T O P L I N KB L O G
N o v e l
 第一章 02
 

 熱い――
 体が、焼けるようだ。
 俺は、この熱を知っている。この痛みを、知っている。
 忘れるはずも無い。これは慣れたはずの感覚だ。生きている事の証だ。
 この苦しみを、忘れてはいけない。
 思い出せ――自分が何者か。
 思い出せ――何をするべきか。
 思い出せ――



 唐突な意識の覚醒と共に、全身に痛みが走り、微かな呻きが漏れた。
 しかし、反射的に体を動かす事は無い。薄っすらと瞳を開け、慎重に状況確認を行う。それは訓練された者の習慣だった。
 周囲は薄暗く、人の気配も無いが暖かい。牢獄ではなく、生活感のある部屋だった。
 五感を張り巡らせ、差し迫る危険が無い事を確認すると、今度は自身の診断をする。
 その一連の動作は、彼≪クライス≫にとって決まりきった『作業』だった。
 (脇腹に骨折が1ヶ所、裂傷と打撲はおおよそ20ヶ所、致命傷はない。左腕以外の神経は異常無し。稼動率は……七割、か)
 クライスは自分の体を、まるで他人事のように診断を下した。痛みは邪魔だったが、障害と呼ぶ程では無い。問題があるとすれば、霞がかった思考と、異常な喉の渇きの方だ。
 至る所に負った傷が発熱し、全身が干からびていた。焼け付いた喉の乾きは、灼熱の砂漠にいるよりも堪え難いものだ。けれど、感覚が教えてくれた。
 (…………俺はまだ、生きてる)
 俯瞰して見れば、大怪我――そういって差し支えない状態だったが、あれだけの衝撃を受けて死んでいないのだから、強靭な肉体と幸運の賜物としか言いようがないだろう。
 クライスは、部屋の中に人の気配が無い事を改めて確認すると、ゆっくりと体を起こした。
 じっとりと滲む汗を拭うと、カチャリ、と音がした。左腕に巻き付いた、ベルトの止め具が鳴らす音だった。
 黒革のベルトは、腕を体に固定する為の拘束具で、一年程前に動かなくなって以来、ずっと身に付けているものだ。
 右手で拘束具の状態を確かめつつ、乾きを潤すモノが無いか周囲を見渡した。しかし、欲するものが、そう都合良く用意されているものでもない。
 「招かざる客だな……」
 クライスは小声で呟くと、自嘲的な笑みを浮かべた。
 部屋の中で唯一の明かりである暖炉の炎が、その表情を映し出していた。造りは全体的に線が細く、美貌と呼べる顔立ちだったが、今は銀髪がじっとりとした汗で張り付き、陰鬱な影を落としている。
 そして、長い前髪の間から覗く明緑色の瞳は、鋭利な刃物の鋭さを秘めていた。それは『戦う者』の眼だった。
 クライスはふと、体に巻かれた包帯に気付いた。
 (……あの少女か?)
 未だに靄が掛かったままの頭が、少しずつ記憶の欠片を拾い集め出した。ただ、思い出せるのは、傍らにあった輪郭、そして温かな手。後は何かずっと話し掛けていたこと位だ。具体的な内容など覚えていなかった。
 そのぼんやりとした記憶を手繰ろうとすると、何故か胸が痛んだ。物理的な痛みとは別の痛みだった。
 (あれだけの被害を撒き散らしておいて、この扱いか)
 壁に掛かった穴だらけのレザーコートを片手で器用に身に付けると、さっさと部屋の出口へ向かった。けれど、その足取りは覚束ないず、明らかに無理をしていた。
 壁に張り付き外の気配を探ると、話し声が聞こえた。見張りは最低二人。クライスは躊躇いもせず、平然と扉を開けた。
 大きく開かれた扉の右側に立っていた男は、ぎょっとした顔をする。
 すぐに自分の役目を思い出し剣の柄を握るが、その時は既にがら空きの顎をクライスの放った右フックがとらえていた。
 有無を言わせぬ凶行で見張りの男の意識を奪うと、扉の反対側にいる男に向かって歩き出す。だが、その足がぴたりと止めった。間髪入れて、扉の奥から別の男が切りかかって来た。
 クライスは袈裟切りに振り下ろされる剣線を難なくかわすと、お返しとばかりに左前蹴りを男の鳩尾に浴びせる。内臓が破裂しそうな勢いの蹴りを食らった男は、目を剥きながらに悶絶した。
 一瞬にして騒動は治まり、辺りは静けさを取り戻した。
 (他の見張りはいない――)
 クライスは辺りの気配を探り、近付く気配が無い事を確認すると、右手を蹲った男に翳す。
 すると、白い光が手元に集まり出した。眩いが熱の無い光は、一瞬にして血のように赤い線に変質し、男に喰らい付いた。親指から小指まで、5本の線が男の四肢に進入した所で、細長い指を滑らかに動かすと、合わせるように、うつ伏せたになった男の手足が波打った。
 具合を確かめるように動かした指を折り畳むと、今度は全身を丸めて亀のようなポーズとなった。窄めた指の内、人差し指、中指、薬指を勢い良く広げると、丸まっていた体が電流に打たれた様に背筋をぴんと伸ばし、起き上がる。
 全身の筋肉を硬直させ、直立不動の姿勢を取る見張りの兵士が出来上がると、同じ要領で反対側に寝ている男も立たせる。傍から見れば、一瞬の隙も無く見張りに臨む衛兵だ。ただし、一人は顔を痛々しく腫らし、もう一人は白目を剥いて失神していたが。
 即興で張りぼての見張り番を創り上げると、クライスは何事も無かった様に、堂々と廊下を歩き出すのであった。


 ――最悪だ。  月明かりも届かない林道を眺め、そう呟いていた。
 ――いつの間に、この体は鉛になった?
