が最も苦戦を強いられているのは、殺意を向けて来る敵よりも厄介な相手であり、今まで対峙した事のないタイプの難敵だった。
そして、騎士団の面々を一人で圧倒した彼にして『脅威』と言わしめる者の襲撃が始まった。まさに奇襲だった。
有無を言わせぬ攻撃を、クライスは紙一重でかわす。後頭部に当たり損ねた物体は、握りこぶし大の雪の塊だった。
クライスに取ってある意味、読み通りの襲撃ではあったが、幾ら新雪であっても力の限りに固められたものが、無防備の後頭部へ直撃すればどうなるか――――恐らく、かなり痛いだろう。
これは確実に急所を狙った、悪意のある攻撃だ。続けざまに放り込まれた第二波も、恐ろしく正確なコントロールによって、顔面へ吸い込まれた。
衝突する直前で雪塊を払い落とすと、暗殺者もどきに対し、彼なりの激しい抗議をした。
「一体何のつもりだ、ちっとも心当たりがないぞ」
「これはただの八つ当たりです。気にしないで下さい」
世にも可愛らしい襲撃者≪ロザリア≫が、鼻息を荒くして開き直った。居直ったと言っても過言ではない。
ロザリアは次弾を装填――もとい、足元の雪をせっせと掻き集め固く握り締めると、ありったけの力を込めて再び投げつけた。
ぎこちないフォームであったが、よほど腕が良いのか、あるいは悪魔染みた力でも働いているのか、またも顔面直撃コースだった。
クライスは余裕でかわし、眼前の脅威に向けて迫った。ただゆっくりと歩いていた、少なくともロザリアはそう見えていた。だが、再び雪を集めようと膝を折り掛けた時には、既に手が届く位置まで二人の距離は縮まっていた。
――運が、良かった。
少女の頭の中でそんな言葉が過ぎっていた。たじろんだ時、声を上げずに済んだのは、ひとえに、マリーとのやり取りで頭が沸騰していたからだ。そうでなければ悲鳴の一つや二つ位、飛び出していたに違いない。それは、先に仕掛けた少女にとって、大いに許せない行為だった。
「気は済んだか?」
その感情の宿らない言葉に、息が止まる。気を取り直す為に深呼吸したのが間違いだった。肺を満たした空気が暴れ、胸が破裂しそうになったが、なかなか栓が抜けないでいた。
問題はそれだけではなかった。少女は憤りを覚えていた。
自分≪子供≫のやる事が簡単にあしらわれた――言ってみれば、唯それだけの事なのに、何故か胸が詰まった。原因がまるで分からず、自分ではない誰かが、自分を勝手に動かしていているようで、心が付いて行かなかった。
ロザリアが見上げると、両者の視線がぶつかった。
自分を見ていない――――少女は直感的に見抜いていた。
長い前髪から覗いた瞳は、少女を見止めているはずだが、『見て』いなかった。誰であっても意味を持たない、それこそ、居ても居なくとも関係のない、そんな目だ。
すると、言葉よりも先に体が動いていた。かじかんだ指が雪を握り締め、投げ付けていた。クライスは、散弾銃の如く散らばる白銀の礫を避けなかった。謂れの無い、不当な攻撃を受けてなお唇は引き結ばれ、心が揺れた素振りさえ見せなかった。
「……気は済んだか?」
「ええ。多少、スッキリしました」
はっきり言って嘘だった。ロザリアの心はちっとも晴れてなどいない。訳の分からないわだかまりを解消するどころか、新たに振り積もった罪悪感の方が、遥かに多かった。
だが、少女は頑なに信じ込んでいた。何が何でも、この人から反応を引き出さなければ、収まりが付くはずがないのだと。
正体不明の怒りに飲み込まれそうになった時、クライスの視線が突如、空へ振り向けられた。反射的に、釣られる形でロザリアも空を見上げた。
――――ぼぶっ。
空から振って来た雪礫が、少女の額に命中した。少女は、その衝撃よりも驚きにバランスを崩し、後ろへそっくり返る。雪の絨毯へ倒れこもうという時、助けを求め、白い手が宙へ伸びる。
しかし、掴んだのは何もない空間だった。
盛大に転ぶ乙女の姿を眺めながら、クライスは、あくまでも冷静に弁解を述べた。
「今のは俺じゃない。君には見えなかったと思うが、第三者からの奇襲だ……正確に表現するのであれば、俺にも姿は見えていないが」
「……ねぇ、クライス。今のが貴方でないなら、するとそれは透明人間の仕業、という事になるのかしら?」
どうにかうつ伏せとなったロザリアは、痛みを吐き出すように、ゆっくりと問い掛けた。
「いや、俺たちが知覚出来ていないだけで、物理的に透過している訳ではないだろう。恐らく、見ようとする意識を逸らす魔導か――」
――ヒュンッ!
下方から鋭く飛来する雪礫が、クライスの顔面スレスレを飛び去った音だった。
「何故、避けるの!?不公平だわ!!」
「言っただろう、君は誤解している。先程の事は俺がやった訳じゃない。だから、俺は君に借りなどない」
(――借りなどない?ならば私の八つ当たりを受けたのも、何かの借りを返すつもりだったの?いいや違う、心当たりがないと言っていたじゃない。なら、今のは貸しを返した、そういう事でしょう!?)
