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第一章 01
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俺は、人を傷付けずに生きる術を知らない。
意識的に、或いは無意識に――俺に関わった人間を傷付け、そして殺してしまう。
自分を生かす為には、他人を殺すしかなかった。
だが、そうしなければ何一つ守れなかった。
数多の屍の上に、俺の進む道は造られる。
肉で埋められ、血で固められる道。その螺旋の描く先を照らすのは、世界を焼き尽くす煉獄の炎。
死に至る運命――それが俺に与えられた生き方なら、それで良い。
死にたい奴は関われば良いし、死にたくない奴は近寄らなければ良い。
――独りで生きよう。そう、心に決めていた。
けれど、この世界では、人はたった一人で生きられなかった。
常に何処かで、誰かと、触れ合わなければならなかった。
ならば、俺と関わらざるを得なかった者はどうなる?
選ぶ事すら出来なかった者は?
俺の願望に殺されなくてはならないのか――
本当は誰も、殺したくなかった。誰も、傷付けたくもなかった。
だが、そんな希望など現実を知らない子供の台詞だ。
この世界の前では、唯の絵空事に過ぎないのだ。
――――それでも俺には、それ以外に願う事が無かった。
俺は、一体何を守りたかったのだろう。
しがみ付いてでも守り抜こうとしたのは、本当にこの命だったのか。
それとも、目の前の命だったのか。
今の俺には分からない。
今の俺には――――
― 01 ―
昼だと言うのに空は厚い雲に覆われ、辺りは夜の様に暗い。まだ初冬であったが、既に初雪がちらついていた。
肌を刺すような冷気が漂う中、舞い散る雪を眺める少女がいた。ブルーヘイズの大きな瞳と、柔らかな曲線を描く蜂蜜色の髪が美しい少女だ。
歴史を感じさせる古い大きな屋敷の2階、壁面から大きく迫り出す様に設計されたベランダで佇む少女は、吐く息を白く染め、本格的に降り出す前の、まだ軽やかな雪を手に受け止めていた。眼差しは憂いを帯びていて、幼さの残る顔立ちに大人びた印象を与えていた。
「ロザリア様、その様な格好ではお風邪を引いてしまわれますよ」
部屋の中から、呆れた果てた少女の声が届く。
しかし、それはもっともな意見であった。幾ら部屋の中に暖炉があったとしても、外気に触れるには余りにも軽装だった。
ロザリアと呼ばれた少女は僅かに体を震わせていたが、それでも振り向けば、温かな微笑みを浮かべていた。
「……そうね。でも許してマリー。私、もう少しこの冷たさに触れていたいの」
マリーと呼ばれた赤毛の少女は、盛大な溜息を付く。こうなった時、この年下の少女≪ロザリア≫の意思の強さときたら、梃子でも動かないのだ。
だが、それで引き下がっていては、この家に仕える資格など無いのだと、彼女は理解している。予め用意しておいた上着をロザリアの肩にそっと掛け、
「ならば、せめて上着をお召しください、ロザリア様」
わざとロザリアの嫌がる話し方をするのだった。
「ありがとうマリー。でも此処には貴方と私しかいないわ。二人きりの時は、昔の様に呼んで欲しいと何時も言ってるでしょ?」
「覚えているわ。でも私はこの家の使用人で、貴方は貴族……幾ら幼馴染でも、きっちり分別を付けなければ、皆に示しが付かないわ」
「まだ硬い」
ここ数年続いているお決まりのやり取りだったが、ロザリアは形の良い唇を尖らせ、赤毛の少女を咎めた。マリーはわざとらしく溜息をつき、片方の眉を釣り上げた。
「あんまり私を困らせると、貴方にだけは冷えたスープを運ぶわよ?」
ロザリアはクスクスと笑う。気品溢れる笑みは、歴史ある家に生まれた者に相応しく、育ちの良さを表していた。しかし、その柔らかな表情がふと曇る。
「ごめんなさい。でもその位誰も気にしないわ。この家の人は、あの人達以外、家族の様なものですもの」
「……けじめは、けじめです」
マリーは無理に冗談を続けようとはしなかった。そして、ロザリアも黙ったまま、何も語ろうとはしなかった。ただ黙って隣に居てくれる幼馴染みとの時間を大切にしている様であった。