 足を進めれば体が焼けるようなのに、吹き付ける風に凍えるなんて矛盾している。
 ――喉が、乾いて仕方ない。
 傷口が発熱している。視界がチラつき出した。
 ――早く、此処から立ち去ろう。
 何だ?悲鳴か?――いや幻聴だ。もう大分歩いたはずだ。聞こえるはずがない。そうに決まっている。
 ――何で足を止める?振り返るな。面倒事は全部無視しろ。
 ああ畜生!最悪だ!!


 「まさか……本当にそんな事が?」
 事の顛末に一仕切耳を傾けていたマリーだったが、とうとう我慢ならずに驚きの声を上げた。話し手であったロザリアは、沈痛な面持ちで一息付いた。
 「私自身が一番信じられないわ……でも本当なの」
 「……だとすれば尚更、騎士団に引き渡すのが妥当ね」
 「駄目よ!そんな事したら、ろくな調査も無いまま張り付けにされてしまうわ……」
 「ロザリア様、この件は既に個人の範疇を超えて、この家全体の問題です。もし、万が一の事態になったとき、貴女に責任が取れますか?」
 「なら、せめて!……せめて、怪我が癒えるまでの間、匿ってあげましょう?」
 「ローズ……何故、あの方にそこまで拘るの?」
 「……何故?」
 相手から指摘され、ロザリアは初めて自分の理由が曖昧になっている事に気付いた。
 「…………分からない。理由はあるけど、理由になっていないというか……何か、もやもやした気持ちなの」
 歯切れの悪い回答にマリーは訝しがる。普段のロザリアならば、人を助けるのに理由など持たなかったからだ。
 困っている人間を見ると片っ端から手を差し伸べてしまう、極端な言い方をすると、この少女はそういう人間だった。
 当然、全ての出来事に力を貸した訳ではないが、家族から街の物乞いに対してまで、分け隔てなく手を差し伸べる事が出来る稀有な人となりだった。
 驕らず打算も無いロザリアの在り方は、平民で余力の無いメイドからすれば、『全て』に等しかった。だから今回も『理由なんて要らない』と突っ撥ねて来るかと想像していただけに、意外としか言い様がない。
 「……ちょっと様子を見てくる」
 「ちょっと待ちなさい。話はまだ付いて無いわ!」
 「お父様が帰られたら、もう一度話し合いましょう」
 ロザリアは一方的に会話を断ち切った。そうでもしなければ、感情的に相手を責め立ててしまう気がしたからだ。
 胸に閊えた『何か』の正体が分からなくて、少女は戸惑っていた。
 ――何故?
 とぼとぼと歩きならがらも自問するが、答えの無いまま、あの銀髪の青年を介抱した部屋へ辿り着いていた。
 「ご苦労様です」
 そう言って会釈をするが、相手の顔を見てはいない。警護という名目で屋敷に居座っていた兵士達には、出来る限り目を合わせないようにしていた為、自然と習慣付いた挨拶の仕方だった。
 だから、相手の返事が無い事に気付くまで数秒を要した。
 (……?)
 少女が見上げた先には、痛々しく顔を腫らした兵が、直立不動で小刻みに震えていた。扉を挟んだ反対側にいる者など、どうやって立っているか――白目を剥いて意識を失っていた。
 咄嗟に少女が部屋の中に飛び込むと、そこは既にもぬけの殻だった。
 「まさか……大変……!!」
 呟きだけを部屋の中に残し、走り出していた。当てがあった訳ではない。強いて言えば、直感的に足が進み出していた。
 (まさか、あんな体で歩き回るなんて!)