「嘘をおっしゃい!仕返しをしただけでしょう!」
「君の勘違いだ」
「そこまでにしておきなさい、ロザリア」
背後から、猛る少女を諌める声がした。
「何をしているかと思えば、雪合戦ですか?子供じゃあるまいし、お止めなさいな」
厚手のコートを二重に羽織り、更にマフラーと手袋という重装備で着膨れしたマリーは、先刻の呆れ顔を更に深刻にして、こめかみを摩っていた。
「何か用か?薪割りならたった今、完了したところだ」
その一言に、"やはり"という非難の表情を赤毛の少女へ向けるロザリア。だが、当の本人はまったく悪びれた様子もない。
「マリー!やっぱり知っていたんじゃない、何故教えてくれなかったの!」
「それは、貴女が人の話しをちゃんと聞かずに飛んでいってしまったからでしょう?私は、『知らない』など一言も言ってませんよ」
「うぅ……」
どうやらクライスに対しては間欠泉のように気まぐれに爆発するロザリアも、この赤毛の少女に対しては理性が働くようだった。
反論をグッとを飲み込むロザリアの様子を、マリーは満足げに眺めていた。すると、今度は冷然とするクライスの方へ向き直る。
「クライス様、あまりロザリア様を苛めないで下さるかしら?」
「俺は何もしていない」
「……言い方が悪かったわ」
その一言には、流石のマリーも呆れるしかなかった。この場合、何かしたのが悪いのではない。この無関心こそ、荒れ模様の源泉となっていることに、この銀髪の青年は気がついていないのだ。
余程、人間関係に鈍感なのか、それとも何か意図してのことか――――
どちらにしても、人間環境は円滑であることに越した事はないのは確かだ。この異常な程の人手不足においては尚更である。この屋敷の守り手を自負するマリーに取っては、これ以上、厄介事が増える前に、手を打つ必要があった。
「ロザリア様に優して下さるかしら?これでも一応、この国の貴族であるアルバディヌ家のご令嬢であらせられますの」
「俺は、貴族との付き合い方など知らない」
クライスは何の気負いなく、きっぱりと告げた。その驚くべき発言は、この銀髪の青年の人となりを、影から浮き上がらせるものだった。
(この世界で、貴族との付き合い方など子供でも知っているのに……この人は、それすら知った事ではない、そう言っているのね)
貴族との付き合い方というのは、要するに相手に対して媚びるかどうか、その一点に尽きる。言葉では何とでも言えても、詰まる所、貴族とそれ以外の人間では、搾取する側とされる側の関係でしかあり得ない。どこまでいっても結局その壁にぶち当たる、それが現実だった。
「では百歩譲って、異性の友人として扱って頂けるかしら。まさか、それすら知らないなんて仰られないでしょう?」
「そんな契約は――」「ただのお願いです」
語気は強くないのに、それ以上、有無を言わせない迫力があった。クライスは、外へ通じる小窓が、何の前触れもなく閉ざされた気分になった。
「ああ、それと気分転換――という訳ではありませんが、お使いを頼まれて頂けませんか?家の備品が幾つか不足していますの。ちなみに、私は屋敷でやることが山程ありますので、お二人でお願いしますわね」
「「二人で?」」
低い声と、高い声が重なると、小動物が危険な気配を察知した時のように、ぴょこん、とロザリアの小さな頭が跳ね上がった。
その反応をみたクライスは、自分が嫌われている証拠なのだと、しみじみ感じた。別に好かれたいと思っていなかったが、毛虫のように嫌われるというのは、それはそれで気持ちがいいものではない。
しかしながら、相手の感情も理解出来た。自分の居場所が不条理に壊されれば、怒りを覚えぬ道理はない。本来なら、この場にいる事すら間違っているのだ。この家の者にしてみれば、こんな得体の知れない男など、早々に立ち去って欲しいと願っているだろう。攻撃的になるのも無理もない話しだ――――クライスはそう考えていた。
(だが、全て――今更だ。流れ落ちた水は帰ってこない。悔やんだ所で始まりもしない。俺は、この状況を最大限に利用よりない……最善は、これ以上嫌悪感を抱かせないよう務めること、か)
理性的な判断から、クライスは今までの態度を改める決意をした。そしてロザリアを見つめ、彼なりの迫真の『演技』をした。
「心配には及ばない――いや、及びません。こんな腕ですが、使いなど私一人で十分です。貴方様の手を煩わせるまでもありません」
だが果たして、その一瞬を何人が演技と見破れるだろうか。その振る舞いは、それが彼の本質であると信じ込ませるだけの『何か』があった。
有り体に言えば、外見と言動が非常に似合っていたのだ。伸びっぱなしの銀髪でさえ、自由を誇る貴族然とした雰囲気があった。優しげな言葉と、僅かに浮かんだ笑みには気品すら漂っているではないか――――
しかし、この場合は『大根役者』と評価せざるを得ないだろう。
幾ら良い演技をして真に迫ったとして、時と場を無視したのであっては興ざめも甚だしい。舞台であれば、間の抜けたコメディだ。
それもそのはずである。あれだけ冷たくあしらっていた人間が、目の前で突然180度趣きを変えようものなら、見え透いた演技を見抜けない方がおかしい。
クライスの極端な変わり様に、二人の少女の目が真ん丸にしていた。何か別の生き物でも見ているように、呆然となっていた。
一方のクライスも、笑顔を貼り付けたまま固まっていた。二人の様子に、首筋だけがチリチリと騒ぎ立てていた。嫌な汗が吹き出してきそうだった。渾身の振る舞いがまるで通じないだけではない。確実に、何か別の落とし穴も踏み抜いていると、直感が告げていた。
一気に氷点下まで下がった空気に堪えられなくなったのはロザリアだった。
「ぷっ……あははははっ!!クライス、それは何の冗談なの?」
「……私は、先程、こちらのお嬢様にご指摘頂いた事を実践したのであって、冗談を言ったつもりは毛頭ありません」
――最早、大爆笑だった。