ところが、一分も経たない内に、後から来たはずのマリーが体を抱えて震え出した。ロザリアのより厚手の使用人着であったが、雪の中で作業する事は想定されていないものだから、凍えるのも無理からぬ話であった。それでも、赤毛の少女は外の景色をじっと見詰めながら黙っていた。
(マリーの非難の仕方って本当にずるい……)
「マリー、貴方って卑怯だと思うわ」
「何の事ですか?」
本当に自分の反応が分かりきっているのだ。ロザリアは、あくまでもシラを切る幼馴染が、少しだけ憎たらしかった。
心の内ではきっと勝ち誇っているに決まっている。その胸の内を暴いて他人に言い触らしたくなったが、自分を気遣っている事だけは間違いないのだ。優しさを向けてくれている人の気持ちを踏み躙れる程、傲慢にはなれなかった。
「……あと少しで下に行くから。もう少しだけ、時間を頂戴」
「分かりました。お早めにいらして下さいね。ローズ」
最後に譲歩案を引き出すと、赤毛の少女は幼馴染と侍従、両方の立場から返事を返す。その表情はどこか上機嫌だった。
マリーが震える体を抱えて部屋に戻っていこうとした時、ふとロザリアの目に光の反射が映った。
一瞬だけ、太陽を遮る真っ黒な雲と、視界一杯に広がる背の高いオーク木の境界で、何かが光った様に見えた。
(何?……錯覚かしら?)
少女は瞳を瞬かせる。けれど、幾ら目を凝らしても一向に変化は現れなかった。
やがて自分の見間違いなのだと納得しかけた時、今度はまた別の場所で光の点滅を見つけた。
――――違う、錯覚なんかじゃ無い。
更に離れた所で明滅したかと思えば、発光の間隔は徐々に短く、光量も強くなっていった。
「また光った……!ねぇマリー、あれは何かしら?」
部屋の方を振り向くと、既に赤毛の少女の姿は無い。本当は極度の寒がりであったマリーは、足早に持ち場へ戻っていた。その余りの素早さに、今度はロザリアの方が呆れてしまう。
「マリー、それなら中から呼べば――――」
誰も居ない部屋に向かって呟きかけた時、少女の脇を、何かが一瞬で通り抜けた。
視界に黒い物体を捉えた瞬間、その『何か』は窓を勢い良く突き破り、そのまま部屋の壁に激突した。
まるで大砲でも打ち込まれた様な衝撃に、部屋どころか屋敷全体が震撼した。
(一体、何が――――――)
慎重に部屋の中を覗くと、中は爆撃を受けたように酷い有様だった。
硝子の破片が一面に散乱し、大量の埃が舞い上がっていた。ベッドなど、足や枠が砕けていて、全体が傾いていた。凄惨な姿は暖炉の灯りが映し出す陰影に彩られ、廃墟の様相を呈している。
少女が息を呑んで見つめた先に、異物を見つける。それは壁にめり込んでいて、半分だけ姿を覗かせていた。
「え……?」
遠目からは分からなかったが、更に数歩近付く事で、その正体に気が付いた。
――――人だ。
壁に埋もれてピクリともしないが、確かに人間だった。項垂れて顔は見れないが、髪は銀髪、ズタズタになった黒い皮のコートを纏っている。体格からして男性の様だった。
一瞥しただけで十分危険な匂いが漂っていたが、更なる危険を示唆する様に、その手には鈍く光る長剣が握られていた。よく見ると、腕から伝った血が、握り締めた柄から滴り落ちている。
(やっぱり、怪我をしている……)
ロザリアは危険を承知で、更にもう一歩近付いた。
すると、踏み付けた硝子の音に男が反応した。少女を見上げるその顔は、まだ年若い青年のものだった。
線の細い顔立ちと、長く伸びた銀髪。そして、その前髪から覗く明緑色の瞳。印象は女性的でありながら、眼光は研がれた剣先の様に鋭く、精悍な兵士の様だった。
これだけの情報で、十二分に危険性を理解出来たはずだった。けれど、少女はその透き通った瞳の色に吸い込まれるように、足を進めていた。
「――――まない。後で……弁償、する……」
銀髪の青年は息を荒げ、苦しそうに一言告げると、今後は正面を見据えた。そして剣先を床に突き立て、ゆっくり壁から抜け出そうとしていた。
ロザリアは緊張を高めながら、更に数歩近付くと、二人の距離はもう手が届く位置まで縮まっていた。
「……貴方、大丈夫?」
「俺に、近付くな……!」