 完全に油断していた。あの人は怪我のない所を探す方が難しい位、酷い状態なのだ。だから、動けるはずがないと思い込んでいた。
 急かす鼓動のまま屋敷の勝手口から外に飛び出すと、身を斬るような突風が少女の細い体を打ち付けた。本格的な冬の到来はまだ幾ばくか先のはずだったが、凍死するのに十分な冷気が夜の世界に充満していた。
 ロザリアは辺りを一瞥するが、闇夜の中に青年の姿は見当たらない。まだそう遠くには行っていないはずなのに、気配すらなかった。
 ――何故、あんな体で!!
 羽織ったナイトガウンだけでは、この寒さの中を探し回るのに些か心許無かったが、部屋に戻って身支度をする時間があるとも思えず、結局、ロザリアは歯を食いしばって先に進む事にした。
 無理をすれば命に関わる――――そんな恐ろしい想像をするだけで、足が止まることはなかった。
 「どこにいったの!?」
 左右を見渡しながら、屋敷の正面に向けて駆け出した。辺りを森で囲われたこの屋敷に通ずる道は、正面の一本しか存在しない為、最も選択の可能性が高い。
 だが不幸な事に、少女は追い付く所か別の障害にぶつかってしまう。建物の影から突如現れた存在に気付かず、正面衝突していた。辺りに意識を傾け過ぎていたのだ。
 「お~っと危ない!こんな所に何の御用で?お嬢様ぁ」
 激突した反動で飛ばされ、地面に転がった少女の上からダミ声が響く。
 ロザリアは、相手の姿を見る前にその正体に気付くと、嫌悪感を覚え、同時に、最も顔を合わせたくない存在とぶつかる不運を心の中で嘆いた。
 極力表面に出さないよう取り繕い、どうにか謝罪の言葉を絞り出した。
 「ごめんなさい、急いでいたもので。ですが、貴方がたには関係ない事なので、失礼します」
 ロザリアは、ろくに相手の顔も見ず、裾に付いた土を払って立ち去ろうとした。
 「ちょっと待ちな。関係があるんだよ、それが」
 その手を、無遠慮に節榑立った手が掴む。反射的に顔を上げると、鬚面の男が、品性の欠片も感じさせない笑みを浮かべていた。
 「お嬢様がウチの大将とやり合ったお蔭で、こんなクソ寒いのに、こんな馬鹿みたいデカイ屋敷の外で阿呆みたいに長い時間、見張りをやる羽目になりましてね」
 「寒くて寒くて仕方ないから、しょうがなくコレで体を温めてたって訳ですよ」
 鬚面の男の脇にいた背の低い男が、片手に酒瓶が握りながら楽しげに言葉を接いだ。二人とも暗闇でも分かる位、顔を真っ赤に染めていた。視点は定まっておらず、泥酔している様子が伺えた。
 「そうですか。それは申し訳ない事をしました」
 「おおっとー、最近のご令嬢は、人にぶつかっておいて、謝罪もしないのですか?それとも俺達の様な平民はゴミだから、その必要も無いと?」
 「ぶつかってしまった事に関してお詫びします。ごめんなさい」
 支離滅裂な問答を吐き出す護衛兵達は、言葉では慇懃に、けれど態度は小娘風情と侮るような相手だった。そんな人間に対して長々と哀願する程、少女は物知らずではなかった。
 「さぁ、放して下さい!放してっ!!」
 半ば強引に手を振り払おうとするが、腕力で叶うはずもない。逆に引っ張られると、バランスを崩して再び、地面に転んでしまう。
 地面を擦る音と共に、スカートの裾が深く捲れ上がると、途端に、男達は脂ぎった顔に満面の好色を浮かべる。
 「おっほぉ。お嬢様の方から誘って頂けるとは!あー光栄の極みでございますなぁ。せっかくなんで、平民流の謝罪の仕方ってやつを教えて差し上げますよ!!」
 素早く裾を畳み、立ち上がろうとするロザリアの上に髭面の男が覆いかぶさる。もう一人の男といえば、止める事も無く、ズボンの紐を解いていた。
 「嫌っ!助け――――」
 叫ぶ少女の口を男の手が塞ぐと、助けは乾いた空気に飲み込まれていった。昼間であれば、それなりに人通りも期待出来る場所だったが、人々が寝静まったこの刻限では、誰かの耳に届いた可能性は限りなく低い。
 抵抗する少女の首筋に、酒臭い口が近付いた。
 「この匂い、たまんねぇな~!」
 嫌悪感がロザリアの全身を駆け巡った。恥辱で神経がどうにかなりそうだった。
 ――こんな所で、こんな者達に組み敷かれる為、今まで生きてきたのではない!