なおも調子の崩さぬクライスの顔を見る度に、ロザリアは腹を抱えて笑う。口を塞いで懸命に堪えるマリーだったが、その目には涙を溜めていた。
「何が可笑しい」
流石に馬鹿にされたと感じたクライスは、口調を元に戻していた。表情も別の仮面を被ったかのように、一瞬にして消してみせた。
「ご、ごめんなさい……いいえ、私は構いません。お使いでも何でもこなしてみせます!それに、サイラスのマーケットならお父様をお迎えするにも丁度良いわ!」
一転して朗らかな顔をするロザリアの目には、大粒の涙が溜まっていた。もちろん、悲しくてのことではない。
元の仮面を被らせてしまったが、ロザリアには満足感があった。彼は優しさのある『本物の』演技をすることが出来るのだ。少なくとも、その術を知っている。それに、馬鹿にされたら、ほんの少しだけではあるが怒りもした。
そう、人間らしい感情を持ち合わせているのだ。ここまで徹底しているのは『仮面』を付けているから、そうに違いない――ロザリアはそう確信していた。
何のことがあってか分からない。想像も付かない理由があるのかも知れない。だから、先程の表情が素顔だとも思わない。だが、隠れた素顔がある。それが理解出来ただけで、ロザリアに勇気が湧いて来た。
――――何が何でも、この人の本当を引き出してみせる
それは先刻の怒りとは全く別物の、信念と言うべき決意だった。
クライスは少女の瞳に、揺らめく炎を見た。何かの決意を感じさせる光に、一抹の不安を感じながらも、結局の所、言う事は変わらない。
「……了解」
一言だけ呟き、その場を後にするのだった。
――――自分はこんな所で一体何をしているのだろうか。
もう数える気も失せていたが、新たな積荷が一つ増える度、無駄だと理解しつつも思い返してしまう。
「……一体どれだけ買うんだ」
クライスとロザリアは、アリストンの王宮があるサイラスの街に来ていた。サイラスはこの国で一番大きな街である為、街の中央で開かれる市場も大規模なものだった。
幅広く確保されていたはずの街路は、所狭しと並べられた商品と、除けて固められた積雪によって大幅に削り取られている。
その一角で、買い物に勤しむ若者達の姿があった。唯、二人の様子はかなり対照的ではあった。
青年≪クライス≫は、束になった魚の干物を受け取りながら、疲れた表情でボヤいた。対して、手渡した方の少女≪ロザリア≫は、瓶詰めになった豆を手に取り、吐く息を白く染めて語り掛ける。
「後ちょっとで終わるわ――それより、ねぇクライス。これは一体何かしら?とても不思議な色ね……知っている?」
その質問は、もう何回聞いたか分からなかった。クライスが一言知らない、と告げると、さして興味がないのか、ロザリアは纏った赤い外套を翻し、もう次の獲物を探し始めていた。
質問自体には意味がない、それは分かるが何の意図があってのことか、クライスには図りかねていた。素養を確かめるにしても、聞いている本人が理解していないのだから元も子もない。 あるいは、先刻の意趣返しと考えられないだろうか。意味も分からず、いつ終わるとも知れない荷物係に従事するというのは、クライスにとってある種の拷問に近かった。精神的私刑を狙ってのことならば、この真綿で絞め殺すような手法の効果は絶大だった。何せ、相手に敵意を植え付けることなく、ダメージを与え続けられるのだから。
それにしても、赤毛の少女に渡された買い物リストには、一体どれだけの内容が書かれているのか。クライスの引くソリには、購入物が山のように積み上げられていた。それこそ、保存の効きそうな食料から、日用品、衣料品、雑貨に工具まで信じられない数の品数だ。それほど高価なものは見当たらなかったが、既にそれなりの金額になってる。
しかし、クライスがウンザリしてる理由はそれだけはなかった。大量に買い込んだ荷物から目を離せない状況も、神経をすり減らす原因となっていた。
何しろこの狭くなった通りには、自分達の荷を付け狙う人間で溢れ返っているのだから。
しかし、これには明確な原因があった。真っ赤な外套を纏ったロザリアは、そこに立っているだけで目立つのだが、事も有ろうに、少女は購入したものを道端に倒れている浮浪者に譲って歩いて回っていたのだ。
クライスは当初、少女が貴族趣味で恵んでいるのだと思ったのだが、次第にそうでもないと考えるようになっていた。
本人の自己満足もあったかも知れない。けれど、見え隠れする仕草の根底には、優しさがあった。そこにどんな想いがあるのかは図れない。偽善だと決めつければそれまでだろう。しかし、クライスはそう断言出来なかった――施しを受ける相手が、喜びの表情を見せるからだ。
受け取った相手は、きっと本物の天使にでも見えたのだろう。その場で祈る者、惚ける者、そして後を付ける者が絶えなかった。
一人、また一人と距離をおきながら付き纏う者が増えると、自然と物見高い者も現れた。そして、その人混みを利用して良からぬことを企てる者が加わると、いつしか少女を先頭に、奇妙な集団が出来上がっていた。
クライスは視線の多さが気がかりだったが、護衛対象≪ロザリア≫から目を離す訳にもいかず、背後を警戒するに留まっていた。どう出るか分からない二つの動きを捉えるのは、神経を張り巡らせなくてはならず、なかなかにして困難だった。
(なんだってこんな面倒なことに……)
そうしているうち、クライスに一つの妙案が浮かんで来た。
単純明解だが、効果の期待出来る――そう思い至った後は早かった。あえて荷台から離れると、先行するロザリアへ近付いた。
「おい、そろそろいいだろう。もう荷台が一杯だぞ」
しかし、夢中になって聞こえていないのか、ロザリアはくすんだ赤い布の上に並ぶ怪しげな壺を手に取って眺めて、返事をしなかった。
「おい、聞いているのか?」
「………………」
クライスの声は大きくないが、手の届く距離まで来て聞こえないはずもない。ロザリアは完全に無視をしていた。