傷の状態を確かめるべく手を伸ばした少女を、銀髪の青年は拒絶した。それは眼光と同じ、いや、それ以上の、恫喝に等しい鋭さを持った響きだ。
刹那の躊躇い―― ――
少女の細い手は、宙を彷徨う。
瞳に宿る意思――――
再び、その手は伸ばされる。
まるで怯む事の無い少女の姿に、銀髪の青年の方が逆に驚きを見せたその時、
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
扉の向こうから、マリーの叫び声が飛び込んで来た。
扉を開けようとしていたが、激突した壁のすぐ隣にあった扉は歪んでおり、簡単には開かなかった。続いて、男達の声が集まって来た。どうやら、騒ぎを聞き付けた屋敷の警備兵が集まりだしているようだった。
「マリー!私よ!!」
「……ローズ!?ああ、良かった。無事なのね?」
「ええ、私は大丈夫!でも、怪我をしている人がいるわ!」
「……人?他に誰かいるの?」
(しまった。思わず……)
咄嗟に怪我人がいる事を喋ってしまったが、何と説明をしたら良いか分からなかった。何せ、この青年は空から降って来たのだ。ありのまま話そうものなら、相手の不安を煽ってしまうだけだ。
それに危険な人物で無い証明も難しい。下手をすれば、まともな治療もされず、そのまま連れて行かれてしまう可能性だってあった。
(――させない。そんな事、絶対させない!)
「ローズ?どうしたの?」
(でも一体、どうしたら……?)
「来る……」
「え?」
呟いた銀髪の青年は、冷気の差し込むベランダを睨み付けていた。
釣られてロザリアも振り返るが、そこは粉雪が舞い落ちるだけだった。考えを巡らせていたせいで、何か聞き違えたのだろうか。
確認しようとしたその時、突如ベランダに白い物体が降って来た。雪の様に音も無く、次々と着地した3つの物体は、人の様で人で無く、獣の様で獣では無かった。
仮面を被ったように無機質で真っ白な顔に、長い手足。全体的に人間の様な造りをしていたが、体毛が全く無い。それどころか、全身が白い金属のような外殻で覆われていた。しかも、獣の如く背を丸め、四つ足で立っている。
少女には、目の前に何がいるのか理解出来なかったが、無理からぬ話だ。そもそも生物であるかどうか、そんな根源的なところから問い合わせなければならないだろう。
ソレは、ぐるりと首だけを回してこちらを見詰めた。人間にはまず不可能な滑らか動きに、ロザリアはうっかり悲鳴を上げそうになった。
「ローズ!答えてっ!」
緊張を破るマリーの叫び声を皮切りに、白い物体が室内へ駆け込んで来た。
野生の獣の如く疾走し、牙の代わりに備わった金属の長爪≪敵意≫を剥き出しにする。
その中の一体が、距離5mはあろう位置から、銀髪の青年に向けて飛び掛かった。
しかし、その撓る腕が届く前に、金属の激突音が室内に響く。それは、仮面の様な顔を、剣先が突き破った音だった。
壁に埋もれていたはずの青年が、無拍子で繰り出した『突き』は、仮面の眉間から後頭部まで一気に付き抜けて、敵の動きを止めていた。
隣にいた少女には、その剣技の結果のみ辛うじて見えたが、動いている時間は見事に切り落とされていた。
間を空けず、動きを止めた一体の右側面から、今度は別の個体が襲い掛かって来た。
銀髪の青年は素早く剣を引き抜き、上段より襲い来る金属の長爪を受けると、そのまま剣身を滑らせる。
擦れ合う甲高い金属音――その耳を突く音が途切れると、握った剣を振り上げた。
天を突く勢いで上る剣線――そして手首を返すと、今度は目にも留まらぬ速度で振り下ろす。
一瞬にして上下段の剣戟を受けた白い物体の体に薄っすら線が入ると、次の瞬間、頭と胴とが、滑らかな切り口を滑り落ちた。
驚いたことに、その切り口からは血では無く、大量の光が溢れ出していた。
最後の一体は、銀髪の青年ではなく、棒立ちとなったロザリアへ向かっていた。
抵抗の有無を確認せず、何の躊躇いも無く繰り出される凶刃。何の意味も、理由すら分からずに、少女の命は刈り取られようとしていた。
剣を振り切ったばかりの青年は動けない。いや、動こうとしなかった。
見開かれる少女の瞳。突き出された金属の長爪。そして、少女の頭部が串刺しにされようという、まさにその時――
突然、白刃が少女の眼前でピタリと止まる。