 両足は絡め取られていた為、空いた手で必死に殴り付けるが、髭面の男は意にも介さない。少女の細腕なおも抵抗し続けるが、それは男の嗜虐心を煽るだけであった。
 男の指が、少女の肢体をゆっくりと這わせると、込上げる吐き気と涙を食い止めるのが、いよいよ困難になった。
 (――お願い!誰か、誰か助けて!!)
 「その表情、たまんねぇな。焦んなくても夜は長いぜぇ?ひぃひぃ言わせて――――」
 男は卑しい台詞を最後まで吐き出す事が出来なかった。いつの間にか、男の脇腹にブーツの爪先がめり込んでいた。着込んだコートなど、何の緩衝材にもならない。
 容赦なく肋骨を粉砕した衝撃が伝わるのと、体が吹き飛ばされるのは、一体どちらが早かっただろうか。瞠目したロザリアがようやく瞬きをした頃、髭面の男は既に2m程先の植え込みに転がっていた。
 ひぃ、とズボンを下ろしたままの男が声を飲むと、今度は前蹴りが、男の股間を強襲した。防御する暇さえ与えず、男の急所を完全に叩き潰す。
 それは悶絶などと言う、生易しい言葉では到底表現し切れない痛みであったのだろう。男は一言も発せず、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
 「あ、貴方は……」
 少女の貞操を救ったのは、先に行ってしまったはずの青年≪クライス≫だった。
 クライスは呆然とするロザリアを凝視していた。見下ろした視線は、見知った相手であっても堪え兼ねる強さだったが、ロザリアは人から見られる事に対して極端に慣れていた為、自然と受け止めていた。
 少女は視線の先に『冷たい宝石』を見た。それは、長い前髪の間から覗く明緑色の瞳だ。
 光の当たるステンドグラスよりも透明な色に、深く吸込まれていた。眼を奪われるとは、こういう事を指すのだろう。その事に気付いてなお、鮮やかな色彩に囚われた体が動かなかった。
 「……お前が、呼んだのか?」
 「…………え?」
 唐突に、クライスが口を開いた。だがロザリアは、一瞬相手が何を言っているのか理解しかねた。そして、ふと我に返えり、言葉の意味を受け止めるよりも、この状況がとてつもなく恥ずかしくなった。
 スカートの裾から腿を現わにしている有様などもっての外だが、『男性に見惚れていた』など、あの赤毛の少女≪マリー≫に何と言われる事か知れたものではない。
 「――わわわわ、私はアナタの事が心配で!」
 咄嗟に湧いて出た台詞は、まるで受け答えになっていなかったが、クライスの方は何の反応もしなかった。慌てふためく少女を笑うでもなく、ただじっと見つめ、
 「……こいつらは、お前の家の者か?」
 感情の無い低い声で、別の質問をした。
 「違います。この者たちは――我が家に土足で上がって来た居直り強盗みたいなものです。居なくなれば、どんなに良い事か……」
 きっぱりと否定したところで、ロザリアは図らずも本音を漏らしていた事に気付いた。そして、それがどれだけ無意味な願望であるかも。
 この護衛兵気取りの面々が、屋敷の主である少女の父を警護するという名目で上がり込んで来たのはもうずっと昔の話しだった。それからというもの、ありもしない暗殺計画を体の良い言い訳に、嫌がらせとしか思えない干渉が頻繁に繰り返されていた。何度も相手に抗議したが、一向に改善される気配がなく、半ば諦めていたところだった。
 だが、今回の件は行き過ぎていた。思い出すだけで不快になる屈辱的な出来事に、心のたがが緩んでいたようだ。
 (この人には何の関係もないのに……これじゃ、ただの愚痴だわ)
 ロザリアは僅かに目を伏せ、気持ちを落ち着かせようとする。そして、
 「ごめんなさい。私が言いたかったのは、そういう事ではなくて――」
 視線を上げると、静かに見つめていたはずの青年が、いつの間にか居なくなっていた。
 ふと、何かが横切った気配に振り返ると、丁度、クライスが植え込みに横たわっていた『元』護衛兵の足を掴み上げた所だった。
 そして、重傷の人間をまるで頭陀袋のように引き摺り始める。
 「ちょっと、幾ら何でもそれは――」
 引き摺られる方の男は、蹴られた脇腹を抱えたままピクリともしなかった。彫刻にでもなったかの如く硬直していた為、気絶しているのかと思えばそうでもない。
 血走った眼球が、右へ左へ引っ切り無しに動いていた。それに、頬の筋肉が小刻みに震えているのは、何かを伝えようとしているからに他ならない。極寒の夜風に晒されているにも関わらず、その赤ら顔には、玉のような脂汗が浮かんでいた。