「おい、とは一体誰の事ですか?」
「ここで君以外の人間がいると思うか?」
素っ気ない返答に、少女の肩がぴくりと動くが、それ以上は微動だにしなかった。
(落ち着きなさい、ロザリア。こんな事で怒ってはいけないわ。これは、言わばこの人の個性なのだから。……それより、どうやったら素顔を引き出せるのか、良く観察するの)
少女は小さな胸を大きく膨らませると、肺が空っぽになるまで息を吐き続け、
「ええ。薪割り達人のクライスさんの事ですから、てっきり何処かの透明人間さんとお話されているのかと思いましたわ」
「ここに奴はいない」
チクリと刺したつもりが、相手は痛くも痒くもない風情だった。
(これじゃ駄目…………悪意には反応しない)
どうやらこの銀髪の青年は、少女の想像を遥かに超える朴念仁らしい。だが、ロザリアは大貴族であるアルバディヌ家の名に恥じぬ賢い少女であった。屋敷での一件で学んだ施策を即座に実行する。
「ねぇ、こんな所でなんだけど、一つ聞いて良い?……どうしても確認しておきたいの」
子供から大人への成長を間近に控え、少女はそのどちらでもない猫撫で声で問う。
数年後には絶世の美女と謳われるであろう美貌の少女が、恥じらいと媚びを半々に織り混ぜた、急ごしらえにしては質の高いしなを作って『乙女』を見せた。怪しげな壺の代わりに、不思議な模様をした置物を胸元に握り締める姿でさえ、妙にしおらしかった。
「……何だ?」
自分に言えたことではないが、あまりの変わり様に流石のクライスも訝しがる。唐突な変り身は警戒心を抱かせる、そう思い知らされたのだ。単純に信じることが出来なかった。
「クライスは私の事、どう思う?嫌な女かしら?」
「別に……どちらかと言えば――――」
続きを口にしようかというその時、クライスは少女の手から置物を奪い、振り向きざまに投げつけた。
置物は荷台に手を付けようとしていた男の側頭部に命中し、男はよろよろと倒れた。続いて、その反対側で包みへ手に掛けた少年を小突いて倒すと、荷台の影に隠れようとしていた中年男の顎に掌底打を食らわせ、昏倒させる。
「……面倒なだけだ」
人混みを難なくかわし、目にも留まらぬ早業で3人を退けると、その背後にいた第二陣と思しき面々は唸り声を上げた。
敵がいつ来るか分からないから神経を使う――ならばいっその事、相手の方から行動を起こさせる。クライスの戦術は早速、功を奏した。しかも防衛と抑制、二重の意味で。
おおよそ最初の人間が荷台からクライスを引き離し、残りの人間で荷を掻っ攫う算段だったのだろう。計画が頓挫した場合は考えていなかったのか、逃げもせず立ちすくんでいた。
いや、ここで逃げれば仲間だとバラしているようなものだ。巻き添え食らわないようにする為には、このまま何もせずやり過ごした方が良い、そう判断させたのだった。
その空気はあっという間に伝播し、一瞬にして辺りは緊張が張り巡らされた。この緊張感を破ってでも、食料や日用品を手に入れようという奇特な者はいなかった。
ところが、それもほんの一時だった。別のところから少女の悲鳴が上がると、集団の意識はそちらへ振り向けられる。
――嫌な予感が働いた。
悲鳴の主は、乙女≪ロザリア≫だった。頬には短刀の切っ先が突き付けられ、首には丸太のように太い腕が巻かれていた。
ロザリアを拘束した浅黒い肌の大男は特に凄んだ様子もなく、かなり手馴れた雰囲気だ。更に、街のチンピラと一線を画した雰囲気を纏った者は一人ではなかった。
大男の背後に、見えているだけで4人。いずれも一般人の格好しているが、凶悪な大男ではなくクライスの方を睨めつけている時点で、誰に用があるのか一目瞭然であった。恐らく、両者を取り囲むように出来上がった人の輪の中にも、他に幾人か紛れているに違いない。
少女が敵の手に堕ちる――それは護衛を引き受けた時から想定していた事態だった。今更、狼狽える程のことではなかった。
問題の本質は、この騒ぎが誰の描いたシナリオなのか――その一点に尽きる。そのはずなのだが、クライスは本質に目を向けつつも、瑣末なはずの現象に囚われていた。
正直、この少女によって引き起こされる問題の多さにウンザリしていたのだ。他人には天使のように見える少女も、クライスにしてみれば限りなく悪魔に近い存在と化していた。
「ちょっと目を離すとこれか……何だって君は面倒を起こす」
――失礼な!私のせいじゃありません!
恐らく、そう言ったに違いない。手足をドタバタと懸命に動かしているのは、純粋に、喉を抑え付けられた苦しさによるものだけでもない。その射るような相貌が、如実に物語っていた。
「一応聞いておいてやるが、ゆっくり死ぬのと一思いに死ぬの、どっちが好みだ?」
クライスより一回り以上は体格の良い大男が凄んだ。
「誰の差金だ……」
クライスは男の問いを無視した。それでいて、答えの返ってくる見込みのない質問をするとは豪胆にも程があった。
対する大男は、話が噛み合っていないにも関わらず、獰猛な笑みを浮かべる。
もとより、まともなやり取りなど期待していないし、大した意味がある訳でもないだろう。どちらかと言えば、どう料理してやろうかと考えを巡らせているに違いない。間違いなく荒事を生業としている人間のの発想だった。
――――ただし、それはお互い様ではあるが。
「恨みはないが、こちらも仕事なもんでな。あんたも嫌いじゃないんだろ?こういうはよぉ?」
手にした刃物の切っ先を、少女の胸の丁度真ん中に食い込ませた。厚手のコートが緩衝材になっていたが、少しでも押し込めば生地を突き破り、肉に刺さりかねない。
暴れていたロザリアの動きがピタリと止まった事に気を良くした大男は、切っ先を更に下に向ける。
「よしなよ、みっともない」
唐突に、どこからか見知らぬ声が修羅場へ割って入った。
次いで姿を表したのは、まるで子供の喧嘩を止めるような気軽さの青年だった。瓢々と、両者のちょうど中間に位置する場所へ辿り着いたと思えば、双方を順に見やる。