動きを止めていたのは、糸の様に細い線だった。濡れた血の輝きを放つ線が、いつの間にか、白い外殻の隙間に入り込んでいた。
完全なる静止――だが、それも一時凌ぎにしか過ぎない。敵は獣の様に身震いをさせると、線は脆くも千切れてしまう。
しかし、その僅かな時間は、銀髪の青年にとって十分過ぎる間であり、隙であった。
白い物体の背後から、長剣が仮面の脳天目掛けて打ち下ろされる。
頭部に衝突しても収まらない剣戟は、ロザリアに迫った金属の爪の更に近く、鼻先を掠めるように切っ先を走らせ、金属質の体を一気に下腹部まで切り裂いた。
二つに裁断された体から、またも大量の光が溢れ出していた。少女はまじまじと、その不思議な現象を目の当たりにする。
部屋中を照らす光の礫の中に、剣を振り下ろしたままの青年の姿を見る。
暖炉の炎に揺らぐ影と、剣の輝きが強いコントラストを描き出したその姿は、世にも恐ろしい場面にも関わらず、美しくすらあった。
それは一瞬の邂逅だった。時間にして二十秒にも満たない長さだろう。銀髪の青年は、たったそれだけの時間で、3体の未知なる存在を葬り去っていた。
非日常の連続を、を何一つ受け止める事が出来ずに呆然となる少女。だが、扉の外で騒ぎ立てる声に、にわかに思考が回転し出す。
「早く、此処から離れろ」
「お嬢様っ!こちらから扉を破ります、離れて下さい!」
扉の内外から異口同音の警告が発せられるが、従おうにも外へ通じる扉は閉ざされ、部屋の中には光を放ちながら痙攣する敵がいた。遠ざかるに遠ざかれず、近付くに近づけないこの状況で、一体何処へ行けと言うのか。
折角回転し出した思考回路だったが、今度は噛み合わない歯車に空回りを始めていた。
「マリー、少し待って!――それに貴方も……今、かなり混乱していてて、何をどうしたら良いか……」
「俺から離れろっ!」
考えを整理する間も無く、ロザリアは激しく突き飛ばされた。
訳も分からず、傾いたベッドに倒れ込む直前、暴挙の張本人が何かに向かって剣を構える姿を見た。
見開いた少女の瞳が瞬きをすると、その姿が再び眼前から消えた。だが、銀髪の青年は敵に向け、目にも留まらぬ速度で突進した訳ではなかった。
間髪入れず訪れる破砕音――そして衝撃。一度目に勝るとも劣らない、砲撃を彷彿させる爆音が耳朶を打った。
実際のところ、大砲との違いと言えば、打ち込まれた弾が『鉛か人間か』程度の差でしかないだろう。
――弾丸の正体は、銀髪の青年だった。
何か見えない力に打ち据えられ、その体が目にも留まらぬ速度で吹き飛んでいた。その勢いは、一度目の衝撃で半壊していた壁はおろか、廊下を挟んだ先の部屋の壁までぶち抜いていた。
普通の人間ならば、疑いようも無く即死だろう。風通しの良くなった隣の部屋は灯りがないので、当の本人がどうなったかは知る由も無い。
だが、間違いなく唯で済むはずが無い。良くて虫の息ではないだろうか――少女は自分の部屋に空いた大きな穴を悄然と眺めながら、無意識にそんな絶望を抱いていた。
一体何が起こったのか、少女はその原因を壊れたベッドの上から見つけた。確証など何も無い。だが、間違い無くソレの仕業だと確信する。
ソレは音も気配すら無く、忽然とベランダに佇んでいた。
その外見は先程の存在と同様、見た事も無い『人』だった。だが、果たして『人』と言えるのだろうか。
似て非なる存在――――先程の敵と異なり、二つの足で立っている。頭髪は緩やかな曲線を描き、金色の輝きを放っている。白い外殻などではなく、ゆったりとした長衣を纏ってりる姿など、一見するとそれは人のものだった。
だが人との決定的な違いは、光り輝く髪から覗く、仮面の様に無機質な白い顔。そして、背に生えた2対4枚の翼である。
それは、人の存在を超えた聖典に描かれたる天使を連想させた。
だが違う。違うと断言出来た。何故なら、その仮面の双眸には眼球というものが存在せず、唯、底知れぬ深さの闇が埋まっていた。
あらゆる存在を飲み込む闇を湛えた人間等居ない、まして神の使いに在ってはならない。では、視界に映るアレは何なのか。
矢継ぎ早に起こる変化に、少女の中で収まる事の無い混乱が、輪を掛けて広がりを見せた時、
――――風?