 ――――ゴツリ、と仰向けに運ばれる男の後頭部に、こぶし大の石のぶつかる音がした。だが、男はうめき声すら上げなかった。
 その姿に、屋敷の中で見た直立不動の監視兵が重なり、ロザリアは直感的に理解した。
 ――やはり、この人が何かしたのだ。
 「待って下さい!助けて頂いた事には感謝いたします。ですが、これ以上この方に乱暴しないで下さい、死んでしまいます!」
 少女は、自分に暴行を働いた人間を擁護した。表情の動かせない男が、その意見を肯定するように激しく瞬きを繰り返した。しかし、引き摺る方は全く気に留めた様子もなかった。
 「……人間は、この位じゃ死ねない・・・・・・・・・
 急ぎ足で横に並ぶ少女に向け、クライスが呟く。その透徹した瞳は何も見ていない。このまま男を地獄の底に突き落とそうが揺らぎもしない、そう確信させる空虚さだった。
 ところが、行き着く先は地獄ではなく、意外な程近場だった。


 屋敷の玄関が、轟音を立てて吹き飛んだ。それこそ、錠や蝶番もろとも、室内に向けて重厚な扉が勢い良く宙を舞っていた。
 銀髪の青年がそこにいた――悠然と蹴り足を畳むと、頭陀袋と化した男を引き摺り、がらんとしたホールに立ち入った。
 頭陀袋然とした男がいた――口を開くことすらままらなず、銀髪の青年にに引き摺られながら、只々目を剥くばかりだった。
 大きな瞳を猫のように丸くした少女がいた――我が家の玄関口が、まさに一蹴される様を呆然と眺めていた。扉とはノックするものではなく、蹴り付けるものだと言わんばかりの行いに、口を挟む隙もなかった。
 昼間に事件があった日の事である。夜も深い刻限だったが、屋敷に響く破砕音に、護衛兵が蜂の巣を突付いたように飛び出して来た。直ぐに明かりが灯され、ホールには総勢20名にもなる大人数が集まり、騒ぎの首謀者を取り囲もうとしていた。
 にわかに殺気立つ面々。対してクライスは、その様子を平然と眺めていた。いきり立つとか、怯えるとかいう感情は、どこかに置き忘れて来たようだった。
 「逃げてっ!」
 「おおっと、そうはいきません。お嬢様」
 ホールの正面、二階へ続く階段からネットリとした声が響くと、二階に配置された兵を引き連れ、一人の男が現れた。
 他の警備兵とは異なり、華美な軍服を着込んだ男の名はグラントと言い、アリストンの貴族にしてこの屋敷の警護責任者だった。
 「おい、そこの。器物破損の現行犯だ。昼間の一件も合わせて、今処罰を下してやるからな。この私が警護する屋敷に攻め入った罪は重いぞ」
 こけた頬に細長い目、そして綺麗に撫で付けた髪がまるで一匹の蛇を連想させた。酷薄な物言いも相まって、その印象を更に強くしていた。
 「お待ち下さい、グラント伯!この方は、私を助けて下さったのです!今の一件も何か理由あっての事!」
 「さて、如何なる理由があって『私の屋敷』を破壊しようというのでしょうかな?あまつさえ、我が騎士団の者にそのような暴行を加えるとは、如何なる理由があろうとも万死に値しますぞ」
 「それは――」
 更なる抗弁を重ねようとした時、ふわりと宙を舞う人影を見た。
 受身も取れず大理石の床へ叩き付けられ、男のうめき声が漏れた。先程まで一言も口をきけなかったはずの、ロザリアを襲った男の声だった。
 「話しはそいつに聞け。婦女暴行の現行犯だ……この国の兵士に、法というもの通じるのであれば、だがな」
 「貴様……我らを愚弄するか!」
 尊大な貴族には、事実よりも体裁を虚仮にされた方が癇に障るらしい。たった一言に、顔を真っ赤にして憤慨していた。
 「騎士長様!こ、こいつが言っている事は、全てでっち上げでございます!……我々は、お嬢様に少しばかり世情ってもんを教えて差し上げようとしただけでございます!!」
 「……ほほう、そうか。ならば、お嬢様も勘違いされていての事であろう。誤解は後々解くとして、今は貴様の責を問うのが先決のようだな」
 獲物を前に、グラントは蛇のように舌なめずりをした。もし、蛇が笑ったらこんな顔をするのだと思わせる表情だった。
 腹の中で薄々部下の虚言に感づきながら、ただ事実を闇に葬り去る算段を楽しんでいたのだった。そして、右手を上げて兵士達に構えを取らせる。
 「何をおっしゃいますか、グラント伯!この者の方こそ嘘を付いているのです!私が被害者であり証人です!」
 「知者曰く、末端が腐っている時、既に頭は腐っている――――か」
 それの一言が引き金となり、護衛兵達は一斉に両刃の剣を抜き、丸腰の相手に向けて突撃を始めた。半包囲されたクライスに逃げ場などなかった。