「うん。どう見ても君たちの方が悪役だね。美男美女をやっかんだにしては、たちの悪いことだ」
大男を指差し、青年は一方的に決めつけた。あながち間違いでもないが、何の根拠があっての事ではない。にも関わらず、猫の髭の先ほども疑ってはいない様子だった。
大男の方も、闖入者の登場によって、周囲の仲間と思しき者達へ目配らせをしていたが、特に気配が変わることもなかった。
それも当然の話だ。青年の外見を一言で言うなら――そう、『優男』が丁度良い。
体格は長身だが痩躯で、肩口まで伸ばした金髪と端正な顔が印象の大半を占めており、のんびりとした口調や、ゆったりとした雰囲気は、どこかの貴族か富裕層の人間を連想させた。
世間知らずのお坊ちゃんか、英雄気取りの馬鹿か――誰もがそのどちらに投票しようか決めかねていた時、クライスは違和感を覚えていた。
危険な気配が何処にもないことに対して、僅かな兆候も見逃すまいとする洞察力が、"警戒せよ"と忠告して来るのだ。殺伐とした場と、それを超越した自然体――それこそが不自然なのだと語り掛けて来た。
(そうだ。声色が、視線が、仕草が、気配が、ありとあらゆる挙動が自然過ぎる。優男……?それ以上に、コイツは何かがある)
『確信はないが、警戒に値する』その気配を感じ取られたのか、金髪の青年がクライスの方へ向き直った。そして、二つの視線がぶつかる。青年は、口元に薄く笑みを浮かべていた。
それ見た時、クライスの背筋に僅かばかりの電流が走った。論理的な分析や判断といったものを超えて、反射的に、相手が何か行動するのだと悟った。
何かする――僅かばかり未来が見えたとしても、まさか目の前から消えるとは、夢にも思っていなかったはずだ。
一瞬の出来事だった。大男を含む周囲の面々が、皆一様に青年の姿を見失っていた。
動きが早いとか遅いの次元ではなく、消失に近い感覚だ。最も警戒していたクライスでさえ、目の前の青年がいつ何をしたのか把握出来ていなかった。
一点、決定的に違うのは、『何をしたのか』は分からなくとも、『何処にいったのか』はつぶさに捉えていた点だろう。
大男の右側面にその青年はいた。だが、そこにいたのは彼だけではなかった。その腕が、小柄な少女の肩を抱いていた。がっちりと細頸に嵌っていた太腕から抜け出し、いつの間にか青年の手に収まっていた。
それは物理的に有り得ない現象だ。その証拠に、当の本人たちでさえ、今をもって何をされたのか理解していない。
大男がその事態に気付き、左右を見渡した。そして、目にした金髪の青年に向けて叫ぼうとした時、その言葉を制するように、青年が再び人差し指を差した。
ただし、今度は大男に向けてではない。
――こっちじゃないよ
青年の指は、そう語りかけているようだった。直感的に、大男はその先を辿ろうとしたが、叶わない。何故なら、視線を振り向けるよりも、脳の揺れる方が先だったからだ。
スパンッ――と、皮膚を鞭打つ音がした。
大男の側頭部に、鋭い上段回し蹴りが直撃した音だった。衝撃が大男の首を回し、脳を揺らし、意識を奪った。繋ぎ止めるものを失った巨体は、その場に崩れ落ちるしかない。
「お前が、責任を持って守れ」
クライスの判断は早かった。目を合わせもせず、見ず知らずの青年にたったの一言で託して、自らは残る敵に向けて前進していた。
「行ってらっしゃい」
だが、この場合、言う方も言う方だが、受ける方も受ける方である。金髪の青年は、微笑でその後ろ姿を見送ると、今度はロザリアの手を取り、朗らかな表情を浮かべた。
突然、一方的に押し付けられた役割だったが、嫌な顔一つしていない。いや、それどころか任されたことを喜んでいる節さえあった。
「さて、こちらは特等席で鑑賞させて貰うとしましょう」
「え?」
言うや否や、感じ取った浮遊感。二人は空に向けて跳躍していた――いや、この表現は正しくない。何しろ、上に向かう力は殆ど働いていないのだ。二人の繋いだ手を解く事なく舞い上がっていた。まるで自分の体重が無くなったような軽さだった。
そして、弧を描いて落ちる時もまた、羽が抜け落ちるように静かだ。
二人は露店の細い木と布で出来た屋根の上に降り立った。二人分の体重を吸収したにも関わらず、僅かにたわむ程度で済んでいた。そして、踏み付けた布の弾力を利用して更に舞い上がると、隣接した建物の屋上へ着地する。
「貴方は一体……」
「私はシルファ=バーキン。この国で宮廷魔導師をしています」
「宮廷魔導師!?」
宮廷魔導師とは、王宮の中でも最も魔導の扱いに長けた指折りの人間が集う組織だった。その実力は、戦争ともなれば、騎士を押し退けて前線を張ると謳われる程である。アリストンにおいて、宮廷魔導師は畏敬を持って接せられる力の象徴だった。
そして魔導とは、この世界の根幹を司ると考えられている秘技であり、日々の生活から戦争にまで用いられる実践的学術でもあった。それはこのアリストンでも他聞に漏れることはない。
魔導は現実を侵し、魔導は世界の理を歪め、魔導は人に奇跡をもたらす――魔導の使えないロザリアでさせ、その謳い文句を覚えているのだ。
故に、想像の中の宮廷魔導師は、もっと厳つい壮年か老人で、日夜、薄暗い部屋の中で火に掛けた窯と格闘しているような人間像でしかなかった。
だから年齢などクライスと変わらないであろう青年の意外な身分に、少女は素直に驚くしかなかった。
「意外ですか?」
驚きに驚きが重なった上に、思考が読まれて、ロザリアは大いに動揺した。
「い、いえ。そういう訳では……危険な所を助けて頂き感謝します。私は――」「アルバディヌ家の御息女であられるロザリア様でしょう?」
「私のことをご存知なのですか?」
「いいえ。御目に掛かるのは初めてです」
少女は思わず膝が抜けそうになった。相手のシレッとした顔からは、冗談なのかすら分からない。やることなす事に驚き、一言一言に面食らってしまう。本当に訳が分からなかった。