部屋の奥から、風が吹き付けて来た。その風は質量を持ったかの如く、重く、肌に纏わり付いて来た。
ロザリアが思わず室内を振り返ると、奥は重厚な気配に支配され、完全に異界と化していた。周囲の空間どころか、暖炉の橙色の灯りすら貪欲に飲み込み広がる黒い風。それは煙でなく濃密な闇だ。本来なら光によって暴かれるはずの闇が、反対に光を喰らっていた。
そして、更に密度の濃い常闇が、じわりと生き物の様に、絨毯を這いながら迫って来た。
空間に在るもの全てを飲み込み、少女も腹に収めようとしたその時、動きがぴたりと止まる。次の瞬間、それが幻であったかの様に常闇は霧散した。
全て飲み込まれたはずだが、よく見れば消えたものなど何一つ無い。数秒前と同じく、無残に壊れた部屋の残骸が変わらずそこにあった。
少女は眼を擦り、これが現実である事を確かめる。その時、ふと別の事実を思い出し、ベランダの方へ目をやった。
しかし、そこにあの天使の姿を模した者はいなかった。気付けば、床に転がっていたはずの白い物体も無くなっている。
「……これは現実、よね?」
誰に向けて問うたのでも無い呟き。それと同時に、扉が蹴破られ、兵装の男達が雪崩れ込んで来た。そして、その中に赤毛の少女≪マリー≫を見つけてロザリアは安堵し、反対に、ロザリアを見つけたマリーは、青ざめた表情で駆け寄って来た。
「ローズ、この血は何!?怪我をしているの!?」
「…………血?」
そう言われたところで、ちっとも相手の驚きようが頭に入らなかった。
まるで異国の言葉を翻訳するように、マリーの視線の先を追いかけ、初めてその原因を知った。
自分の服に、血痕が飛び散っているのではないか。特に胸の位置にはくっきりと残っていて、それが丁度、突き飛ばされた辺りだと思い至ったその瞬間、弾かれるようにベッドから飛び降りた。
騒然とする部屋の中で、ぽっかりと空いた穴の方には既に人だかりが出来ていた。男達を押し退けて進むと、青年が黒い外套の胸座を掴まれ、穴の奥から引き摺り出されている所だった。
「何て事を……!!」
まるで犬か猫の死体を運ぶかのような扱いに、ロザリアは激怒した。
だが青年はぐったりとして抵抗を見せない。もしかすると、本当に死んでしまっているのではないかと危惧したが、胸で浅く息をしているのが分かると、周囲の警戒心など意に介さず、少女は飛び出していた。
「しっかり!!すぐ、お医者様を呼びます!」
「なりません、お嬢様。この輩は屋敷へ不法に進入し、部屋を破壊し、あまつさえお嬢様の命を危険に晒したならず者です。即刻、騎士団に突き出すのが妥当でしょう」
警備兵の兵装とは異なり、煌びやかな軍服を来た若い男が異議を唱えた。
その甲高い声は、尊大な物言いも相俟って耳障りであったが、相手が相手だけにロザリアは出来るだけ慎重に対応せざるを得なかった。
髪を丁寧に撫で付け、蛇の様な顔付きをした男は、屋敷の警備を指揮する貴族だった。
「グラント卿、この方は私の命の恩人です。幾ら疑わしかろうとも、アルバディヌ家は恩人に対して非礼を返す術を知りません」
「疑惑があるからこそ、取り調べる為に引き渡すべきでしょう。我らが取り仕切っても一向に構いませんが……人一人分の穴を掘るのは、結構な手間なもので」
グラントは、拷問をして真相を吐かせるより、墓穴を掘る方が厄介だと嘲笑った。
その顔の何と醜悪な事か。弱い者をいたぶりたくて、今にも舌なめずりをしそうな雰囲気に、全身が粟立った。
「ですが、このままでは城へ着くまでに息絶えてしまうやも知れません。真相を確かめる為にもまずは治療し、その上で引き渡すべきです」