 「やめてぇ!!」
 押し寄せる人の波に、ロザリアは絶叫する――そして、翻る黒の外套を見た。
 ――グチャリと、何かが潰れる音がした。
 正面に立っていた護衛兵の鼻梁が、飛び膝蹴りによって砕けた音だった。トマトをペーストするように顔面が潰れ、果肉の代わりに大量の鼻血が絞り出された。
 それは、目にも映らぬ速さだった。周りの人間はおろか、攻撃された本人すら何をされたのか遂に理解する事はなかった。
 クライスは空中で崩れ落ちる男の頭を引き寄せ、その後頭部を蹴り付けると、その反動を利用して人の壁をあっさりと乗り越えてみせた。
 護衛兵達がようやく包囲戦に失敗した事を悟った時、クライスは既に二階へ続く階段へ差し掛かっていた。
 重傷を負っているのか疑わしくなる脚力によって、二階にいた面々が下るよりも先に踊り場へ辿り着き、勢いもそのままに、目を剥くグラントへ迫った。
 しかし、前方には上官を護ろうと兵士達が分厚い壁を成していた。階段の上下という足場だけで、クライスの不利は否めない。しかも階段の幅は豪邸と呼ぶに相応しく、再び包囲戦を強いられるのに十分な広さを備えていた。
 襲い掛かる最初の剣戟を紙一重でかわすと、今度は階段の手すりを足場に跳躍する。恐ろしく身軽な動きで二階の手すりを掴み、その身を廊下へ引き込む。
 そして再び目標へ向けて駆け出すと、軽業から一転、電光石火の回し蹴りが、正面の的≪兵士≫に向けて放たれた。
 その豪脚に、鉄製のプレートメイルを着込んだはずの人間が、軽々と吹き飛ばされた。更に、階段の前に陣取っていたのが災いし、玉突きの要領で後続の面々を巻き込んだ。
 雪崩落ちる人垣に、手すりが折れ、フローリングが凹み、古めかしい壷が砕けた。不幸にも階段から転げ落ちる者が出た時には、集団はいとも簡単に瓦解していた。
 その合間を縫うように、黒い影がすり抜けていた。グラントがその姿を捉えた時、驚きの声を上げる間すらありはしない。
 顔面を掴まれ、視界が奪われると同時に感じた浮遊感。自分が軽々と持ち上げられていると気付いた時、グラントは壁に叩き付けられていた。
 「ぐぅぇ!!」
 にわかに、玄関ホールは静寂に支配される。自分達の隊長があっさりと倒された現実を飲み込めず、使命を、命令すら忘れ呆然としていた。一階にいた戦況の見えぬ者ですら、空気に呑まれ微動だに出来なかった。
 「次はどいつだ?」
 翻って、鋭利な視線が隙だらけとなった面々に突き立てられる。明緑色の瞳に宿るは、紛れもない殺気。その気勢の前に、誰一人動ける者は存在しなかった。
 本来、騎士とはプライドの生き物だった。己が使命を全うする為、死すら厭わない覚悟と矜持を持った人間である。相手が何者であろうと、命令されてのこと以上に、引くことを知らなかった。
 しかも、相手はたった一人である。絶えず攻め続ければ、いつかは打倒出来るはずだった。
 だが、最初に対峙した者は確実に殺される――そう確信させる圧倒的な力量の差が、男達の足を地面に繋ぎ止めていた。
 それでも、たった一人――――そう、僅か一人でも前に足を進めていれば、集団は前に向かって進むはずだった。しかし、怖気付いた者が背を向けた。すると一人、また一人とそれに倣い出していた。
 こうなれば集団などあっけないもので、潮が引くように屋敷から逃走を始め、ものの数十秒後にはホールに寒々しい風が吹き抜けていた。
 その場に取り残されたロザリアは唖然とする。一体これは何なのか、訳が分からなかった。
 確かにあんな者達など『居なくなればいい』、そう思っていた。そう望んでいた。そう告げてしまった。
 だが、現実的には無理な事は百も承知していたのだ。それがどうだ、今この場にいる者と言えば、倒れ伏した騎士達と、あの銀髪の青年しかいないではないか。
 「こんな事って……」
 「後で、『賊が入った』とでも騎士団に報告しろ。迷惑を掛けた……すまない」
 銀髪の青年が、いつの間にか目の前に立っていた。ロザリアは咄嗟に、何か話さなければならないと考えたが、声にならず、口だけが魚のようにパクパクと開閉してしまう。
 見下ろした瞳は、荒々しい出来事の後とは思えぬ程透徹していた。そして、平然と、まるで何事もなかったかの様に淡々と話すものだから、つい見逃してしまうところだった。
 (……やっぱり、無理をしている)
 美貌と呼ぶに相応しい白皙の顔が、白さを超えて青ざめていた。ただ、病的な表情とは反対に、瞳の奥には熾烈な意思が宿されていた。