このシルファという青年は、一体何者なのだろうか。何故、自分を助けたのか、何故、自分の事を知っているのか。
「ロザリア様はこの国で1、2を争う程美しい方で有らせられると聞き及んでおります」
「…………………………………?たったそれだけの事で?」
シルファが自論に根拠を付け加えた途端、二人の間に奇妙な沈黙が漂った。
間をとりなす為に、直ぐに二の句が出るかと思えば、そうでもない。本人にしてみれば、軽口を叩いたつもりもなく、まして皮肉を口にしているのでもないのだ。しかし、妄信的に入れ込んでいる様子もないのも事実だ。
それに、単に『美しい』と讃えられると、自分が外見だけの人間であると言われているようで不快になるのだが、この青年が言うと嫌味に聞こえないのが不思議だった。それだけに、まるで出口の無い迷路に入りこんだような、そんな感覚に陥った。
すると、少女の理解の灯らない瞳を見つけたシルファが助け舟を出してきた。
「後はそう――最近、アルバディヌ家は変わった方を護衛に雇われたとかで、ちょっとした話題になっておりましたので。件の護衛というのは、彼なのでしょう?」
人の口に戸は立てられないものだ。それが国の要人の話題ともなれば、殊更であろう。王宮内で裏の話として、酒の肴になっていても何ら不思議ではない。事情にそれほど詳しくもない少女にとって分かり易い理由だった。
(でも何だろう、この感覚……)
納得したはずのロザリアだが、何か頭に靄が掛かったようで、今ひとつ釈然としない気分になった。だがそんなことより、もっと大事なことを思い出し、すぐさま頭の端に押しやった。
そして、無謀にも屋上から身を乗り出し、
「クライスは!?」
路地を見下ろして叫んだところで、柵のない屋上であることを思い出していた。完全に失念していた。
半身を宙に投げ出し、心臓が締め付ける痛みに襲われる。だが、それも一瞬のことだ。シルファが危なげ無くその手を掴み、体を支えたと思えば、あっさりと引き戻していた。下向きに働く力の加わった体を、しかも片手で難なくと。
遅れて死にかけた事実がやってきて、頭に軽い頭痛が走った。それでもクライスの姿を探さずには居られなかった。
「彼なら大丈夫。ほら、あそこです」
細指の差した方向には点々と人が倒れ、細長く伸びた露店に並ぶ売り物の如く列を成していた。その数およそ20人。またその列の両端では、巻き添えを恐れた面々が、そそくさと逃げ出している様子が見て取れた。
「恐ろしく早いな……魔導は使っていない。殆ど筋力だけで表現しているのか。なんとまぁ……そして、急所に一撃……一人で戦うのに理想的な戦術だな。左腕は使わないのか、それとも使えないのかな?どちらにしても片腕であのバランス感覚……大したものだ」
シルファは目を輝かせ、つらつらと分析して見せた。立て続けに出て来る賛辞が如何程のものか、戦いというものを知らないロザリアには分からなかった。ただ、シルファの『圧倒的』という評価は、きつく閉まった胸を撫で下ろすのに十分な信用力があった。
「そろそろチェックメイトかな」
そうシルファが呟くのと、クライスの踵が最後の一人となった敵の鎖骨を砕いたのとが、同時だった。そして、その合図はロザリアの思索の旅の到着点でもあった。
(ああ、そうか……この人は、クライスに似ているんだ)
少女の直感が、突飛な答えを導き出していた。何せ、二人の外見は似ていない。
背丈はクライスよりシルファの方が高く、髪の色は銀色と金色。雰囲気にいたっては、万人を拒絶する冷徹さと、全てを受け入れる寛容さでは、対極的ですらあった。
よくよく眺めれば眺める程、二人の違いを見つけることが出来る。にも関わらず、何故二人が似ていると思い至ってしまったのだろうか。
深く考えるより先に、男の野太い絶叫が響き渡った。消え行く苦痛と呪いの言葉を、少女は高い所から耳にした。
戦場に様変わりしたマーケットで、地面にへたり込んでその声を聞いた男には、クライスが悪魔にでも見えたに違いない。
その蛇に似た顔つきをした男は、グラントだった。半月前まではトリスの護衛と、その邸宅の警護を任された貴族の男だった。
ゆっくりと近寄るクライスに、石畳に尻を付いたまま後退りするグラント。二人の距離は一向に縮まらなかったが、グラントが馬車の車輪にぶつかり、動きを止めると、次第にその間隔が埋まっていった。
クライスは問わない――理由など知れているからだ。それにグラントに対する興味も無かった。
クライスは疑わない――自分の命の狙う者は等しく敵である。それが如何なる者であろうと、排除するのみだ。
よって、これから成すべきことは明確だった。
目前にした蛇男の体は緊張と恐怖の余り、ガタガタと大きく震わせていた。恥も外聞もなく、プライドを全て投げ売ってでも命乞いをする必要に迫られていた。見下ろした銀髪の青年の眼が、そうさせていたのだ。
長い前髪の間から覗く冷徹なる瞳。その感情の欠片も映さない無機質な輝きが、絶対的な死を連想させた。
『貴族』という権力にものを言わせるか、金を積めば人を動かせると思い込んでいたグラントだが、そんなものを歯牙にも掛けない人間が、現実にいることを思い知らされていた。
当然のことながら、反発心からグラントに抵抗する者はいた。ただし、暴力にモノを言わせた時、平伏さない者はいなかった。
しかし、この男には得意の暴力が通用しなかった。あの忌々しい評議員には、権力すら通用しなかった。自分の持てる力の全てが、通用しなかった。それどころか、反対に自分の方が見下ろされている。しかも、まるで物を見るような眼で。
普段ならば思い付く限りの罵詈雑言を浴びせるグラントだが、今はそれどころではない。頭の中は、恐怖で埋め尽くされていた。
取り繕えば殺される。罵倒すれば殺される。命乞いをすれば殺される。飛び掛れば殺される。背を向ければ殺される――――何をしても殺される!