「我が国では、法を犯した者に治療を受ける権利はありませんが?」
「ですから、まだ法を犯したと決まった訳ではありません」
屋敷の主と、その警護を任された者の間で議論が紛糾すると、周囲が静かな緊張感に包まれた。下手に口を出せば自分の立場が危うくなるだけに、皆、押し黙っていた。
終わりの見えない水掛け論が繰り広げられる中、状況を見かねたマリーが、尻窄みした男達より一歩前に出た。
「差し出がましい事ですが、グラント様。今から騎士団に連絡を入れてたとして、引き渡すまでどんなに早くとも2時間は掛かりましょう。何もせず、その間に死んでしまっては、騎士の方々に無駄足を踏ませる事になってしまいますわ」
グラントは蛇の目を細め、権力に関わる算段を始めた。
「……それ位、分かっている」
「それに、その時はあちらから文句の一つもありましょう。"始めから教会の者を呼べ"、と」
人が死んだ場合、死体を引き取るのは、形式上葬儀を取り仕切る教会の役割であった。犯罪を立証する場合、引き取るのは遺体の検分をする騎士団となるのだが、ロザリアの言う通り、現段階では疑惑があるだけである。よしんば、立証された所で罰を受ける者が死んでいれば、そこに至る労力を費やす事が無益となる所か、マイナスに作用し兼ねない。
反対に、得られるものは何か――――
どれだけ考えても、グラントにはリスク以上の価値が見出せなかった。
「ならば如何でしょう、騎士団の方々をお呼びしてその間に我々だけで――」「もう、良い!」
あちらこちらに考えを巡らせ過ぎて、整理し切れなくなったグラントはついに考えを放棄した。
「そなたの見識は良く分かった。それに……ロザリア様の意向もある。早々に治療の手配をするが良い」
グラントは適当な言葉で体裁を取り繕うと、面倒事をマリーに押し付けて部屋から立ち去っていった。やり場の無い怒りは、一歩後ろに引き損ねた部下達に対して、暴言となって浴びせられていた。
やがて兵士達は互いに顔を見合わせ、バラバラと元の配置に戻ろうとしていた。マリーは素早くその中の一人を捕まえ、
「私だけでは運ぶ事が出来ませんの。どうかお手伝い頂けないかしら?」
上目遣いでにっこりと微笑んだ。ソバカスの目立つ顔は取立て美人というわけでもなかったが、明るく爽やかな笑顔が良く似合っていた。
声を掛けられた男は嫌な顔一つせず、運び出すのを手伝った。その様子を眺めていたロザリアは、変わらぬマリーの手際の良さに唯々感心していた。
貴族という権力に立ち向かう度胸に、一瞬にして人を動かす頭の良さ、自分の魅力を活かす振る舞い。自分には無い器量の良さに、憧れすら抱くのだった。
「助かったわ、マリー……私が男性なら、迷わず貴方を妻に迎えているわ」
「まったく、何を言ってるの貴方は……」
マリーは自分がどれ程気苦労をしたか、とことん説教をしてやりたくなったが、惚けた台詞にすっかり毒気が抜かれてしまった。
どうしても憎めない。容姿だけでなくその心も、万人に愛される力を持っているのだ。マリーはそんなロザリアの個性が、少しだけ羨ましかった。
そして、三度目の大きな溜め息をつくと、襟を正して気持ちを切り替えた。
「何があったのか、全部話して貰うわよ」
何から話せば良いか分からなかったが、ロザリアは年上の少女を信頼し、自分の知り得る事、感じた事を漏らさず伝えるのだった。
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