 銀髪の青年は、あらゆる苦痛や感情を、驚くほど強固な理性によって凍らせていた。
 そして、一方的に用件を伝え終えると、クライスは少女の脇を抜け屋敷の外へ向かって歩き出そうとしていた。
 「待ちなさい」
 呼び止める声は、扉を無くした玄関口から届く。
 そこに一人の中年紳士が立っていた。その重厚な声に相応しい渋みのある容姿には隙が無く、自然と威厳を感じさせる男だった。
 「……お父様?」
 「やぁロザリア、遅くなって済まない」
 「一体、何時だと思っているのですか!それでなくても今日は大変な日だったと言うのに!!」
 少女の激しい剣幕を笑顔で受け止めると、その姿をまじまじと見つめた。
 「話の概要は聞いているよ、災難だったな。だが元気そうで何よりだ」
 「お父様、何を平然としていらっしゃるのですか!!この状況を――」「お、お嬢様!旦那様!!……これはどういう事ですか?!」
 一呼吸遅れて、赤毛のメイドが割って入った。二階から叫ぶその表情は青ざめ、驚天動地の様相を呈していた。それも無理からぬ話だ。この惨状を例えるなら、部屋の中で嵐が生まれたようなものだった。
 玄関の大扉は何処かへ姿を消し、フロアのあちらこちらが破壊され、床には護衛の兵士達が転がっている。決定的だったのは、壁に頭を埋めている一人の男である。
 この国で騎士や貴族は権威だ。権威を敵に回して唯で済むはずがない。ましてその二つを同時に害したとあれば、にべもないだろう。
 生きているのか死んでいるのかも定かではない、その変わり果てた姿に、マリーは痛快や憐憫の念など三段飛ばしにして、途方もない眩暈に襲われていた。
 「さて、それは私も聞きたい所だ。説明してくれるかな?」
 「お、お父様!それは私の方が改めて――」「アンタの娘が、この屋敷の兵に襲われていた。俺はその禍根を断っただけだ」
 「……我が娘よ、それは本当かい?」
 驚きの表情を娘に向けると、娘もまた驚き、困惑しながらも頷く。
 初めてその事実を知った二人は、空いた口が塞がらなかった。あろう事に、騎士団の人間が護るべき対象を襲うという蛮行に、次の言葉が見付からなかった。
 壮年の紳士は、何事か暫し考えを巡らせ、そして口を開いた。
 「そうか、君はこの国の者ではないな」
 「……それが、どうかしたか」
 「騎士団を――この国そのものを敵に回して、どうなるのか分かっているのかな?君は明日の日も拝めないかも知れないぞ」
 それは脅しでも何でもない現実だった。この国を治める王が執念深く、権力に対する異常なまでの執着心は、他国にあっても知れ渡っていた。騎士団に楯突くという事は、権力に対する挑戦である。そんな行為がまかり通る隙間など、どこにもありはしなかった。
 「さあな。少なくとも、俺が何処で野垂れ死のうと、アンタには関係のない事だ」
 「……ふむ、命が惜しくもないか。ではその命を落とす前に、この屋敷の弁償だけでもして行きたまえ」
 「お、お父様!?」
 険しい表情で成り行きを見守っていたロザリアは、父親の物言いに耳を疑った。こんな時に、一体何を言っているのだろうか。
 「君、この有様を見たまえ。あぁ、まったく酷いもんじゃないか。あの壷に一体どれだけの価値があるか知っているな?この血で染みが付いた絨毯は、街に暮らす者が三年掛けて稼ぐ金額だ。それに彼が埋まっている壁だがね、これは隣国で古代王朝時代から技術を受け継いで来た職人に作らせた一枚絵だという事に気付いていたかな?後は――」
 トリスが損害目録を事細かく積み上げると、その額は雪だるま式に膨れ上がっていく。普通の暮らしをする者ならば、一生掛かっても払い切れない大きさだった。
 間接的とは言え、原因を作ったクライスはその価値に驚きを隠せない。ある程度なら、後で弁償しようと考えていたが、聞いたことも無い単位の額面に、底知れぬ海溝を見せられた気分になっていった。
 ロザリアは、最初こそ父の物言いに驚いたが、どこか楽しげに話す姿に違和感を覚えた。昔から物や金に拘りを持つ性格ではなかったのだ。
 何か別の意図があっての事だろうか――そんな事をロザリアが思案していると、一瞬、壮年の紳士が娘へ目配らせをする。
 「さて、金額にするとこれだけ君から貰わなくてはならない。この負債を抱えたまま君に死んで貰うと、私は非常に困るのだがね」
 「………………娘の貞操を護ってやった」
 クライスは考えあぐね、苦し紛れに切り札を切った。
 「なるほど、それは金で図り切れない価値があるな。では『この件』は、チャラとしよう」