絶望からそう結論付け、涙目となった蛇男を救ったのは、遠くから届いた天使≪少女≫の叫びだった。
「クライス!殺してはダメよ、もう許してあげて!!」
それは少女の強さと優しさを象徴するような台詞だった。自分が殺されかけたにも関わらず、相手を許せというのだ。屋敷の裏で乱暴されそうになった時と同じく、相手の明確な敵意を受けても、それを排除するなと言うのだ。
この時、クライスは少女を理解した――――
これは――人助けは、彼女にとって当然の、日常の出来事なのだ。自分の時と何ら変わらない、相手の立場も、善悪すら関係なかった。
言うなれば、彼女の『人間』に対する接し方――そう、自分には到底理解出来ないと思考だと、理解した。
しかし、例え相手を理解したからと言って、自分の行動が強制される理由にはならない。瞬間立ち止まった足が、更にもう一歩踏み出した。その時、今度は物理的な行動がクライスの足を止めることになった。
クライスは、背後から肩におかれた手が誰のであるか認識する前に、真横に飛び退っていた。そして急制動を掛けながら背後の敵へ振り向く。数メートルに渡り靴跡が刻まれると、言い知れぬ戦慄が走っていた。
(こいつは一体、どこから湧いて出て来た!?)
屋上に少女といたはずのシルファが、いつのまにか、背後から手を伸ばしていた。にわかに信じられなかったが、クライスは直ぐに認識を改めることが出来た。
単純なことである。自分自身が初めから意識していたことに確信を与えてやれば良いだけなのだ。外見に騙されず、振る舞いに踊らされず、刮目し、本質を見極める。すなわち――
――自分は2度も殺されていた、と。
一層の緊張感が体中を駆け巡ると、無意識に敵意が噴き出していた。だが、シルファはその気勢すら平然と受け止める。むしろ、自分に興味が向けられていることを好ましく感じている風でもあった。
「これ以上は宮廷魔導師として見逃せなくなってしまう。ロザリア様もこう仰られている事だし、ここは引いてくれないか?」
「宮廷魔導師だと?」
繰り返した響きには、ロザリア以上の意味が込められていた。何故なら、クライスは宮廷魔導師の危険性を理解していたからだ。そして、恐らく今回の目的を達成する上で、最大の障害になるであろうことも。
「私はアリストンの宮廷魔導師で、シルファ=バーキンという。君は?」
シルファは純粋に、興味を示してくれた相手に対する対応として自ら名乗った。そこに威圧も、権力の誇示もない。彼が街のパン屋であっても、同じ語りをしたに違いない。単なる挨拶、それ以上意味を汲み取ることは出来なかった。
しかし、その名は聞く者によって思いもよらぬ効果を生み出していた。
死にかけていたはずの蛇が、息を吹き返した。空っぽになりかけていたその頭の片隅に残る悪意を目一杯膨らませて、激しく叩き付けるのだった。
「シルファ=バーキン?……貴様があの?丁度良い、この男を倒せ!いいや、王宮へ歯向かう反逆者だ!殺してしまえ!!」
「……五月蝿いよ、お前」
シルファは目も向けず、犬を追い払うような所作をすると、いきり立っていたグラントは硬直し、ゴトリ、という音と共に、横たわってしまった。
「そうだ、それとこの男はこちらで預かろう。どうせ、あっちで寝ている奴らとの関係を話す訳もないけど、代わりに君がしたことも問われない。まぁ直接この男に何かした訳でもないから、罪にも問えないが……一応、お互い様ということにしてくれないか?」
クライスが戦術を巡らせる前に、平和的な提案が差し出されていた。クライスは僅かに思案し、
「……了解した」
すんなりと取引に応じた。だが、それは相手のことを信用したからではない。
第一に、能力の知れない相手と正面きってやり合うのは危険だからだ。大抵、魔導師と呼ばれる程の高みへ辿り着いた者であれば、隠し玉の一つや二つは持っている。この男なら、1ダースや2ダース位は平気で持ってそうな気がしてならない。
それに、宮廷魔導師と事を構えるのは、今後を顧みても得策ではない。あくまでも論理的な判断によって、相手に悟らせずこの場を離れた方が良いと、結論付けていた。
それに、これ以上深入りすることに対して、何か予感めいたものを覚えずにはいられなかったのかも知れない。そして、それはきっと想像以上に面倒なことだと、直感的に判断していた。
クライスは踵を返し、ロザリアの元へ歩き出す。苦笑いと、僅かな寂しさが入り交じった表情をするシルファがいた。
――関わらない方が良い。
それは恐らく正しい判断だ。だが、ロザリアの件で借りもあった。
クライスは貸し借りをしない主義だ。世の中には喜んで、あるいは嬉々としてして貸し与えようとする者達がいる。無償で借りられることが当然の権利だと思い込んでいる者達もいる。だがクライスにとって貸しを返してもらうのも、借りを返すのも面倒なだけだ。
だから、すれ違い様に、一言だけ残していった。
「俺は……クライス=デュー。世話になった」
たった一言、そう呟いただけで、借りを清算したのだと言わんばかりの態度だ。普通の者であれば、あまりに不躾な態度に憤慨しそうなものだったが、シルファも当然のことのように気にも留めてはいなかった。
「クライス……良い名前だ。覚えさせて貰う」
眼を伏せ、名の響きを確かめるように余韻に浸るシルファの口元は、やはり静かに微笑んでいたのだった。
シルファと別れたロザリアとクライスは、ずいぶんと遠くなってしまった荷台へ、肩を並べて歩いていた。
「ねぇクライス、私は思うの――」
俯き加減だった顔を上げ、意を決した少女が話を切り出した。銀髪の青年は視線を真っ直ぐに見定めているから、頭一つ以上背の高い位置にある顔がどうなっているのか分からない。恐らく無表情に違いないが、それでも構わなかった。今は意地悪をしたいのでも、本性を暴きたいのでもなく、ただ伝えたいのだ。
「この世界で失われて良い命なんてない。どんなに大きな罪を背負った人間だって、やり直しが出来る。償うには一生掛かるかも知れないけど、それでも神はお許しになられるって」
「……おかしいかな?それとも、現実を知らない小娘の偽善だと笑う?」
ロザリアは真剣だった。クライスには、それが少女の偽りのない本心であることは分かる。その程度には、少女の事を理解していた。だが、その底に根付く精神は、クライスにとって理解し難い。
この世界は、誰も彼もこの少女のように優しくはない。いや、むしろ大半の人間は自分の事以外、驚く程興味を持たない。隣人が死のうが、生きようが、自分に害悪が及ばない限り、その本当の理由すら知ろうとはしない。そんな事よりも、明日食べるパンの事の方が、よっぽど気に病むのだ。
だが、それは致し方のないことである。誰も自分の命が一番大切なのだ。それが自然であり、正しい考え方なのだ、何もこの国だけに限った話ではない。世界中で戦乱が絶えることがない。何処を旅しても、人は傷付き、傷付け、病に怯え、飢えに苦しみ、心を病み、死を遂げていく。惨めに、あるいは無為に。
この世界は、どうしようもなく不公平なのだ。他人の世話をする余力がある者のは、すなわち貴族≪満たされている者≫だ。
――欺瞞だ。
クライスは心の中で断じた。
――――神?