 少女の父は、あれだけの拘りを見せていた割に、意外なほどあっさりと引き下がった。肩透かしも良い所だとクライスが油断した時、再び娘の方に目配らせをする。
 ――その時、少女の背中を電気が駆け巡った。
 「な、なら私の部屋を壊した件も責任を取って頂けますか?まだ窓も無くて、とても休めたものではありませんわ」
 絶妙なタイミングで展開される包囲網。その予想外の伏兵対して、クライスは反射的に顔を向けていた。
 「……あの化物から助けてやった」
 「私は気を失った貴方の傷を手当てして差し上げました」
 「…………」
 自分の言った事に緊張しているのだろう。頬を紅潮させていたが、膨らみ掛けた胸を張って毅然とした態度を取る。状況に振り回されていたはずの少女が、今は一歩も引かなかった。
 包囲網は更に狭められた。果たして、切るべきカードの無くなったクライスは、またも沈黙するしかなかった。
 クライスは余裕を見せる親子を眺めた。その容姿から、貴族特有の満たされた雰囲気が漂っていた。二人とも金が欲しくて手当てをしたり、引き止めたりする人種にも見えない。それだけに、この親子が一体何を考えているのか図りかねた。
 「ではどうだね、ここは一つ協力し合おうじゃないか。君がした件は私の方が何とかしよう。その代わり、君は私の元で働いて貰う――どうかな?」
 「旦那様!?」
 今度はメイドの少女の方が、驚愕の表情を露にした。それはクライスにとっても、耳を疑うような提案だった。
 「一体、俺に何をさせるつもりだ」
 「何、君になら簡単な事だよ――――私の護衛だ」
 更なる衝撃にクライスも瞠目する。護衛にするという事は、その相手に命を預けるという事だ。何の実績も、権力の後ろ盾すらない、昨日今日会ったばかりの人間を指名するなど考えれない。冗談で言っているのでないとするなら、この話の裏には必ず何かある。そう確信させる提案だった。
 「断る」
 「何故だね?それとも娘の部屋の修理代を出してくれるのかな」
 「これは金額の問題じゃない、アンタの命の問題だ」
 「私は君の力量を高く買っている。恐らく問題ないさ」
 クライスは簡単に内を見せない相手の態度に、微かな苛立ちを覚えていた。すると、完全に抑えこんでいたはずの渇きが暴れ、熱と吐き気を催した。
 不調に襲われると、感情に綻びが生じていた。表情にはその機微も出さなかったが、心に漣が立ち、一刻でも早く切り上げて、渇きを潤したい欲望にかられた。
 ――だからだろうか。単に固辞すれば良いものを、更に条件を付けることで、相手に諦めさせるような真似をしてしまったのは。
 「……アンタに騎士団と交渉する力があるとは思えない」
 「では、騎士団が君に手出し出来なくなれば、私の護衛を引き受けるという事だな」
 壮年の男は微笑を浮かべた。その僅か笑みには自信、というより何か確信めいた強さが秘められていた。姿を見せた時から今までのやり取り全てが、相手を油断させる為の演出であるかのような変化だった。
 (まさか……コイツは俺に、そう言わせたかったのか・・・・・・・・・・・?)
 「ああ失礼、まだ名乗っていなかったな。私はトリス=フォン=アルバディヌ。この国で評議会議員をしている者だ。この度は娘の危機を救ってくれてありがとう。心から感謝する」
 会話を操作された可能性疑った時は、既に遅かった。まさか、こんな所で最後の切り札が切られるとは――
 豪奢な屋敷といい、身に纏う雰囲気といい、名のある人物と予想はしていたが、まさか評議会議員だったとは思ってもみなかった。
 この国のあらゆる政策を司る最高機関、それが評議会であった。意思決定こそ国王にあるが、その立案・作成は評議会が全て担っている。言わば、彼こそ国家権力の中枢にいる一人であった。
 自己紹介がてら差し出された右手を眺める。
 ――握るな。必ず面倒事に巻き込まれるぞ。
 (ああ、分かっている。俺は面倒は嫌いだ)
 ――思い出せ。自分が今、何をするべきか。
 (俺の任務はこの国が抱える『脅威』を排除する事、それだけだ)
 決断は早かった。クライスは自分の目的に対して、最も効率の良い選択をした。
 二つの手が繋がった瞬間、二組の笑顔と二組の渋面が真っ向からぶつかり、それぞれの思惑が交差した。
 これが何の始まりとなるのか、この時は誰も理解などしていなかった。その予感すら感じ取れないまま、契約は交わされるのだった。



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