そんな人に都合の良いものなんて存在しない。罪はどこまでいっても罪だ。罰となって返ってくるその時まで、消えず、ただ積み重なっていくだけだ)
――――許し?
そんなものは何処にもありはしない。そんなものはあってはならない。殺された者の家族は、殺した者を許すのか?友人は?恋人は?そうだ、許されるはずがない。人々の気持ちを踏み躙った者が許されていいはずがない。俺も、アイツらも、許されていいはずがない)
(ああ、そうだ。お前の言うとおり、お前は何も分かっていない。現実を知らない。満たされた者が上から施しをして自己満足しているだけだ。そんなありがた迷惑を俺に押し付けるな。見せつけるな!)
葛藤が、心の中で騒ぎ立てていた。一見、平静を保ってはいたが、搾り出すように、慎重に言葉を紡いだ。
「それが物乞いや、あの男を助けた理由か」
「それもあるけど……ううん、今までだったら、それだけだったかも知れないけど――」
ロザリアはかぶりを振り、クライスの横顔を見上げた。一体、今自分がどんな顔をしているか知りたくて、相手の心に映る自分が見たくて、クライスを見つめた。
そして、それまで交わることの無かった視線が交錯する。クライスの眼には驚きがあった。
――きっと自分は苦しそうな顔をしているのだろう。もしかすると泣き出しそうな顔かも知れない。そうでもなければ、この人が驚くことなんてないのだから。
何故、こんなにも胸が苦しいのだろうか。ただ思っている事を伝えたいだけなのに、一言伝えようとしているだけなのに、後一歩踏み出すのがこれ程までに怖いのか。
しかし、言わなければならない。伝えなければならない。どれほど苦しくても、ここから、私達は始まるのだから。本当の意味で向き合う為に、自分を知ってもらう為に、進まなくてはならない。 、
「でもね。私は……それ以上に、貴方に人殺しなんてして欲しくないの。貴方にどんな過去があったか知らない。でも、心を殺してまで人を傷付ける必要なんてない。罰はもう十分に受けている、そう思うの」
「……俺は人殺しだ。これまで何人殺したか数え切れない程のな。俺は心すら必要としない。今更、許しなんて――」
――そうだ、お前は人殺しだ。どう償おうと過去は消せない。許されない。
誰かが、そう語り掛けているような気がした。心の声というにはあまりにも明確な、色とも音とも取れない、感覚にこびり付いた音だった。
クライスが身動ぎするように左腕を掴むと、カチャリと、左腕を体に括り付けた拘束具の鳴らす音がした。強く握りしめても、何の痛みも、触れている感覚すら伝えて来ない左腕が、そこにあった。
「罰なんて受けていない。俺はまだこうして生きている、のうのうと。俺が許されるとしたら、多分、罰を受けて後10回は死ぬ必要があるだろうな」
(――ああ、引き出してしまった)
聞きたくなかった言葉を。聞かずには居られなかった言葉を。その悲しすぎる生き方を。短い言葉に込められた想いを。
(これが――――これこそが、この人の本心なんだ)
その一言一言を、ロザリアは受け入れようとした。そして、これまで何も考えずにいた自分を恥じた。初めから分かっていたはずなのに、知ろうともせず、ただ欲しがっていた自分を恥じた。
また掛ける言葉が見つからなかった。気にしない、と言うのは嘘になる。ごめんなさい、と言うのは否定になる。理論的な説明も、感情的な訴えも、何を言っても何かが違う気がして、ただ俯くしかなかった。
すると、歩みが次第に緩やかになり、いつしか少女の足は止まっていた。
ロザリアは先に行ってしまいそうになる外套の裾を、思わず掴んでいた。けれど弱々しく掴んだだけだ。少しでも先に行けば振り払われてしまう。しかし、黒い皮の外套は、少女の手を離れることはなかった。
「だが……俺はもう、人殺しはしない。誰も殺さない……」
クライスは背を向けて、誰に向けたものでもない誓いを口にする。
「そう…………良かった。本当に……」
ロザリアがどうにか一言を返すと、大粒の涙が零れ落ちた。止めようと思っても止められず、ロザリアは声を殺して啜り泣いた。
しばらくすると、そんなロザリアを無視してクライスは前を行く。今度こそ、小さな手から外套が離れていった。不意に、そのことに心打たれようとした時、
「早くしてくれないか、ロザリア」
驚きで、俯いた顔が跳ね上がった。
(……今、ロザリアって?)
クライスが名前を呼んだのだ。初めて、自分の名前を呼んだ。
「どうした、まだ買い物をするんだろう?それに、さっきのドサクサで荷物をかなり持っていかれた。もう一度買い直さないと、きっと彼女に怒られる」
少女の不安が安堵に代わり、驚きが喜びに変わっていった。
「……ええ、きっとそうね。もう一度、やり直しね」
満面の笑みでロザリアは答えた。どんな高価な物よりも価値のある笑顔だった。クライスは心底、面倒だと思っていたが、その価値の分だけは付き合ってやることにしたのだった。
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